聖夜にはまだ早い

雪後 天

第1話

 まさか、あの夜があそこまで長くなるとは思わなかった。

 しかも、あの夜があそこまで不思議なことになるとは。

 師走も6日目を迎えたあの日、私は帰りに寄り道をしていた。早く帰ろうという気持ちと、その前にひとつ落ち着いて考えたいという気持ちを天秤にかけた末に、後者が勝った。

 雑居ビルの5階、エレベーターから降りてフロアの角に向かうと、その場所はある。飲み屋でもなければレストランでもない。ただ珈琲を飲んでぼーっとしていられる場所、ブックカフェ“レオン”がそこにあった。

 私はカウンター席で、当初の目的どおりに、ぼーっとしていた。今日の仕事は早めに終わったし、急いでいるわけではないので、別に悪いことはしていない。それ故の道草だ。それなのに後ろめたさが心中に顔を出す。早く帰って、娘の相手をした方がいい筈ではないか。でも本の読み聞かせのとき以外すっかり私に懐かなくなった娘は、かえって嫌がるのではないか。何と声をかけたらいいのか、ここで考えてから帰ろう。珈琲で頭を落ち着けよう。最早常連となったこの店で。気のせいかマスター謹製レオン・ブレンドが、深煎り以外の理由で苦く感じる。経緯はそんなところだ。

 そろそろ夕食時ではあるが、この喫茶店では食事も出るとはいえあまり混んでいない。のどかな雰囲気に私の輪郭が溶けこもうとしている。スマートフォンでニュースサイトを見てみれば、年の瀬のためか強盗がよく出るとかただでさえ物騒な記事をより物騒な言葉で上塗りした見出しで読者の欲情を誘っているので即刻閉じた。こんな阿呆なものに飲み込まれるなら、珈琲を飲んで呆けていた方がまだましだ。早く帰った方がいいのか、まだこうしていた方がいいのか、判然としないようで実際は後者に天秤が傾いている。

「大丈夫かい、柊(しゅう)君。さっきから呆けちゃって。本のページもめくれていないし、珈琲も冷めそうだよ。『空気を読む』とはよく言うけれど、今の君は『空気を飲む』感じだ」

「ああ、いや、マスター、たいしたことじゃないですよ。マスターこそ大丈夫なんですか。夕食時に今日はあまり人が入らなくて」

「いやあしょうがないよ。奥さんがいなくて人が足りないから、予め書いておいたんでねハハハ」

 確かに書いてあった。入口の看板の脇にメッセージボードがあって、この店ではマスターや奥さんの手書きで歓迎メッセージが書いてあるのだが、この日は

「今日はサッチーが旅行中! 厨房は人出が足りないのでお料理はお待たせします」

 とあった。

「正直すぎっスよマスター。商売する気あるんスか」

 ウェイターの煙山草生君が口を出す。私も同意見だ。サッチーこと宿木幸さん、つまりマスターの奥さんは厨房のお料理を主に担当し、ランチもディナーもお菓子も好評だ。煙山君が厨房を手伝うこともあるが、幸さんの味にはまだ及ばないとのことで、まだウェイターが主戦場だ。マスターも料理を担当するというが、やはり幸さんには及んでいないと私も正直なところ思う。今日についていえば煙山君が代理で厨房に入ってもいいと思うが、ボードの効果かその人手は必要としていない程度の客入りだ。

「いやあ今日はそのぶん本とかで稼げばいいじゃないかハハハ」

 マスターは意に介さない。この“レオン”はブックカフェで、一部書籍販売もしているが、私はあまりここで書籍が売れているところを見たことがない。

「マスター、兎に角オーダー送ったんだから承認ボタン押してほしいッス」

「ああごめん、忘れていたよハハハ」

 マスターがカウンターに立っている脇にはタブレットが立てかけてあり、従業員の持つ端末からオーダーが送信される。しかし私は見てしまった。マスター宿木寿太郎は忘れたのではなく、そもそも気付いていなかった。私の座るカウンター席からは、マスターのタブレット画面が見えるのである。

 何故彼がオーダーに気付いていないのかといえば、彼は珈琲を淹れていても調理していても手持ち無沙汰なときでも、そのタブレットに動画やら何やら兎に角業務以外のものを表示している。特に、世界の名所に住みついた猫の様子を紹介する番組をよく鑑賞している。今は今でブレーメンのクリスマスマーケットを闊歩する猫が表示されている……ところを、慌ててマスターがスクリーンを縮小して、別ウィンドウでオーダーを確認した。

