七章

その九



 文書室に入ったワレスは、いつものロンドの出迎えがないことに、まずホッとした。

 だが、油断はならない。安心していると、どこからともなく現れて、へばりついてくるからだ。


「ロンド。いないのか?」


 あたりを見まわしながら声をかけても返事はない。


「今日は治療担当なんじゃないですか?」と、ハシェド。


 ワレスは心から安堵した。

「いないのならしかたないな。ほかの誰かに頼むとしよう。この前のスノウンという男はよかった。まともでふつうに話せる」

「隊長。そんな、あからさまに喜んじゃ、ロンドがかわいそうですよ」

「かまうものか。どうせ、いないんだから」


 制服のせいで、司書はどれも同じに見える。周囲にうろついている彼らのどれに声をかけようかと、ワレスが考えていると、


「隊長」

 ハシェドが袖をひっぱってくる。


「なんだ?」

「あれじゃないですか?」


 指で示されて、見ると、本棚のかげから顔半分というか、灰色の頭巾を半分、のぞかせて、こっちを見ている司書がいる。ワレスたちの視線に出会って、すすす、と頭をひっこめるようすが、どう見てもロンドだ。


「いたのか」


 ワレスは舌打ちをついた。


「いるなら返事しろ。抱きつかれなくて、こっちは助かったが」


 近づくと、ロンドは本棚にへばりついたまま、ものすごい速さであとずさった。海辺で朽ちた釣り船の底にひっついたゴカイのようにというか、ちょっとビックリするような身のこなしだ。


「おいおい、なぜ逃げる。おかしなやつだな」


 一歩ふみだすと、そのぶん、またうしろにとびすさる。豪を煮やして腕をつかまえようとすると、悲鳴をあげてしゃがみこんだ。


「いけませんぅ。わたくしにさわっちゃ、ダメ」

「……ハシェド。こいつをなんとかしてくれ。おまえの言うことなら聞くかもしれない」


 ハシェドも首をかしげつつ、かたわらにやってきた。


「ロンド。何かあったのかい? えーと……病気かな?」


 すると、わっと泣きだして床につっぷしてしまった。正直、手のつけられない感じだ。


「優しくしないでくださいぃ。わたくし、わたくし、いけない女なのですぅ」


 ワレスとハシェドは顔を見あわせて肩をすくめる。

 そこへ、もう一人、別の司書がやってきた。


「ご用なら私がうけたまわりましょう」


 頭巾の穴から黒い瞳がのぞいている。声も初めて聞くから、先日のスノウンではない。いやに太いダミ声だ。魚河岸うおかしの商人のような声は、魔術師のイメージからはほど遠い。そのせいか、ごく人間くさい印象だ。


「おれはどっちでもいい」


 ワレスが言うと、ロンドの泣きまねが激しくなった。


「うるさいな。静かにしろ」


 さらに言うと、その瞬間だけピタリと静かになって、ロンドは泣きじゃくりながら奥へ走っていった。


「おかしいのは毎度だが、今日のは少しようすが違うな」


 嘘泣きではなく、ほんとに涙が出ていたようだ。


「心配なんでしょう? 隊長」というハシェドに、

「なんで、おれが、あんなゴカイの親戚を心配するんだ? まとわりつかれなくなれば、万々歳だ」

「素直じゃないんだから、隊長は」

「だから、おれを勝手に善人にするなと、いつも」


 クスクスとハシェドが笑う。

 まったく、ハシェドにはかなわない。惚れた弱みというやつだ。


「わかったよ。あとでもう一度、ようすを見に行く。ところで、おまえの名は?」

 後半をダミ声の司書に言うと、男は答えた。

「ジュール・ドゥールと申します」

「ジュール・ドゥールか。おまえに頼みがある。この箱の中身を調べてくれ」


 ワレスは焼却処分されるところだったネズミの死骸を、ジュール・ドゥールに手渡した。


「なかはネズミだ。ほんとは生きているのが欲しかったが、捕まらないので死体だが。体に異常がないか調べてほしい。病気の有無も」

「わかりました」

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