66話 飲み会の勢いでつい……
「藍!」
肩を掴んで声を掛けたところで、ようやく藍は振り向いた。
振り向いた藍は悪魔にでも会ったかのように驚いた表情で、呼び止めたこちらの方が申し訳なくなってしまった。いつもは無表情……最近は覚えたてのぎこちない笑顔を浮かべていることも多くなったが、藍のそんな表情を見たのは初めてだった。
「……麻衣さんですか。何か御用があれば承りますが?」
(これは……かなりヤバいのではないだろうか?)
直感的にそう思った私は藍と少し話をしなければいけないと思った。
「あのさ、藍。ちょっとお茶していかない? 」
「お茶をする……とは何ですか? 」
「一緒に少しお茶を飲んで話をしようっていうことよ……。ほら、ちょうど自販機もあるし」
ちょうど10メートル先に休憩スペースがあった。
「ああ。飲料を飲みながら雑談をするというやつ……いわゆる飲み会ですね! 」
そういうと藍はニコリと微笑んだ。
「う、うん。そうね、確かに飲み会と言っても間違いではないかもしれないわね……」
休憩スペースの小さなテーブルで私は藍と向き合った。
私はカフェラテで藍はミルクティー。小さな紙のカップが並ぶ。
「かんぱ~い!」
突然、藍が声を張り上げた。
驚いた顔で彼女を見ると、彼女の方が私よりも不思議そうな顔をこちらに向けていた。
「……飲み会の初めには乾杯の挨拶がお決まりだと聞いていたのですが? 」
「そうか、そうね……じゃあ、藍のセンター就任が決まったことをお祝いして、カンパイ」
小さくカップを当てる。
今のところ、藍の心境は正直言って分からない。1人歩いていた時には確かにいつもと違う様子に思えたが、こうして向き合い言葉を交わしてみると、いつもと何ら変わらないようにも思えた。
「麻衣さんは私がセンターに立つことを知っていたのですか?」
「え!あ、いや……」
どう話を始めようか悩んでいると藍の方から話を切り出してきた。しかもどストレートの豪速球だ。
未だに藍とのコミュニケーションにはドキドキさせられる。
「……そうね。実は少し前に社長から藍をセンターに据えた曲が出来た、ってことを聞かされていたわ」
だが藍の疑問はもっともなものだし、それに対して私はきちんと答えなければならない立場にあるように思えた。だから私は出来る限り正直な気持ちを話すことした。
「……多分私が選抜のメンバーとして活動するのも今回で最後になると思うわ。今回もあくまでセンターに立つ藍のサポートのために選抜に入った、ということだと思うわ」
「左様ですか。それはとても残念至極ですね……」
相変わらず藍は貼り付けたような微笑みの顔を崩さなかった。その本心がどこにあるのかは未だ読めなかったが、少なくとも私の動向は彼女にとってそれほど重大なことではないのだろう。
もちろんそれで構わない。アイドルの頂点を狙うくらいなら、もっともっと自分のことだけを考えてくれて良い。
「藍はどう思っているの?加入前からずっと念願だったWISHのセンターに、こんなに早く抜擢されたのよ。WISHの長い歴史の中でも断然早いセンターなのは間違いないわね。……しかも、滝本先生が藍のために曲を書いて下さったなんて。本当にスゴイことよ。嬉しいでしょ?」
「はい!それはとても嬉しいです!私はWISHのセンターに立つことだけを目標に活動してきたのですから!麻衣さんのおかげで私の目標は達成できたのであります!」
相変わらずの調子だった。
「ねえ……藍がセンターにそこまでこだわるのは、どうしてなの?」
この機会に私はずっと思っていた疑問をぶつけてみた。
「どうして?どうしてって……どうしてでしょうね?センターを目指すことに何らかの理由がなければダメなのでしょうか?」
それに対して藍は首を捻って考えていたが、明確な答えは出て来なかった。
「……って、え、あ、藍!?どうしたの!? 」
藍の頬を大粒の涙が伝ってはテーブルに落ちていた。
不意の事態に私は慌てた。まさかこの流れで藍が泣き出すとは想像も出来なかった。
「……あ、いや、ほら、藍!別に理由なんて別に何でも良いのよ、センターを目指すなんてアイドルとして立派な目標に決まってるんだから!私が尋ねたのもちょっと気になっただけだから!全然気にしなくて良いから!」
まさかの事態に私は驚き、いつもの3倍くらいの速度で喋っていた
顔を上げた藍の顔は依然としていつもの微笑みが貼り付いていた。顔は笑い目だけで泣いている藍の表情が余計に私の胸を苦しくさせた。
「……麻衣さん。私は、本当は、とても怖いのかもしれません……」
ようやくポツリと呟いた藍の言葉こそが本当の言葉に違いなかった。
それはそうだ。普通に考えて怖くないわけがない。藍が少々変わった子だということに気を取られ過ぎていた。