 気付けば早い。マスターは手際よくブレンドを淹れ、シナモンクッキーを添えて出した。

「頼むよ煙山君。あ、柊君は今日はもう一杯いくかい」

「あ、まだ半分残っているのでもう少ししてから考えます」

 私はこのブックカフェの空間が好きだ。よく長居もする。備え付けの新聞を読むこともあれば、棚に並んだ本を手にとって読むこともある。持参した文庫本を読むこともある。PCを広げて軽い仕事をすることもある。滞在時間はその時その時で違うし、おかわりをするかどうかもその日その日で違う。今日は何となくのんびり過ごしたいから、いずれもう一杯頼んでおかわりの100円引きサービスの恩恵にあずかろうとも思うのだが、そんなに今日は売上げがよろしくないのだろうか。

 などと思っていたら、私がまだ今の一杯を楽しむことを理解したマスターは、また手元の端末に向かって、ブレーメン市庁舎広場近くを歩く猫の映像に見入っている。

 そして私は見てしまった。画面の一角に別の注文が入ったことを表すウィンドーが表示されたことも、マスターがまたそれに気付かないでいることも。

 マスターに声をかけようと思ったら、別の画面が割り込んできた。

『やあ宿木君、元気かい景気はいいかい』

「過(すぐる)君か。君は元気も景気も血気もお盛んなようで何よりだ」

 TV電話らしい。マスターがメインウィンドーにその画面をもってくると、恰幅のいい男が大写しになった。確かに景気が良さそうで、自信と自尊心をまとったような中年男性だ。マスターと年代は同じくらいだが、画面の背景にはトロフィーやら賞状やら肖像画が並ぶ。TV電話アプリケーションでは背景を合成できるが、これは本物のようだ。

『君を見込んで頼んでいたあれだがね』

「はい、あのマグカップと豆だね」

『そうそうそう、あの翡翠のビンテージもののマグカップと、あの珍獣の森で栽培されたという秘伝のリザーブものの豆で』

 過君と呼ばれた者は、わざわざ高級品であることをアピールする装飾をつけて注文を繰り返す。背景にも見栄えがする物が並んでいるのは、そういう羽振りの良さを言外に表すためだろうか。

「もう届いているよ。あんな立派なものを注文してくれるのは君くらいさ」

『それなんだがね、今日取りにいく予定が、難しくなってね。急用ができて、社を離れられなくなった。使いの者を行かせようとも思ったけれど、なにぶん非常事態で手が離せる者がいない』

「それはまた大変だ。うちは待てるし、豆も開封しなければ味は落ちないよ。焦らず」

『なら良かった。この年末、何かと忙しいところにまたバタバタだ』

「こちらこそ届けに行けなくて済まないねえ」

『とって置いてくれるなら問題ない。この不景気な世の中で、この注文は君への救済措置なんだからね。古い付き合いの君なんだ。そこは頼むよ』

 ここで会話は終わり、また猫がブレーメン中心部の広場で遊ぶ動画のウィンドーが拡大された。

「マスター、またあのおっさんからー?」

いつの間にかウェイトレスの安護(あご)くるみが私の後ろに立ち、頭越しにマスターへ呼びかけていた。

「あたしあの人嫌いなんだよね。感じ悪」

確かにお詫びもお礼もなかったようだ。

「このお店に来たときも自慢話とか、携帯で大声でしゃべるとか、印象最悪ー。あんなナリキング、噂の盗賊団に襲われたらいいのにー」 

「まあまあ、私の大学の同期なんだ。私の顔とか髭とかに免じて許してあげてよ」

 私はこの店のカウンター席で珈琲を飲むこと5年、マスターのタブレットを盗み見するようになって4年だが、ここ数年はあのパッドに過とかいう人のTV電話が割り込んでくることに何度も出くわした。感染症が流行っていた頃に、なかなか直接会えなくなった者のためにTV電話アプリケーションが普及して発展したわけだが、あのお金持ちらしき人はいつも電話で済むような話をわざわざ画面付きでやろうとしている。背景にゴージャスなレストランとか海外のリゾート地とかを見せつけながら。

