捨て猫を拾った。食べる為に。

瀬戸あくび

腹が減った。

 仕事帰りに、捨て猫を拾った。

 十年来の、友達が死んで、丁度一年が経った六月のことだった。

 猫を拾ったのは、哀れみとかそんなんじゃないし、俺は犬派だ。

 ただ、これについて、一つ言っておかなければならないのは、俺が酷く痩せていることと、今日、十分で帰された日雇いのバイトが重労働だったということだ。

「なあ、ケイ。俺は一体どうしたもんだろうな?」

 俺はワンルームの部屋の隅の床に直置きしてある電機ケトルに話しかけた。名をケイという。

「そんなの知ったこっちゃないさ」

 ケイはいつもの仏頂面をすましていった。俺はケイの塩対応に構わず続ける。

「俺はもう腹が減ってどうしようもないんだ。ほんとは、稼ぎに出る元気だって、ないんだ」

「あぁ……そうなんだ。じゃあ、さっさと死んぢまいなよ」

「そうにもいかない。そうにもいかないんだ」

 俺はケイを睨みながら、胡坐を崩し、立ち上がった。そして、ケイが座っている隅の対角線上に敷いてある、布団の足もとで縮こまっている、毛並みの粗い、白黒のハチワレ猫に迫った。

「食い物があるってのに、死ぬわけにはいかないだろ」

「猫は食べ物じゃないよ」

「そんなの、誰が決めたんだよ」

 俺は、変によそよそしい怒色を、内心でケイに向けながら、かといってそれを決定付けるような勇ましい一歩は踏み出さずに言った。

「そこまで飢えてるんなら、ゴミ捨て場でも漁ってきたらどう?」

 なんて尤もらしいことを言うもんだと思って、俺は若干自分を恥ずかしく思った。

「そうも、いかない。俺は、大人なんだ。大人は、偉いんだよ。偉いから、子供の、手本にならなくちゃいけないんだよ。だから、大人は、俺は……大人だから……ゴミ捨て場なんか、漁るわけにはいかないんだ」

 俺は右手で頭を抱えながら、小さな二つのひとみを、後ろめたく見下ろしながら、それでも、実際には、口では、そう言った。

「だから猫を殺して食べるのか、とんだきXがいだ」

「うるさい……ああ、どいつもこいつも、なんてうるさいんだ」

 俺は逃げるように布団に包まった。そうして、幾許か、途方もない不安の、数年、いや、数十年前にはもう使い物にならなくなって草臥れて、壊れて、錆びついた、線路の橋と橋を行ったり来たりしながら「電気を消さないと」と思い直して、普段から、こいつには弱みを見せまいと努めている、いつも自分に訝しそうな顔を遠慮なく向けてくる老いぼれの教師に、間違って「お母さん」と呼んでしまった数舜後のような激しい後悔と恥辱との海に重力場を失いながら、水面にもがき出ようと酸素を乞うようにそそくさと部屋の電気を消した。

 寝た。


 朝、起きると、俺はいつも通り、通販サイトで買った、哀れな、薄いオニオンスープを啜りながら、「いや、これがみすぼらしいものだと思うのは、これがみすぼらしいからなんかじゃなく、俺がそう、これを啜っている自分を中空から眺めてみたときに、そう感じるからなのだ」と思ったりしながら、次の瞬間には、こんな哀れなスープがもたらす恐ろしいほど些細な幸福なんかに懐柔されて、さっきまでの思案を忘れた。

「今日はバイトの面接があるんだ」

「どうでもよ」

「そうなんだ、どうでもいいんだ」

「君にとっては、どうでもよくないんじゃない? 生活が懸かってるんだからさ」

「どうでもいいんだよ、それでもな。ただ、どうでもよくないのは、俺が食べる飯のほうで、働くとか、それ自体は、どうでもいいことなんだ」

「君はいつもそうやって、下らない屁理屈の城を建てて、そのてっぺんで、ひとり淋しく膝を抱えるんだ」

「仕方ないだろ。地上は恐ろしいんだから、そうでもして、なにか考えるふりでもしてないと、頭がおかしくなっちまう」

「頭がおかしい人は、自分が頭のおかしい人だってことに気付かないものだよ」

「そうとも限らない。たとえば、視線恐怖や、不潔恐怖の患者なんかは、自身では、その強迫性が全く以て非合理的で馬鹿げていることに、嫌になるくらい気付いてるんだ」

「下らないね」

「全くだ、まったく、下らない話だ」

 俺はマグカップの底が透けた浅瀬のスープを眺めながら、それを飲み干して、思った。

 これは確かにうまいが、やっぱり、こんものばかり口に入れていては、死んでしまう。

 『ところで、なあ。死んでしまって、なにが問題なんだろう? 俺の人生の価値なんてものは、この哀れな、安い、百袋入りで千円を切るオニオンスープのうち、たった一袋ががもたらす幸福値よりもずっと低いだろう』、そう、ふと疑問が浮かんだあと、俺は頭を振って、台所の下段の収納の、扉にくっついている、ナイフ入れから、包丁を取り出した。

