71話 母親はいつだって優しい

 次の日は久々の休みだった。

 それが幸運だったのか不運だったのかは分からない。仕事をしていれば目の前の仕事に集中するしかなく、余計なことを考えるヒマなどなかっただろうから。

 いや仕事だったとしたら、流石に今日はまともなメンタルで仕事には向かえなかったかもしれないが。


 小田嶋麻衣を辞めて、松島寛太として元の世界に戻らなければいけないのだ。


 ……本当に本当か?本当は別に藍とずっと一緒にいても何ともないんじゃないだろうか?優里奈も、俺を転生させた上司のあのポンコツ天使も、自分らの都合の良いように何か嘘をついているんじゃないだろうか?……そう思ってみようとは試みたが、もちろんそれを本気で実行する気にはなれなかった。

 昨日はあの後、藍に近付くことも怖くなっていった。鼓動の高まりを少しでも感じるとこのまま死んでしまうのではないだろうか、そんな怖さがずっと付きまとった。




(ま、とりあえず起きるか……)


 のろのろとなんとかベッドから抜け出す。

 昨日はあの後、優里奈がタクシーを呼び強引にそこに押し込まれた。

 感情は依然として全く収まらず、タクシーの中でも嗚咽混じりに泣きじゃくっていた。運転手さんもさぞ迷惑したことだろう。

 だいたい優里奈も薄情なヤツだ。こんな時くらい一緒にいてくれて、私が泣くためにその控え目な胸を貸してくれても良いんじゃないだろうか?何が親友だ!何が天使だ!バ~カ!


 ……だがまあ、そうか。辛いのは私だけじゃないんだ……。

 藍だってきっと同じくらい辛いはずだ。それに3人で一緒にれば私と藍と接触の危険が伴う。優里奈は藍のサポートを重視したということなのだろう。


 帰ってきてからもシャワーを浴びながら泣いて、髪を乾かしながら泣いて、ベッドに入ってからも泣いた。こんな時でもきちんと習慣を守ってしまう自分が少し不思議だった。アイドル生活、女子としての生活がそこまで染み付いていたのか、と少し笑ってしまいそうでもあった。


(……何か、泣きまくってちょっとスッキリしているかも……)


 洗面所に行き、鏡に向かって無理矢理に笑顔を作ってみる。

 小田嶋麻衣として転生してきて、そしてWISHに入って、涙にも色々な種類のものがあることを知った。感動の涙・悔し涙・怒りの涙……昨日の私の涙は何の涙だっただろうか?どんな涙でも泣きじゃくってしまえば気持ちはスッキリとするものなのだろうか?


(……久しぶりに実家に顔を出しておこうかな)


 不意にそんなことを思った。なぜそう思ったのかは分からない。意地の悪い分析屋なら色々と理由を付けるのかもしれないが、別にそんなことはどうだって良い。

 少しでも会いたいと思う人がいるのなら、会えるうちに会っておくべきだろう。






「……ただいま」


「あら、麻衣。お帰り。どうしたの急に?」


 久しぶりに会ったというのに母親はあまりにフラットだった。

『コスモフラワーエンターテインメント』に就職してからすぐに実家を出て一人暮らしを始めたが、どうしてもそうしなければいけなかったわけではない。都内の実家は利便性に何の問題もなかった。

 最初は「不規則な生活になって迷惑を掛けるといけないから」と言い、メンバーに転向してからは「家バレして迷惑を掛けるといけないから」と何だかんだ理由を付けていたが、どちらもあまり妥当なものとは言えないだろう。

 多分本当はどこか遠慮があったのだと思う。自分にとって本当の両親でない人間に何でもしてもらうことが申し訳なかったのだと思う。最初の頃はちょくちょく帰っていたが最近は多忙を理由にあまり両親にも顔を見せていなかった。


「あ、うん……ちょっと急に休みになったからさ。パパは?」


「パパは会社よ。まだこの時間だからね~」


 時刻は午後2時。今日は平日だから一般的な会社員の人はほとんどがまだ仕事をしている時間だろう。

 希の実家を急に訪ねた日のことを思い出した。父親というのはいつもどこか少し蚊帳の外に置かれる存在なのかもしれない。


「どうしたの?母親の顔をジロジロ見て?」


「あ、いや……ママ、美人だなぁと思ってさ」


「あら、今さら気付いたの?でも残念ながら世間の人たちが知っているのは、麻衣の方なのよね。悔しいわ!」


 おどけてみせた母親真希子は、贔屓目抜きにしてもまるで40代後半の年齢には見えなかった。


(藍は自分は今の私ほど美人ではなかった……って言ってたけど、本当かな?)