 ただし、マスターが宥めるのも無理はない。この店にとっては上客だ。いつも高級な豆の珈琲を頼み、その日のデザートで一番高いものを食する。通販でもこうして高級豆を注文し、海外の高級茶器も仕入れ次第買っていく。

 マスター夫妻の経営感覚はよくわからないのだが、私の庶民的な味覚でもここの店の珈琲の味わいは格別であり、手作りケーキも素晴らしいのだが、利益が心配になるくらいの値段設定である。ブレンドとのケーキセットが500円で済む。店におけるほかの収入と言えばブックカフェと名乗る通り書籍も売ってはいるのだが、この出版不況でそうたくさん売れる物ではない。しかも売り物にしているのはベストセラーではない。

 大学時代の同期であろうと毎回自慢話を聞かされるのは苦痛だろう。でもマスターは毎回律儀に応対している。実際に払いもいいらしい。

「そりゃあ過君は褒められたもんじゃないかもしれないよ」

 こんな感じでいつも庇う。

「態度もそうだけどさー、なんていうか成金? 裏で何かやっている感じの金持ちだよね」

「そんなこと言うもんじゃないよ。まあ僕も彼がIT系ベンチャーから始めて今は何をしているかよくわかっていないけどね。今は胡散臭いセミナーをしているとか謎の商材を売る方に力を入れているとかまあやっていたもおかしくないけどねえ」

 どこまでが冗談なのかは分からないが、多分あの過という人はまともな稼ぎ方をしているような人ではなさそうだ。一方のマスターはコツコツ夫婦でこのレオンを経営して、やれ不景気だやれ感染症の影響で飲食業の危機だという状況で、稼ぎが少なかろうが笑顔を絶やさず客の前に立つ。浮かないぼーっとした顔の私を前にしても。また、私はこの店に通ううちに見知っている。事務的なことについては、できる古株のスタッフがいるので何とかなっているということも。

「ティーカップやソーサー、今回のマグカップと、いろいろ買ってくれるのはいいけれど、本も買ってくれるといいんだけどねえ。『俺は電子書籍派だ』って言って聞かないから」

 くるみちゃんは納得したのかしなかったのか分からない感じで、髪をいじっている。そしてひとつ思い出した。

「ところでマスター、さっきオーダー入れたんだけど」

「ああごめん、カフェラテふたつね」

 慌ててくるみちゃんの伝えたカフェラテを用意しているマスターを脇に見て、尋ねてみる。最早常連となった私は、幸いにして「くるみちゃん」と呼びかけることが許されている。向こうは「ワダシューさん」と私の輪田柊というフルネームを一息でニックネームのように呼んでくるが……

「くるみちゃん、さっきちょこっと言っていた『盗賊団』って何?」

「えーワダシューさん知らないの。トレンドにもなってんのに」

 勤務中にもかかわらずくるみちゃんはスマートフォンを出して、ニュースサイトを出して見せてきた。

 確かに「今夜も襲撃、詳細は調査中」「謎の集団、今度は○○社へ」と似たようなニュースが並ぶ。ネットニュースの見出しは実際の内容より誇張されたものだということを考慮しなければならない。だが最近夜に謎の盗賊団だかテロリストだかが襲撃事件を繰り返しているらしいということはよくわかる。

 何が怖いって、その襲われた会社やら店が皆、私の今いるこの杜都市にあるところばかりなのだ。私はくるみちゃんの言うトレンドが気になって自分のスマートフォンでSNSを開いてみたが、確かにトレンドワードで「盗賊団」「襲撃」が挙がっているが、関連ワードに「杜都市」とあるし、地域の話題としても杜都市のニュースでは襲撃関連のワードがトレンドに入っている。

 そういえば、と思い、さっき読んでいた新聞を再び棚から借りて読んでみる。たしかに物騒なニュースだと他人事に思っていた強盗の記事が載っていたし、よく見ると現場は杜都市だった。

「藁科さん達もその話してたよ」

 藁科さんというのはくるみちゃんが注文を取ってきたテーブルにいる、私ほどではないが常連の人たちだ。藁科君もお連れの三角さんも、社会人3年目くらいだろうか。この店によく仕事帰りに来て一緒に話したり写真を撮り合ったりしている。私はよく見ている。彼らはパフェとかガレットとか新しいメニューにチャレンジするたびに

