二章

二章1



 しばらくは、なんの変化もなかった。

 ワレスは闇の盟約におびえつつ、これまでどおりの生活を送ることができていた。


「ワレス隊長。近ごろ、元気がありませんね」


 夕刻からの塔内の見まわりを終え、寝室に帰ってきたとき、ハシェドが案ずるように言った。


「やっぱり、その背中の文字のこと、気にしているんですか?」


 ワレスはムリに笑った。

 この文字が悪魔との契約文であることを、まだ誰にも告げていない。魔法使いがお手あげだったのに、部下たちに告げたって、いたずらに不安にさせるだけだ。


「いや、少し疲れているせいだ」

「そうですか? このごろまた魔物の横行もありますし、大事にしてくださいよ」

「ああ」


 まったく砦に休むヒマはない。ブラゴール皇室にからんだ政変事件、本丸をさわがせていた女の亡霊、異常な行動をとるネズミの事件——先月、先々月と大きな事件が続き、ようやく落ちついていたところだったのに。


「今度の魔物は人の血を吸うらしいな」

「はい」


 まだワレスの隊で被害は出ていない。こういう話はたいてい、ブラゴール人の情報網を利用して、ハシェドがまっさきに聞きだしてくるのだが、今回は違っていた。

 最初に聞いてきたのは、アブセスだ。造形の美しいユイラ人らしく、それなりに整ってはいるが、いたって平均的。おとなしそうな顔をしたアブセスが、このときばかりは得意げだった。正規隊にいる友人が教えてくれたのだと言って、告げたのが二日前。


「血だけでなく、人の肉も食べるそうです。死体は必ず心臓がぬきとられているのだとか」


 かわいたばかりのシーツで、ワレスのベッドをメイキングしながら、アブセスはそう言った。


「そう言えば、第三大隊のアダムも、そんなこと言っていたな。今度のやつは行動範囲が広いらしい。我々も気がぬけないな」


 おだやかな夜。

 あの日もこうだった。

 あの夢を見た日。あのときもこうして、ハシェド、アブセス、クルウ。気に入りの三人の部下と、たわいない話をして眠りについた。

 いつまで、こんなふうに安穏としていられるのだろう。悪魔と契約してしまったワレスに、あと幾夜、こういうひとときがゆるされているのだろうか。


「アブセス。もういいぞ。あとは、おれがする。おまえもここに来て、寝酒を一杯どうだ?」


 ワレスは円卓にアブセスを呼んだ。皇都から商人を使って特別にとりよせている、上等な酒を気前よくそそいでやる。


「よろしいのですか?」

「ああ」


 アブセスは謙虚に近づいてきて、捧げもつようにして杯を受けとった。

 ワレスは自分より五つは若いこの青年を見ると、可愛い飼い犬のような気がしてくる。よくも悪くもバカ正直で、やることなすことだ。


「おまえみたいなやつが、なぜ砦に来たんだ。それも、乱暴者の多い傭兵になど。わからないな」

「私の実家は砦に近い国境ぞいの町なんです」


 ユイラ皇帝国の厳密な国境は、ワレスたちの守る砦と、魔族の森とのあいだだ。アブセスの言う国境とは、安全な国内側の森にもっとも近い町村のならぶラインのことである。


 国内側の森は危険のない樹木を植林されて、二千年あまりをかけて作られた人工の森だ。しかし、その内にあるのは点在する砦だけ。人が密集して住むのは、ずっと西。国内の人間たちは、そこと人工の森の境を国境と呼ぶことがある。


「ああ。セーフティボーダーというやつだな」

「そうです。セーフティボーダーぞいの町や村では、ほかの土地にはない気質や風潮があるんです。男は必ず砦で兵役につかなければ、一人前と認めてもらえません。そのさいにも国内の森を守る森林警備隊や、輸送隊なんかよりは、最前線の砦で兵士になるほうが、勇敢だと言って賞賛をあびます。ましてや危険なことで知られる傭兵になれば、私の町ではちょっとした英雄です。私も二十歳になりましたので、どこかで兵士にならなければなりませんでした」

「そういうことか」


 危険な砦に一万人以上ものユイラ人が、よく志願するものだと、前々からワレスは疑問に思っていた。それで謎が解けた。


 たしかにボーダーぞいの町で一泊したとき、街路には兵士が大勢いた。街並みも堅固で、ほかの地域とは異なるふんいきだった。輸送隊の拠点もあり、砦へ送る物資が集められる。町の九割がたの人間は輸送隊を相手に商売をしている。兵隊がとても大事にされていた。


「私は町の英雄になりたかったわけじゃないんです。が、実家は商売をしているので、跡取りの私が長期間、家をあけているわけにはいかないんです。正規兵は訓練期間をたすと三年。森林警備隊はさらに長くて五年の兵役です。その点、傭兵ならいつでも好きなときに辞められます。一年と自分で期限を決めていました」

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