急速に変わる環境、今までの何倍もの視線に晒される怖さ、WISHというグループが好きであればあるほどその歴史が重くのしかかって来る。
逃げ出したくなって、弱音を吐きたくなって当然だろう。
だけど本心の弱音を吐いたはずの藍の顔には未だにいつもの微笑みが貼り付いていた。
「そっか……。私のせいだね。ごめん……」
やっと気付いた。藍は私の言葉にずっと縛られていたのだ。
「いつもアイドルでいなさい!」「常に誰かに見られていることを意識しなさい!」
アイドルらしくあって欲しいという願う私の言葉を忠実に実行していただけなのだ。
「こんなところまで……せめて私と2人きりの時はアイドルでなくても良いのよ。ごめん。私の言い方が悪かったよね……」
藍は純粋なのだ。私の安易な言葉がどれだけ彼女を苦しめただろうか。
私の方が泣き出しそうになるのをグッと堪える。ここで私が泣いてしまうのは違う。本当に泣きたいのは藍の方に決まっているのだ。
「麻衣さん?なぜ麻衣さんが泣きそうになっているのですか?私には意味が理解出来ません。なぜなのか理由を教えていただけませんか?」
「なぜ……って?何言ってるのよ、こんな時に……」
さらに予想外の言葉に戸惑う。
「私は最近自分の感情の変化に興味があると言えます。……以前の私ならばこのようにセンターに立つことが決まったとしても、単に目標を一つクリアしたという以上の気持ちは湧かなかったでしょう」
「あ、え、そうなの…… 」
藍は頷き、言葉を続けた。
「しかし最近になって、私にも怖いという感情が理解出来るようになってきたのです。麻衣さんに言われて自分の表情を意識し始め、それと共に周りの人間たちの言葉や表情を観察し、そこにある感情を想像してみたのです。それによって私にも怖いという感情があることを理解出来るようになってきた気がするのです」
「……大丈夫だからね。全部大人たちが決めたことだから。この曲がたとえWISHにとって失敗でも藍に責任はないからね。知らんぷりしてこれからも堂々と活動していけば良いのよ! 」
まるで、この曲が失敗に終わると決めつけた言い方をしてしまったことは自分ながら気になったが、今はそんなことはどうでも良かった。藍の心だけは何を犠牲にしても守ってあげたかった。
だがそれに対しても藍は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「怖いという感情を、覚えてはいけないのですか?」
「……そんなことないわ。全部存分に感じて良いの。それがきっと生きるってことだから」
予想だにしない答えが自分の口から勝手に出た。
そして一度堰を切った言葉はとめどなく流れ出した。
「感情を止める必要なんてないわ……皆それぞれの立場で時と場合に応じてそれを表現しているだけ。自分の感情に素直になることまで我慢しなくて良いのよ!自分の心だけは守らなくてはダメなの……」
「……随分と難解な言葉を使うのですね、麻衣さん」
困惑したような表情を藍は浮かべた。
そんな表情をさせたことが申し訳ないような気もしたが、同時にまた彼女の新たな表情が見られたことが嬉しくもあった。藍の移り変わる様々な表情をこれからも近くで見ていたい。ぼんやりとそう思った。
(……ああ、そうか)
多分私は、藍のことを愛しているのだ。
むろん、これを愛と呼ぶのか本当のところは分からない。
でも、温かくて、もどかしくて、苦しいようなこの感情を愛と呼ばないのなら……きっと私の中に愛は存在しない。
最初に彼女に惹かれたのは、彼女が自分の一部であり特別な存在だからだ。
だけどこれだけ一緒にいて彼女の成長の跡を振り返ると、まるで手を掛けて育ててきた自分の子供のようにも思えた。
「愛しているわ、藍……」
気持ちが抑えきれなくなった私は椅子から立ち上がり、座ったままの彼女を後ろから抱きしめていた。
「アイシテイル?藍している?……分かりました、また名詞の動詞化ですね!お茶をすると同じような不思議な言葉ですね! 」
藍はまた訳の分からないことをごちゃごちゃ言っていたが、私の耳には届いていなかった。
私のこの気持ちはどうすれば彼女の真芯に届くのだろうか?それだけを考えていた。
手で藍の顔を強引にこちらに向ける。彼女は少し困ったような表情をしていた。
「……ですから麻衣さん、女性同士で生殖行為は成立しないと以前にも言いましたが……」
「もういいから、少し黙ってて……」
もう自分の気持ちが堪えきれず、私は夢中で藍の唇にキスをしていた。
その瞬間、脳に直接電流を流されたような衝撃が走った。
そして藍の表情も一変した。
例の貼り付けたような笑顔は消え、呆然とした表情を彼女は浮かべていた。
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