「これ映えるかなあ」

「映えますねえ」

 と、三角さんのほのぼのとした問いかけに藁科君が呑気に答えて、撮影してSNSに上げていることを。そして二人だけの世界を作っているはずなのに、くるみちゃんも混じって話が盛り上がっていることもある。

「俺も知ってますよ。でも、これだけニュースになっているのに被害がよく分からないんスよね」

 煙山君もカウンターに戻ってきて、くるみちゃんのスマートフォンの画面をのぞく。

「よく分からないとは?」

「被害総額がどうとか、何を取られたとか壊されたとか、そういうのがわかんないっス。ただ『襲われた』とか『セキュリティーが破られた』とか。襲われてけがをした人はいるみたいですけど」

「なんかさ、しゃべってくれないのかなー」

「いや、でも今月になってから5日連続でしょ。十箇所くらい襲われたらしいし、ひとつくらい分かってもいいじゃないスか」

「黒ずくめのテロリストっぽいって聞いたよ」

「え、俺は赤い服ってSNSで見ましたけど」

 確かに妙だ。トレンドになっているのに詳細は分からない。

「あたしゃ茶色い服の連中と聞いたけどね……」

 カウンターの端っこに座っている栗辺さんが急に呟いた。くるみちゃんも煙山君も私もそちらに視線が向く。栗辺さんは私よりも古株の常連で、それこそ約二十年前の開店当初からいるらしいと聞いている。私はこの年配女性が急に独りごちる様を何度も見聞きしてきた。

「みんなが茶色……セピア色に見えるのかねえ……」

 私たちの視線など意に介さぬように、何やら一人でしみじみ呟いている。

「嫌な話だねえ。うちに来られたら困るなあ」

 カフェラテを淹れ終わり、くるみちゃんに渡しながらマスターが話に混ざってきた。

「襲われているのは企業とか大型店とかみたいですよ。強盗団がブックカフェに来るものなんですか」

「わからないよ。さっき過君が注文したものだって、分かる人にとっては金目の物だろうよ」

「こここ、困ります。そんなことになったら」

 気がつけばカウンターにもう一人分の声が増えていた。ただし小さい声、自信のなさそうな声が。奥の事務室から、星硝子さんがおどおどしながら出てきた。この店の事務的なことを引き受けるスタッフだ。オーバーサイズのセーターとロングスカートでいつも服に着られているというか覆われているような人で、小柄な体と大きな眼鏡が対照的だ。

「あの、マスター、お、奥さんから心配するメッセージが」

 硝子さんが恐る恐る差し出したスマートフォンのメッセージアプリには、確かに

《硝ちゃん、そっち大丈夫? 杜都で討ち入り流行っているんでしょ? お客さんあまりいないなら早めに閉めてもいいんじゃない?》

 と、メッセージがあった。客入りが今ひとつなのを予見しているあたりさすがだが、杜都の物騒な話題は少しばかり変わったかたちで旅先に伝わっているようだ。

「ああ、わざわざありがとう。まいったね向こうでも心配されているよ」

「マスター、討ち入りとか言われていますよ。赤穂浪士は14日じゃないですか」

「うちに47人もお客さんが来てくれるのかいハハハ。今日みたいな日は助かるねえ」

「アコウさんたちってそんなに人いるんですか。せめてサンタさんに来てほしいよねー」

 くるみちゃんが戻ってきて、何かを勘違いしながら話に混ざる。私もすかさず突っこむ。

「それは24日。あと、赤穂浪士は人の名前じゃないよ。『あわてんぼうのサンタクロース』という歌はあったけれど、赤穂浪士よりも早く来るサンタは慌てすぎ。聖夜にはまだ早いよ」

「いやあそうでもないぞ。国によってはクリスマスより前にプレゼントを持ってくるところもあってだね」

「ていうかなんで硝子さんにメッセージが行ってるの」

「それもそうだねえ」

「あ、あの」

 いつの間にか硝子さんが次のメッセージが表示されたスマートフォンを掲げている。私たちが会話している間、ずっと見せていたのか。もっと主張すればいいのに。

《何でだか寿太郎さんが読んでくれないのよ。代わりに言ってあげて》

「と、いうことです」

 なぜか硝子さんの方が申し訳なさそうにして、続きを見せてくれた。

 私は見ていた。マスターがカウンターに置かれたタブレットで猫の動画に見入っている間に、三件ほどメッセージの通知が来ていたが、マスターはブレーメン音楽隊像の周りを闊歩する猫様に夢中で気付いていないようだったことを。

