60話 骨の折れる教育になりそうね
「じゃあ……まずは須藤さんに謝りに行こっか?」
私と藍はまだレッスンスタジオの外で向き合っていた。
「謝る?私がですか?……謝るというのは、ミスをしたり悪いことをした側の人間がすることだと聞いていますが?」
藍は相変わらずの調子だった。
だが、彼女の調子にも慣れてきた。これしきでめげるような私ではない!
「いいえ、必ずしもそうではないのよ。……ところで藍ちゃんは、WISHのセンターに立ちたいという気持ちに変わりはないのよね?」
「はい!当然至極です!」
センター、という言葉が出た途端に藍の目の色が変わった。
これなら作戦も上手くいくかもしれない。
「じゃあ、少し私の話を聞いてちょうだい。日本では何かトラブルがあった時は先に謝った人の方が大人なのよ。……そして、今までWISHでセンターに立ってきた人間は皆ハタチを超えた大人ばかり。前回センターだった桜木舞奈は唯一の例外といった所ね。……つまりこれがどういうことか分かるかしら?」
ふふん、とあえて藍に思わせぶりな口調で尋ねてみる。
藍はしばらく目をギョロギョロ動かしながら考えていたが、やがて一つの答えに行き着いたようだ。
「……大人になった方が、センターに立つ確率が高くなるという理解でしょうか?」
「流石、ご名答だわ。WISHが清楚なお姉さん系アイドルという位置付けである以上、センターに立つ子はある程度大人でなければならないのよ。ということは、WISHのセンターに立とうとするあなたが今すべき行動が何かは……言うまでもないわね?」
芝居がかったセリフで、事情を知らない人間が聞いたら吹き出してしまうような言い方をしている……ことは我ながら知っていたが、常識が通用しない藍の前では何の違和感も感じなかった。
「分かりました!私は須藤さんに謝ります。……すいませんが、謝り方を教えてくれませんか?」
藍の返答に迷いはなかった。
先ほどもプライドゆえに謝れなかったのではなく、本当にその意味が理解出来ていなかったということなのだろう。
まあWISHというアイドルグループのセンターに立つ人間の資質に大人であることが必ずしも求められているわけはないし、その基準で言えば現在メンバー最年長の私こそがセンターを務めていなければならないことになりそうだが……。
つまり私の言ったことは完全なる詭弁に決まっているのだが……ある程度の社会性を持つことが今の彼女には絶対必要なことで、そういった意味では完全なウソでもない。……ということにしておこう、うん。
「分かったわ。私も一緒に謝るから、がんばろう。ちゃんと謝ればきっと須藤さんも許してくれると思うわ!」
「須藤さん、ちょっと良いかしら?」
5期生ちゃんたちのレッスンもちょうど休憩に入っていた。
藍と2人そっとスタジオに戻り、まずは直接の対立者である須藤琴音に来てもらう。
「……私ですか?何ですか、まったく?」
渋々といった感じを装い、琴音も5期生の輪を抜け出してくる。
いや……『私ですか?何ですか?』じゃないだろ、と思わずツッコミを入れてしまいそうになるのをグッと堪える。私と藍とが揃ってあなたを呼んだら、何となく要件の察しはつくでしょ……。
藍はもちろん独特だが、琴音は琴音で独特だ。多分周囲からどう見られているかを無意識のうちに計算してしまうタイプなのだろう。天然のぶりっ子という感じだろうか。
当然琴音以外のメンバーたちもこちらの動向に注目していることは伝わっているが、トラブルは全体に及んだものなのだからこれで良い。藍が琴音に謝っている姿を全員が見れば感情的な対立はかなり収まるだろう。
「ほら、藍ちゃん……」
藍の背中をツンツンとつつく。若く張りのある背中だった。
「須藤さんごめんなさい。ごめんなさい須藤さん。私が、悪かった、です。許して下さい」
そう言うと藍は頭を下げた。
深すぎて、頭が膝に頭が付くのではないかというほどだった。
……うーん、私は別にそんな風に謝れとは一言も言っていないのだけどなぁ。
「ちょ、そんなに頭下げないでよ!分かったから!」
慌てたように琴音が藍の身体を引き起こす。
藍の態度をふざけたものだと責めなかっただけでも、彼女の性格の良さが伝わって来る。
多分、琴音もそこまで本気で怒っていたわけではなく、藍の方から折れてくれる恰好さえ取ってくれれば早々に許すつもりだったのかもしれない。
「……それに、いつまで苗字で呼んでるのよ……琴音って呼んでってずっと言ってるじゃん……」
そして聞こえるか聞こえないかの声で、未だファーストネームで呼んで欲しいとの訴えを繰り返していた。
短いやりとりだったが、すでに他のメンバーも2人のやり取りに注目していることは明らかだった。
それを察知した藍は顔を上げ、目線を琴音だけでなくメンバー全員に向ける。
「皆さん、ごめんなさい。不注意でした、私の」
もう一度藍が今度は全員に向かって頭を下げる。
相変わらず膝に付きそうなくらい深い頭の下げ方だった。真剣な表情のせいでふざけているような印象は不思議と受けなかった。せいぜい思ったのは身体柔らかいなぁ……ということくらいだろうか?
