9話 入社して
大学在学中も当然WISHには注目していた。
男性恐怖症が改善したら、オーディションを受けてメンバーになるという選択肢は依然として頭にあったからだ。でもムリだった。WISHが国民的アイドルに駆け上がってゆく様を、ただの一ファンとして眺めているのと何ら変わりなかった。
深夜に放送される30分のバラエティ番組を毎週欠かさずにチェックし、メンバー個人個人のブログを隅から隅まで読み、雑誌やネット記事にも目を凝らした。
これが「自分をWISHのために捧げる」ことになるかは心許なかったが、まあ特に天使ちゃんからクレームは入らなかったし、命も奪われはしなかった。
(……あれ?このまま一オタクとして過ごしていくだけでもイケるんじゃね?)
という気もした。
実際オタクと呼ばれるファンの中には、文字通り命を捧げるほどに熱中している人間も存在することを知った。メンバーよりも彼らこそが生涯を捧げていると呼ぶにふさわしいのではないか?中途半端な形で内部に関わろとするよりもオタクのままでいた方が良いのではないか?という気さえした。
でもとりあえず、当初の予定通り裏方として芸能事務所かレコード会社に入社することを目指した。やはりその方が自分が生きていく可能性をより高めることに思えたからだ。何と言っても俺は「WISHのために捧げたい!」ということで天使ちゃんに転生を許されたのだ。ある日突然自分の命が天使ちゃんの気まぐれによって奪われるのではないかと、ずっとビクビクしながら生きていた。
それで何とか、大学時代の必死の勉強と、松島寛太として社会人経験、5年間のWISHの歴史を先に知っている、というアドバンテージも含めてか、あるいは……そんなことはないと信じたいが……俺が単に抜群のルックスを持つ美少女だからかは分からないが、数度に渡る選考を突破し、ついにWISHのメンバーを抱える芸能事務所『コスモフラワーエンターテインメント』に入社することが出来たのだった。
コンコン、コンコン。緊張で震えそうな手を何とか制し、社長室の扉をノックした。
「失礼いたします。小田嶋麻衣です」
入社した日、俺はいきなり社長に呼び出された。
入社するまでは、トップアイドルを40人以上抱えているのだから何百人も社員がいる大規模な事務所だとばかり思っていたが、実際のところはそこまでの規模ではない。諸々の人員を合わせてもこの場で働いている人間は30人程度だった。ただ事務所自体は都内の一等地にある、いかにも小奇麗でお洒落なビルの中にあった。
「はーい、どうぞ。入って」
「失礼します!」
社長室と言ってもさして豪華な装いがあるわけではない。社長本人のデスクと小さな応接スペースがあるだけだった。社長のデスクの上には雑多な資料が山のように積まれていた
ちなみにコスフラはWISHの発足と同時に設立された。つまりWISHのために設立された事務所ということだ。今後増減があるのかもしれないが、現在の所属はWISHのメンバー46人だけだ。
「ほら座って、座って!」
「あ、失礼します」
年齢は40歳前後だろうか?黙っていればいかにも妖艶な美人という雰囲気なのだが、気さくな性格で誰からも慕われているようだ。彼女はこの芸能事務所の社長に就任するまでは例の大プロデューサー滝本篤の下で別の仕事をしていたそうだ。つまりはこの事務所そのものが滝本篤の息の掛かった組織だと考えて良いだろう。
「小田嶋さん……いや麻衣ちゃん。これからよろしくね!……しかしあなた本当に裏方で良いの?あなたのルックスなら全然メンバーの中に入っても違和感ないと思うわ。……いや、かなり人気出ると思うわよ。ルックスだけならWISHの中でもトップクラスじゃないかしらね?」
「いえいえ、そんなことないです!私なんかが恐れ多いです!……それに私ももう大学卒業した歳ですし。私は陰からWISHのために働きたいんです!」
俺は自分の熱意を伝えた。言うまでもなく本気だ。……なんたって自分の命がかかっているんだからな!
それにしても……最終面接の時はもっと遠い距離だったから、間近でこうして会うのは初めてのはずだ。今日の俺の格好はパンツスタイルの地味なスーツで、メイクも最低限で顔を半分以上覆うマスクをしているのだが、それでも小田嶋麻衣のルックスを一発で見抜くとは流石にこの仕事をしているだけのことはある。
「そうなのよね……あなたの熱意、それに業界やグループに関する知識の広さは間違いなくウチで欲しかった人材なのよね。……まあ仕方ないわね。あなたがそう言うのなら社員として頑張ってちょうだいな」
最終面接ではその点を評価されて採用に至ったようで少しホッとした。
10年後から来た俺もすでに5年を小田嶋麻衣として過ごしてきたが、当然まだ5年後の未来までは見えている。その先の展望をそれとなく述べたところ、社長を始め多くの大人たちの心を打ったというわけだ。
「あら?でもあなた今、年齢のことを言ったわよね?もう大学卒業した歳だって……でもこれからは『清楚なお姉さん系』としてWISHは地位を築いていくって言ってなかったかしら?」
「そうです、はい!それは確実……だと思います」
WISHの一つの特徴はアイドルの年齢的適正の上限を上げたことだ。
それまでは「アイドルは10代こそがピーク」という考え方がかなり強かった。つぼみだった10代思春期女子が花開いてゆく様を楽しむ……というのがドルオタ主流の楽しみ方だったわけだ。
WISHはその概念を少し変えた。要因は様々でそれを最初から狙っていたわけではないだろうが、人気メンバーがたまたま20歳以上に集中していたこと、彼女たちが女性誌のモデルとして起用されたことで同性からの支持が強くなったこと、グループのイメージがそれまでのアイドルの弾ける元気さよりも大人しく上品なものだったこと……などなどである。
実際WISHの人気メンバーの多くは、20代半ばくらいまで在籍することになる。
「じゃあ、あなたの年齢でも充分いけるんじゃないのかしら?あ、それとも全然清楚とは違う……ってことかしら?」
「え?や、ちょ、近いですって!社長!」
社長は俺の肩に手を置いたかと思うと、いつの間にか耳に吐息を吹きかけてきた。……マジでなんなのこの人?男の俺だったらとっくに自制効かないよ?
「あら、別に経験豊富ってわけでもなさそうね?……まあ良いわ。麻衣ちゃんには今日からマネージャーとしてメンバーのサポートに回ってもらうから。よろしく頼むわね!」
「……え、マ、マネージャーですか?私てっきり事務だとか経理だとか、そういった仕事に就くものだとばかり思っていたんですけど。……ほら私、資格も色々ありますし」
大学在学中に苦労して取得したビジネス系の資格を幾つも俺は持っていた。そういったものはなるべく早く取っておいた方が、後々有利になることを前世の俺は知っていたからだ。採用されたのは当然そうしたスキルをも買われてのことだと思っていた。
「うーん、それも考えていたんだけど、あなたは思っていたよりも優秀な人材になりそうだから、今のうちになるべく現場の経験も積んで欲しいって思ったのよね。……ね?これは業務命令だから。拒否権はないから、ね?」
いや、そんな猫なで声で言われても……逆らいようがないことは分かってるよ。
……でもマジか、もっと裏方っぽい仕事の方が性に合っている気がするんだけどなぁ。
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