「腹が減ったんだ。理由なんてのは、それだけで充分なんだ」

 俺は布団の足元の、ケイの対角線上の部屋の隅で、体を巻いて寝ている白黒のハチワレ猫に昨日のリベンジだと言わんばかりに迫り立ってみた。そうしていると、どうにも頭の中心が渦を巻いて、全ての一見複雑そうな考え、家賃の滞納による不安、無気力による不安、身寄りのなさからくる不安、そうした一切のあれこれが、まるで無意味そうに霧消していくのが分かり、そしてそれと同時に、こうも思った。

 今思えば、俺が最近、自分の意思で、こうしようと思って行動したのは、この、「猫を食べる」ということくらいじゃないか、なら、俺はこのか弱い猫すら喰らえずに、なにが成せるっていうんだろう?

 そうして、さっきまでの、妙な、達観したような感じとか、雰囲気とかを忘れて、俺はまた、ひとすらに頭を捻って、それから、ああもうこんな時間だと思って、焦って面接に向かった。


 そのレストランには、何度か行ったことがあった。あれは、まだ俺が、疲れてしまう前のことで、あの頃は、友達もいた。 

 俺は、そんなことを思いだした。けど、特別な思い出とも思えず、寧ろ、それ自体が虚無の引き金になっているような気すらした。

 誰かを頼ったり、たとえば、友達に弱音を吐いたりして、これが解決するのであれば、いや、実際には解決しなくても、そう希望的観測を持てるのであれば、それはとても喜ばしいことだと思った。

 だが俺は、それなりに幸せになったことがあるからこそ、それなりの幸せなんかじゃ、現世の虚無の前には全く無意味であることを知ってしまって、彼と過ごした生暖かい日々が、かえって現在の絶望を深めているように思えたのだった。


 若い、高校生くらいの女に、大学生くらいの、俺と同じくらいの年恰好をした男など、数人の活力旺盛そうなウェイター共をぼうっと眺めたあと、レジスター係の女定員に声を掛けられて、俺は「バイトの面接を受けに来たものです」と返事をして、バックヤードまで彼女の背を追って、辿り着いた、簡易的な事務室のデスクの前に座っている、店長らしきおっさんを発見した。

おっさんだ。なんて恐ろしいんだろう……おっさんだ……。

 俺は怖かった。年を取ってなお、生きているのが、怖かった。 

 俺は、そのおっさんに自分を投影して考えてみた。

 見たところ、四十は軽く超えているらしいおっさんだが、四十年生きて、彼はその、自分の人生一旦の終着点が、たとえ存在しなくとも、人命や、生き甲斐になんの影響もない、いくらでも変わりの利く、チェーン店の長であることについて、どういう所見をもっているのだろうと考えたが、そう考えると、また俺は、どうにも恐ろしくてたまらなくなった。

 俺はいま、こうはなりたくないと思ったのかもしれないが、彼のほうはどうだ?

 たとえ二十歳に戻れるとしても、俺のような、哀れで、安い人生を送るくらいなら、若さを捨て去ってでも、まだ、ずっとマシな、彼本来の、ある意味では健やかですらある穏やかな境涯をそれはそれは大切そうに懐で温めるのではないだろうか。


 そんなことを考えながら、俺は店長の形式的な質問に答えながら、腹が減ったなあと、わけもなく彼のデスクの上に置かれた、失くしても大した問題にならなそうな書類の文字の端の、印刷機のぽんこつ度合いからくるであろうインクの滲みから、そのポテンシャル以上の、深い、寓意的な意味を見出そうとしてみて、すぐ諦めた。

 そのインクの滲みには、なんの意味もないのだ。

 ただ、インクが滲んでいるだけだ。だが、それが、俺の人生にも当てはまるとするなら、なんという虚無だろうか?

