25話 母と娘
それからようやく希とお母さんは本当の意味で対話を始めた。
さっきポツリと本人が呟いたように、お母さんの言動はすべて希のためを思ってのものだったらしい。
こうして田舎で暮らしていると東京などの都会に出てゆくことに否定的な反応を示すのかもしれないし、ましてや芸能界・アイドルなどという世界が胡散臭く見えるというのも理解は出来る。
しかし今の時代、情報を集めようと思えば日本のどこに住んでいてもそんなに差はないわけだし、お母さんももう少し偏見を持たずに娘の言うことを聞いてあげれば良かったのにな……という気もした。まあ愛情の伝え方も含めて不器用な人のようだ。
それに、責められるべきはお母さんだけでなく(もちろん部外者が責めることなど出来はしないのだが)、希本人も同じ程度には悪い。というか話をよくよく聞いていると、ここ3年間連絡を取らなかったのはむしろ希の方のようだった。
最初の頃、帰省しても母親があまりWISHの活動に理解を示さなかった……というのは事実のようだが、それから母親と連絡を意図的に取らなかったのは希の方だったらしい。光莉ちゃんやお父さんを通じてお母さんが「話をしたい」という旨を伝えても、一切連絡をしなかったようだ。
そうした態度に対してお母さんの方も意地になって連絡をしなくなっていたようだ。……まあ要は意地っ張りの似た者親子ということだろう。
「でも、黒木希って言えば今や誰もが知っているトップアイドルですよ。娘さんがそんな存在になっていっても、特に何も思わなかったってことですか?」
俺は思わずお母さんに尋ねた。
俺自身は国民的アイドルを娘に持ったことはないのでその心境は分からないが、娘がスターの座に駆け上がっていったら感慨深いもので、光莉ちゃんやお父さんを通じて何か一言でも伝えたいものなのではないだろうか?話を聞いているとお母さんは、むしろ希がスターになるにつれてコミュニケーションを避けるようになっていったようで、それがとても不思議に思えた。
あるいは娘の情報を一切シャットアウトしていたのだろうか?
「いや……普通にテレビを見とるだけで、希が出てくるのは驚いたさ。……でも、光莉から話を聞いて忙しいのも分かっとったからな……余計な気を遣わせてストレスになってもあかんと思ってな……」
お母さんは相変わらず不器用な口調だったが、気を遣うがゆえに希への連絡もより出来なくなっていったということらしかった。
「え?……でも、光莉ちゃんはお母さんのそういう気持ちも分かってたんですよね?そういうのを伝えようとは思わなかったんですか?」
光莉ちゃんは希に対して頻繁に連絡を取り続けていたということだったので「お母さんもずっと応援してるよ」とか伝えることはしなかったのだろうか?
「え?だってお母は『余計なことは言わんでいい』っていっつも言ってたもん」
あっけらかんと彼女は言い切った。
……何だか、この人たちはさぁ、馬鹿正直に振舞うだけじゃなくてさぁ……誰か一人でももう少し気を回してくれたら、余計な軋轢は生じなかったし、それから来る希のストレスももっと簡単に解消できてたんじゃないんですか!?
