ロンドの草稿 その九 1



 幸福な学生時代は終わりを告げた。


 学園祭で入賞し、皇帝陛下の御前で歌ったこと。

 寮をぬけだして夜の都へくりだしたこと。

 アストラルの実家に招かれたときの、なごやかで家庭的だったようす。

 旬末の休みのたびに通って、仲よくなった二枚目俳優。

 宮廷の敷地にある、十二の神殿で鳴らされる鐘の音でめざめる朝。

 大勢でする試験勉強や、ゲームの楽しさ。

 すべてが幸福だった、あのころ。


 グレウスは十九になっていた。

 握手をして級友たちと別れた卒業式。


「悔しいけど、君には完敗だ。グレウス。四年間を君とすごせたことは、僕の一生の宝だ」


 アストラルの目には涙が光っていた。


「どうしても帰るのかい? 君なら宮中でも花形になれるのに。君の歌声をたいそうお気に召して、陛下がお側仕えにと望まれたそうじゃないか。断るなんて、もったいない」

「僕には……領地を守る義務があるからね」

「残念だ。君と別れるのは。また皇都へ来たときには、ぜひ僕の屋敷にもよってくれ。必ずだよ」

「もちろんだとも」


 そう言いながら、たがいにわかっていた。おそらく、もう二度と会うことはないと。同じ皇都の貴族ならともかく、遠く離れた地方の領主が、用事もなく皇都まで出向くことなんてないからだ。


「みんな、グレウスのために校歌を歌おう」


 クラス全員で合唱した。

 もちろん、最後はグレウスの独唱だ。

 グレウスはみんなに惜しまれながら、家路についた。


「もうあの並木道を歩いて校舎へ通わないなんて、不思議な気分だ。あのまま、ずっと学生でいるような気がしてた」


 帰りの船のなかで、オスカーが言った。

 オスカーはそのころには、すっかり背が伸びて、グレウスより高くなっていた。ならぶと肩幅もあって、なんとなく、グレウスはドキドキする。そういうグレウス自身も、街を歩けば女たちがふりかえるのだが。


「僕は君がいなければ、今ここで湖にとびこんでいるところだ。オスカー」


 明るい光に満ちた四年間の学生生活は、いやがうえにも生家での暗澹あんたんたる暮らしの影を濃くする。もうどこにも逃げ場はない。これが終われば、またあの学生寮に帰れるのだという夏休みとは違う。今度の長い休みは、永久に終わることはない。


 グレウスは帰路のあいだじゅう、憂鬱にとらわれていた。ふさぎこんだグレウスを、オスカーは案じた。が、グレウスにできるのは、むりに笑ってみせることだけ。


 そういうとき、グレウスはふと死んだ祖父を思いだす。

 いつも祖父がおだやかに見えたのは、ほんとは絶望していたからではないだろうかと。


 今の自分は祖父に似ている。激しい生命を燃やす気力は、もう残っていない。ただ静かに、運命が自分を流していくのにまかせていた。ときおり気休めに自分を傷つけて、あふれる血をながめては、生きていることを確認していた祖父のように。


「おかえり。グレウスや。待ちくたびれましたよ。この日が来るのを」


 代々の当主の囚われの城に、グレウスは帰ってきた。出迎えの母の言葉が死刑の宣告に聞こえる。


「母上もおかわりなく、あいかわらず、お美しい。キスをさせてください」


 グレウスの言いまわしに、母は一瞬、目をみはる。それから、頬を紅潮させて抱きついてきた。


「まあ! おまえったら、半年見ないうちに、お父さまそっくりになって。もう坊やなんて呼べないわね。お帰りなさいませ。伯爵さま」


 母がグレウスの頬に何度もキスするのを、エスリンが見つめている。もちろん、エスリンも同じ船で皇都から帰ってきたのだ。


「母上。そんなにたくさんキスしてくださらなくても、これからは毎日できますよ」

「まあ、そうね」


 その夜のことだった。

 就寝前にエスリンの寝室へ、おやすみのキスをしに行く。すると、おとなしいエスリンが、その日は強い決意を秘めた目をして、ふるえる声で、グレウスをひきとめた。


「グレウスさま。お願いです。わたし、十七になりました。もう子どもじゃありません。どうか、あなたの妻にしてください」


 来るときが来たという感じだ。四年も待たせたのだから、エスリンの申し出は当然だ。それでも、グレウスが渋っていると、エスリンは薄い夜着一枚で、グレウスにしがみついてきた。


「わたし、不安なのです。あなたがお母さまと話していらっしゃるようす。まるで恋人同士のようで。バカなことを言うとお思いでしょう? でも、あなたはわたしに優しすぎて、なんだか妹みたいなんですもの。本物の愛情ではないようで」

「エスリン。落ちついて。私は決して……」

「いいえ。いいえ。お願い」


 グレウスは胸に押しつけられる彼女のやわらかさに鳥肌立った。思わず、エスリンをつきとばす。


「グレウスさま……」


 寝具の上になげだされたエスリンが、グレウスを見て泣きだしてしまう。グレウスは我に返った。あわてて、彼女をなだめる。


「すまない。エスリン。今日は長旅で疲れているんだ。また今度……その、必ず近いうちに……」

「ほんと?」

「ああ」

「約束してください」

「約束、する」


 口から出まかせだが、しかたない。


「だから、今日はもうお休み」

「はい……あの」

「何?」

「愛していると、言ってくださいますか?」

「愛しているよ。エスリン」


 エスリンに接吻して、グレウスは彼女の寝室から逃げだした。


(母上のことがなければ、私は彼女を妻にしていただろうか?)


 欲望がないわけではない。

 よく学友たちとのふれあいのなかで、とつぜん、それを感じて困ることがあった。

 顔立ちのきれいな下級生から恋文を渡されたとき。剣の試合のあと、みんなで抱きあって勝利を喜びあったとき。寮の寝室で、さきに眠ってしまったオスカーを見たとき。あるいは浴室で……。


 グレウスはため息をついて、自分の部屋へ帰った。

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