 父親隆将も二枚目俳優のようなイケメンなのだ。この両親の遺伝子からは美少女しか産まれてこないような気がするのだが……。


「で?何かあったの?」

 

 一呼吸置いて母親が尋ねてきた。もう少し落ち着いてからこちらから本題を切り出したかったのだが……やはり親子というものは何も言わずとも感じ取ってしまうものなのかもしれない。私と彼女は本当の親子ではないかもしれないが、間違いなく本当の親子なのだろう。


「……ねえ……私って、何でWISHに入ったんだっけ?」


 誤魔化して何か違う話をしようかとも思ったが、今の自分にそんな余裕はなくて、出てきた言葉はあまりにストレートなものだった。


「あはは、どうしたの?……何で?ってそりゃあ、麻衣は昔からアイドルが大好きだったじゃないのよ。暇さえあれば動画を見て振り付けを真似てたわよね。……あ、ほらこの写真見てごらんなさいよ!」


 真希子がスマホを取り出し画面を見せてきた。

 一連のカメラロールに写っていたのは幼稚園児の頃の麻衣だった。ピンク色の衣装がどのアイドルグループを模したものなのかは判別出来なかったが、小さい身体で大きな目を見開いてしっかりとな表情を決めていた。


(え、小さい頃の麻衣もめちゃくちゃ可愛いじゃん!)


 藍は「自分は今の麻衣のような美人ではなかった」と言っていた。優里奈の工作によって昔の写真までもが改竄かいざんされているのかと一瞬疑ったが、写真に写る麻衣と今の私の顔は微妙に系統が違った。今の私はどちらかと言うと大人っぽい系統の美人だが(自分で言うなと言われても事実だから仕方ない!)、元の麻衣は少し垂れ目の可愛らしいタイプの美少女だった。

 美人は美人に対するハードルが高い。藍の謙遜もそういうことなのだろう。


(……っていうか、何年前のカメラロールが手元にあるんだよ?)


 麻衣が幼稚園児ということはほぼ20年前の写真だろう。

 当然その間にスマホの端末は何度も変更しているだろうから、その度に写真を移動させているということだ。

 どちらかというとさっぱりした性格の母親だとばかり思っていたが、麻衣に対しての愛情の深さは相当なものなのだろう。


 こちらのそんな気持ちがなんとなく伝わったのかもしれない。母親は少し照れくさそうに髪をかき上げた。


「ま……麻衣も夢が叶って良かったわね。アイドルじゃなくてマネージャーになるって言い出した時は、大丈夫かな?と思ったけどね」


 藍のこと……つまり私でなく本当の小田嶋麻衣のことを……考えていた。

 麻衣は昔からアイドルが好きで憧れていた。でも学校で「アイドルになりたい」ということを周囲に打ち明けるとバカにされ笑われた、と彼女は言っていた。

 その時の彼女は相当に落ち込んでいたのではないだろうか?

 魂が揺れるほど大きく。もしかしたら、死んでしまってもいいくらいの気持ちだったのかもしれない。

 だから天界も彼女の魂を誤認した。そしてその時たまたま死にかけていた俺の魂の転生先に選ばれた……。そう考えると少し納得出来るような気もした。『WISHのために人生を捧げる』ということが目標として唯一認められたのも、2人を引き合わせるためのものだったのかもしれない。

 もちろんそれを藍に確かめるつもりはない。辛かった気持ちを思い出させるだけかもしれないからだ。当時の気持ちを確かめたところで現状が変わるわけではないのだから、彼女にそれを強いることは意味のないことだ。




(やっぱり……俺は元の世界に戻るべきだ……)


 分かっていたけどその結論に行き着いた。

 藍の願いを叶えてあげたい。そのためには俺は藍となるべく離れる、つまり俺が元の世界に戻ることが藍に影響を与えるリスクを最も減らす選択なのは疑いようがなかった。


「ごめん、ママ!急に仕事が入ったみたい。行かなくちゃ……」


 今の自分にはすべきことがある。それをしなければならない。


「あら、もう行くの?せっかく久しぶりに会えたのに。パパにも少しくらい顔を見せてあげれば良いのに」


「ごめん。……でも近いんだし、いつでも会えるよ。またすぐ帰ってくるから」


 希と希の実家に帰った時のことが再び思い浮かんできた。

 希はしっかりと父親が帰ってくるのを待っていたし、きちんと母親に対しても本音で向き合っていたような気がする。

 私は違う。嘘つきだ。

 

「ん」


 玄関の方に歩き出した私の前に、母が両手を広げて立ち塞がった。


「え、何?」


「ハグ。娘をハグする権利を全ての母親は持っているのです。だからハグをします」


 母は両手を広げたまま近寄ってきて、そのまま私を包み込んだ。


「……もう、仕方ないなぁ……」


 転生してきて最初の日にも、そうされたことを思い出した。

 あの時は慣れない女性の香りに興奮したが、今はとても落ち着いた気持ちにさせられた。

 何歳になっても母親の前では子供は子供のままなのかもしれない。



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