……とは言いたくなったが、まあそれを言っても今さら仕方ない。
こんな環境の中で黒木希という人間は生まれてきたのだ。
「でもな、お母もこないだの密着大陸だっけ?あの番組見てから一気にお姉LOVEの姿勢をはっきり出してきてな!……それまではウチがグッズとか渡しても絶対表には出さんかったのにな、急に部屋に飾り出したりしたんよ!」
続く光莉ちゃんの言葉は意外なものだったが、思わず俺と希は顔を見合わせた。
こんな意外なところにまであの番組が波及していたとは。
「……祭り上げられて天狗になってるんちゃうか?って思ってたんやけどな……。あんなに一生懸命に頑張っとる娘を見て感動せんわけがなかろう。お父さんそっくりやったわ」
お母さんのその言葉を聞いた時、ついに感極まったのか……希は嗚咽混じりに泣き出し始めた。
それを見てお母さんがその背中にそっと手を回した。それをきっかけに希はさらに泣きじゃくり始めた。
まるで幼い子供みたいだった。
世間から見ればどんなに立派な人間も、母親の前では子供でしかないのだろう。
希が泣き止んで落ち着いたところで、ようやく一家の
と言っても、光莉ちゃんが希と俺に対して質問を矢継ぎ早に浴びせてきて、それに答えているのをお母さんは黙って眺めている、という構図だったが。
時刻はいつの間にか夕方になっていた。
不意に玄関がガラリと開き髭の生えた一人の男が入ってきた。
「……なんや、希。帰っとったんか!」
一家の大黒柱であるこの家の父親だった。
現場仕事をしているらしく作業着は薄汚れていたが、切れ長の眼と厚いまつげ、高い鼻筋に形の良い唇……その容貌は文句なしのイケメンだった。いや、イケメンという現代的な軽い感じよりも、少し昔の俳優のような顔立ちだった。伸び放題の無精髭もとても似合っている。
父親が帰宅したのを機に夕食が提供された。
近所の漁師さんからお裾分けでもらったという刺身と、貝のお味噌汁をお母さんは作ってくれた。
東京で社長に連れていかれ、豪華なものを食べたことも何度かあったが、この食事ほど美味しいものを俺は味わったことがなかった。希も子供に戻ったかのように夢中で箸を動かしていた。
父親は口数の多いタイプではなさそうだったが、ビールを少し飲むと饒舌に娘に話し始めた。内容は特に無い。「お前は自慢の娘だ」というだけの繰り返しだった。
でもそれで良かったのだと思う。
父親が希に伝えたい気持ちなど、それしかないのだろう。
時刻はまだ19時を過ぎたばかりだったが、東京に戻る時間が迫っていた。
「アレでしたら一泊していきますか?……仕事なら体調不良だということにすれば何とでもなりますし、こんな機会はそうそうないでしょうし……」
俺の方から希に実家に泊っていくことを提案したのだが、希は首を横に振った。
「……いや、もう充分だよ。パワー貰いすぎちゃった。このパワーを今すぐ誰かに分けてあげたい気分なんだよね。むしろこのまま寝ずに仕事したいくらいなんだけど……麻衣ちゃん、社長にそう伝えてもらって良いかな?」
希はここ最近見たこともないほど、
(……ああ、この人はこんな眼をしていたんだな)
きっとこれこそが黒木希の本質なのだ。
圧倒的な美貌も、完璧なパフォーマンスも、この強い精神の表現でしかないのだ。
彼女に敵うアイドルなんか日本中探しても絶対にいない!その眼を見て俺は確信した。
「かしこまりました、すぐに社長に連絡します!仕事したいって言ってくれる人たちは幾らでもいますよ。みんな黒木希を待っているんですから!」
父親はすでにビールを飲んでいたので駅までの送迎は出来ず、またタクシーを呼んだ。
来てくれたのは偶然にも送ってくれた時と同じ運転手さんだった。
タクシーに乗り込む間際にいよいよ黒木家とお別れとなった。
父親は少しのビールですでにかなり酔っぱらっていたし、光莉ちゃんは「会おうと思えばいつでも会えるじゃん!」というスタンスのせいか、別れの段になっても全く調子は変わらなかった。
希本人とお母さんだけが少し感情が高ぶっているようだった。
「アンタは自慢の娘や。アンタが自慢でないわけがなかろう。……こんなド田舎から、あんなキラキラと眩しい世界に自分の娘が飛び込んで言ってるのが何度見ても不思議な感じや。……どんなに売れっ子になっても周りの人たちには死んでも感謝せなあかんで。……それから、自分がここの出身であることを忘れたらあかん」
母親の言葉は相変わらず流暢とは言えなかったが、絞り出すような一言一言がとても大事なことを伝えてくれていた。
「分かってる、ウチもこの景色を忘れたことなんかないで……。いや、多分忘れることなんて出来やん(出来ない)。でもな、今起きてること全部夢なんじゃないかって毎日思うんよ……」
希の言葉にお母さんはそっと娘の背中にそっと手を回した。
ほんの一瞬だけのハグだった。
それで充分だった。それがこの親子にとって最大限の愛情表現なのだろう。
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