「あ、よく見たらこっちにもメッセージが来ていたね。気付かなかったハハハ」

 これからようやく既読マークがつく見込みだ。

 それは兎も角、私もなおのことここでのんびりしている場合ではない気がしてきた。それほど物騒なことがあるとは。いや、一応ニュースやトレンドはチェックしているはずなのだが、最近の実際はそれどころではなく、ニュースは他人事だった。娘のことを解決しなければならない。まだ12月6日でクリスマスにはまだ早いが、それまでに解決しなければならないことが。今日は妻に甘えてゆっくり帰るつもりだったが、やはり早く帰ろう。

「そちらのお仕事の途中に対応ごめんね。僕からサッチーに返事をしておくから」

 マスターの言葉を受け、硝子さんはそそくさと事務室に戻っていった。会計やら何やら、やることは多いらしい。ただ、彼女は臆病そうな様子ではあるが、仕事はいつのまにかこなしている切れ者だということを私は知っている。

「さてと、『こちらは心配ない』と……」

 わざわざマスターが声に出して返信しようとしたときだ。タブレットにまた何か通信が割り込み、別のウィンドーが大きく開く。

『宿木! 宿木君! いるか!』

「あ、なんだむかつくおっさんか」

 マスターと私が瞬時に「シッ!」とくるみちゃんを制する。

「過君か? さっきの今でどうしたのかな」

「なんかやばそうじゃないスか」

 いつの間にか煙山君もカウンターに戻って来て、タブレットを覗き込む。あのトロフィーやら何からが写っていた先程の部屋ではないらしい。固定カメラではなく、スマートフォンで自撮りしているようだが、走りながら撮影しているのかなんなのか、画面は揺れるしぶれるし落ち着かない。おまけに音声も後ろで何かが壊れたり悲鳴が起きたりしているようなノイズが入って、よく聞き取れない。過氏はその混沌の中で叫んでいる。危険な状況ならメッセージアプリで簡潔に伝え、わざわざ手間のかかるTV電話にしなくてもいいのに、やはり背景で状況をアピールしたいのだろうか。こんなときまで、と思うが、まずは何があったのか。

「どうしたもこうしたもない! 緊急事態だ! 非常事態だ! 異常事態だ!」

「済まないが珈琲でも飲んで落ち着いてくれないか。非常事態とはさっき言っていたことかい」

「これが落ち着いていられるか! というか飲んでいる場合じゃない! 賊だ! 賊が来た!」

 賊? これは噂の盗賊団か、と思ったのは私だけではない。くるみちゃんも煙山君も顔を見合わせる。店内にまだ何人かいたお客さん、藁科さんや三角さんも、叫び声が聞こえてきた画面の方を向いてきた。栗辺さんもブツブツ言いながら聞き耳は立てているようだ。

「宿木君! 次はそっちに行くぞこいつら!」

「『行く』とはなんだい。それに、『こいつら』とは誰だい」

 マスターは酔客の悩み相談をするときと同じような対応をしていた。そういえば過氏がこの店に来て飲んだときも、延々と続く自慢話を根気強く聞いていたっけ。同期のよしみなのか、お人好しなのか、呑気なのか、何にせよ過氏はパニックの中で次々言葉を放り投げてくる。

「襲撃だよ襲撃。奴ら、予告通り襲ってきたんだ」

 予告通り? 先程注文の品を取りに行けないと連絡してきたときに、急用が入ったような話をしていたが、もしかしてその予告とやらが来たからなのか。と、思っていたら、向こうが勝手に説明してくれた。

「『6日、お前らを確かめにいく。大事なものに気をつけろ』とだけ書かれた要領を得ないメールが私や社員全員に来ていて、何か盗まれるかどうか私はもう心配で心配で」

 切羽詰まっている割にはまた長くなりそうな話だな、と脇で聞いていて思ったが、私は口には出さなかった。

「我が社のセキュリティーは完璧なはずだ。だがこいつら壁は破るわ生体認証は突破するわ、うちの重要書類はすぐにありかを突き止めるわプロテクトを破ってメモリからもクラウドからもファイルを引き出すわどうなっているんだ」

