五章3
とつぜん、突風が吹きぬけていった。
ワレスは蜂蜜色の夢のなかに立っていた。あの妖しいまでに美しい森に。
「これで契約破棄だな。おれの願いは叶えられなかった」
魔神がいる。琥珀のなかに金色の虹彩のある宝玉のような目には、つまらなさそうなトーンがあった。
「愚かなことをしたな。なぜ、そんなことを? おまえも、おまえの今の恋人も、私と同化してしまえば、誰にも殺すことはできなくなるのに」
「悪魔になってまで生きたくない。おれは人間なんだ」
「それは違う。思いだせ。ワレス。私とすごした、あの日々を」
「……なんだって?」
「おまえは美しかった。神聖で冒しがたく、孤独で……そして、かなり頑固で石頭でもあったが、そんなところも私は好ましく思っていた。以前のおまえには魔神の私を受け入れることはできなかっただろう。だが、今のおまえなら、きっとゆるしてくれる。そうだろう? ワレス」
「やめろ。優しい顔で近づき、甘い言葉で誘惑する。それが悪魔だ。おれをだまして言いくるめるつもりだろうが、そうはいかない」
そう言いながら、ワレスは知っていた。アンドソウルが嘘をついていないことを。なぜかはわからないが、ワレスは彼を知っている。彼と笑いながら話したこともあると、心のどこかで記憶していた。
魔神は物悲しいような目で、ワレスを見ていた。しかし、声は冷酷だ。
「もう一度だけチャンスをやる。私のものになれ。今のおまえでは、私には太刀打ちできない。それはイヤというほど理解したはずだ」
ワレスはまっすぐ魔神を見た。にぎった手のなかに、あの玉があった。瀕死のロンドが渡してくれた玉……。
「断るッ!」
ワレスは玉をなげつけた。歌声が森じゅうに響きわたる。聞く者の心を自在にあやつる、セイレーンの歌声が——
アンドソウルは聞き入った。その声の甘美さは魔神さえも酔わせる。
瞬間、ワレスは彼に切りつけた。魔神の心臓に
「……おまえは、また、私を殺す……のか? シ……ス……」
かすかな声が風にただよう。
気がつくと、ワレスは砦の自分の部屋にいた。夜着を着て、寝台によこたわっている。
おだやかな朝だった。
「おはようございます。隊長」
ハシェドが笑って声をかけてくる。アブセスも、クルウも、そこにいた。
(おれは……帰って、きたのか?)
契約が破棄されたので、契約成立前の時間に戻ってきたのだ。あの夢は夢ではあったが、たしかに現実でもあった。その証拠に、ワレスの足は森のなかを歩きまわったように泥でよごれていた。
(アンドソウル……)
彼は死んでいない。
それは直感的にわかっていた。ワレスが切ったのは、彼が思念の力で作りだしたまがいものにすぎない。本体は今でも、どこかで生きているはずだ。
(おれは、いつかまたきっと、あなたに会うことになる)
そんな気がする。
「どうしたんですか? 隊長。ぼんやりして」
「ああ。なんでもない。変な夢を見たせいだ」
「そういえば、おれもおかしな夢を見たような。もう忘れてしまいましたが」
あれほど壮絶に愛をたしかめあったのに、ハシェドは忘れたという。
でも、それでいいのだ。今ここにハシェドがいてくれるだけで、涙があふれそうに幸福だった。
(生きていてくれるだけでいい。それ以上は望まないよ)
背中から、鏡映しの文字も消えていた。ワレスは一人で文書室にむかった。
「いらっしゃーい。ワレスさまぁ」
ひっついてくるロンドに、今日は怒る気がしない。
(アンドソウルはおれの心が彼を呼んだと言った。ハシェドを失いたくないという、おれの心が)
万人の命にかえても、ハシェドが欲しい。
おのれの罪深さに、ワレスは嘆息した。
「信じてくれるかどうかわからないが、おれは昨夜、砦の危機に遭遇した。忘れないうちに書きとめてくれ。その上で、それを夢だというなら、それでもいい」
空の青さが、目にしみた。
第七話『鏡映しの文字』完
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