(そうだ、良いフリが出来ている!今だ!)
私は思わず拳を握りしめていた。
「みんな~、ゆるしてニャン」
ジャストのタイミングだった!
まさしく私が思っていた通りのタイミングで、藍は私が教えておいた必殺の「ゆるしてニャン」を炸裂させたのだ!
手で頭の上に猫耳を作るポーズも完璧なものだった!
当然スタジオは爆笑に包まれる!!!……ことはなかった。
皆がキツネにつままれたようなぽかんとした顔をしていた。
時が止まる。
……体感としては10秒以上エアコンの音だけが響いていたような気がする。
……ヤバい!ヤバい、ヤバい、ヤバい!!!
自分のことならともかく、藍にやらせたことがこんなにも大スベリするとは……えっと、フォローしなければ!とにかくこの空気の責任を取ってフォローをせねば!
「……ぷっ」
だが、そんな気まずい静寂を破ってくれたのは、私でも当の藍でもなく、謝罪を受けた琴音でもなく、振り付け師のMAKINO先生だった。
笑い始めた彼女につられて、徐々に笑いが広がってゆく。
「え?ギャグなの?」「何かよく分かんないけど、可愛いから良いんじゃない?」
メンバーたちがひとしきりざわざわした後、MAKINO先生が口を開いた。
「あー、おかしい!!……ねえ?今のって麻衣ちゃんが仕込んだの?」
「……はい」
MAKINO先生に改めて言われるととても恥ずかしい気持ちになってきた。
自分が恥をかく方がよっぽどマシだった、藍には申し訳ないことをした……と思って隣を見たが、藍は分かっていないのか相変わらずの無表情だった。
「この場でやらせるなら、もっと今の子たちに分かることをしないと?ノリが古すぎるわよ。『ゆるしてニャン』なんて麻衣ちゃんの世代でもないでしょ?私でギリギリ世代くらいのギャグだったわよ!」
「……あ、親が何かの機会に言っているのを聞いたことがあって……」
私は小田嶋麻衣と松島寛太のジェネレーションギャップを誤魔化すために、訊かれてもいないのに言い訳をしてしまった。
……まあ何とかスタジオの空気は改善したようだった。
10代の5期生ちゃんたちに30代のノリは理解出来なかったが、藍の猫耳ポーズが可愛かったとかで、皆でマネして盛り上がっていた。
ともかく結果オーライということにしておこう……うん。
首の皮一枚、といったところで何とか雰囲気は改善しそれ以降藍もレッスンの輪に戻った。
藍にここまで常識がないということが露呈したのは、むしろ結果的には悪くなかった。
今回の対立の一番の原因はあの場の藍の態度にあったが、彼女が周囲に馴染めず以前から5期生の中で浮いていたことが根本の原因の一つだ。クールな容貌と口数の少なさで他のメンバーからすれば元々近づきがたかったということだ。
今回こうして藍の素の部分が見えたことで、彼女の態度には悪意がなくただただ常識や空気を読む能力が致命的に欠けているがゆえのものだ……と他のメンバーたちにも認識されたようで、今後は多少失礼な態度があったとしても悪意はないのであまり気にしないようにしよう、という雰囲気を作ることが出来た。
そして、当然アイドルとしてこのままの状態ではマズイので、そばに誰かが付いて彼女に常識的な振る舞いを教えてあげなければならないということにもなった。
つまり私が藍と個人的に接する時間を増やすことに、誰も不自然さを感じなくなったのだ。
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