 産業スパイなのだろうか。にしてもやり方が荒っぽい。スパイというよりテロリストではないか。

「過君、それで君は無事なのか狙われているのか。連中は盗るものを盗ったらすぐ逃げるようなんじゃないのか」

「違う。『何が望みだ。金は出すから命は助けてくれ』とは言ったが、金ではなく何か情報を得られるものを暴いていた。で、奴らが言うんだよ。『ここはすぐ終わりそうだ、次はどこだっけ』『次に当たるのは』」

「『次に当たる』? 次に襲う場所が予定で決まっているのかい」

「ああ、それが君の店だ! 連中が『次はこのレオンが当たりだ』とか『杜都エブリービルにあるらしいぞ』とか言っていた」

 マスターの顔から血の気が引くのがよく見えた。

「う、うちかい? い、今はお客さんに来てほしいけどねえ」

「何をされるか分からんぞ。何せ奴らは何でもありだ。見るもの暴いたら、うちの社員をとっ捕まえて何だか変な装置を」

 変な装置? という疑問が私に浮かぶのとほぼ同時に、画面の向こうの過氏に数人の人影が背後から襲いかかった。みんな焦げ茶色の、つなぎのような服を着ている。サングラスのようなVRヘッドマウントのようなものを被っていて、顔はよく分からない。

「ここにいたのか、おとなしくしろ! 周りに知らせるなと言っただろ」

「まさかSNSに上げるとかしていないよな。さて確かめさせてもらうぞ、ってこら、何を電話しているんだよ」

「うわ助けてくれ」

 通信はここで切れた。

 店内でおしゃべりをしていた人たちもいつの間にか静まりかえり、プレイリストのクリスマスソングが流れるままになっている。

「やはり茶色……セピア色……思い出もその色に……」

 栗辺さんがまた独り事を始めたことを契機に、私たちは我に返り、顔を見合わせた。

「ちょっとちょっと、本当にいたじゃないスか盗賊団」

「やばいよなにあれー」

 お客さん達もざわつきだした。変な雰囲気になっている。無理もない。盗賊団だか討ち入りだか或いは先程のノイズまみれの映像から見るに焦げ茶のマトリックスもどきだかが、この店にやってくるという。

「茶色い人たちが来るって。映えるかな」

「映えます、ねえ……」

 三角さんと藁科さんの呑気な会話は兎も角、来るのはお客さんではない。単なる物取りならいざ知らず、個人情報ファイルを除かれた上に、何やら変な装置をつけられるらしい。で、その状況をSNSに上げたり外部に電話等で連絡したりしてはいけないらしい。

「マスター、どうするんですか。レオンって店は他にあるかもしれないけど、杜都エブリービルのレオンってここしかないじゃないスか」

「そうだねえ。わざわざ5階まで団体さんが来るのかい。注文があるんだったらネット通販で済ませてくれないかなあ」

 カウンターも事態にどう対処するかわからないでいるようだ。マスターにはこんなときに冗談を言っている場合か、と言いたいが、ここに至るまで誰も過氏のことを心配していないのもどうかと思う。

 とはいうものの、私も、人の心配をしている場合ではなかった。

 冗談じゃない、もう帰らなければ。あまりその訳分からない盗賊だか討ち入り浪士だかの噂を簡単に信じたくない気持ちはあるが、ここにいたままでは何に巻き込まれるか分かったものではない。そして私の家庭も心配だ。

そう思って立ち上がり、窓を見たら、17時45分頃とはいえ何だか重たいくらい黒い空が見えた。何やら黒い粒がノイズのようになって町の明かりを塞いでいく。

「あーさっき天気予報で夕方やばくなるって言ってた。あたしバイト終わったら人に会うんだけどなー」

 くるみちゃんも外を見ている。視線の先には、ぼた雪というか霙が降りしきる風景があった。しまった、私も天気予報を見ておくべきだった。これではなかなか外に出られない。

 それでも娘に今日こそヒントだけでも聞きたいことがある。いつもの読み聞かせを後回しにしてでも。早く帰った方がいいと思い、会計を促そうとした。この店では席で精算する。

「マスター、今日はこれで……」

 私はカウンター席にいたので手近な人に会計をお願いするつもりで呼んだが、大柄なマスターを見ると子犬のような目をしている。

「し、柊君、もう少し、飲んでいかないかい」

 引き留められた。

(続く)

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