 俺はただ、特にロマンチックなカルマもなく、ただ、無意味に、全く、同情する余地もないほど単細胞に、この、現状、俺が下手に出る必要のある四十半ばの男に、にへらにへらしながら、頭の片隅では、今すぐにでもぶん殴って、金を盗んで、車のキーを抜いて、その足で、死ぬまでもう、野暮ったいことなんか一つも頭に浮かぶ隙間もないくらいの衝動に身を任せて、カーラジオからお誂え向きに流れ出す讃美歌を絶唱しながら、いつかの幸福な夏の風を追い越すくらいのスピードで、金輪際、一切合切もう、逃げ出したいと思っているのだ。


 しかしどうだ、と俺は悲しくなった。

 飢えは、単純な、社会的な、足りなさというのは、こんな真摯な内省すらどうでもよくなるほどに凶暴で、俺は次の瞬間には、この男に頭を垂れて、「失礼いたしました」とかでも言うのだ。

「それじゃあ、土日も積極的に入ってくれるんだね。助かるよ」

 老いた男がそう言ったところで、俺は、久々に十時間以上眠った上、起きた瞬間目に飛び込んできたのが、寂しげな、藍色の午後の薄明だったときのような、自己の存在の不安定さを感じた。

「うちとしては、ぜひ明日からでも来てほしいんだけど、どうかな?」

「どうだっていいんです」

「……なにが?」

 数十秒の間が空いた、あと、男は隠していた牙を半身だけ素早く覗かせるように、角ばった声色で言った。

「今はただ、お腹が空いてて、だから、俺は、美味しいものを食べて、それから、色々、出来るようになるんです」

「……どうしちゃったの、急に、体調悪いんだったら、もう帰っていいから」

「俺は、あなたを哀れな老人だって思ってます。けど、それは、俺も一緒なんです。いや、もっと言えば、ホールを往来する、若いウェイターも、窓際にいた快活な家族も、みんな哀れな老人なんです。けど、誰も、気付いてなんかないんですよ。自分が、どこにでもいる、いくらでも代わりの利く、自分があるようで、どこにもない、ただ、当たり前みたいに、常識的な範疇の、普通の幸福を、本当に、本物の幸福として、微塵も高望みせず、夢を見ることすらなく、無自覚に生きているってことを」

 男は固まっていた。俺は、バックヤードを抜け出して、帰ろうと思った。

 ホールに戻って、出口に向かう途中、デミグラスソースのかかったハンバーグとか、貝が沢山乗った、魚介パスタの匂いとかが、一つ一つ嗅ぎ分けられるくらいに、俺の食欲が、このファミレス全体にたちこめていることに気付いた。


「猫を殺して食うより、ずっといいじゃないか」

 

 俺は匂いから匂いへ、人から人へと、テーブルを回り、素手で、他人の飯を食い漁った。ただ、いくら食べても、美味しいと思えることはなく、欲望は満たされなかった。それでも俺は、一心不乱に、食い物を強奪し続けた。

 店長と、図体のでかい、三十に迫るほどの調理人らしき男とに取り押さえられ、やがて、警察が来て、俺はパトカーに乗せられた。


 *


「なあ、ケイ」

「なんだい、ケイ」

「俺はさ、なんであんなことをしたと思う?」

「さあ、君のことなんだから、君にしか分からないよ」

「そうなんだよ、俺は、分かってるんだ。いや、分かったんだ」

「そぉっか~。よかったね」

「俺はなあ、元気だったんだ。あの頃だって、今と同じように、元気だったんだ」

「そうは見えなかったけど」

「俺が悲しかったのは、俺が、悲しまないといけなかったからなんだ。ほんとうは、みゃーすけのことだって、ただ、可愛がりで拾ったし、空腹だけで気が狂えるほど、食に貪欲なタイプでもないんだ」

「悲しまないといけなかったって、どういうことなのさ」

「親友が、死んだら、悲しまないと、冷たい人間だろ? だから俺は、四六時中、悲しむのが、俺の仕事だと思ったんだ。けど、そんなことないのにな。俺は、無理してあいつのことを考えないでもいいと思うようになってから、あいつのことを、あの時なんかよりずっと鮮明に思い出すようになったし、泣かなくたっていいと思い切ってから初めて、俺は、あいつの死を、泣いたんだ」

 今では、誰にだって負けないくらい、気高く、勇敢に思える値段の安いオニオンスープを飲みながら、俺は続ける。

「なあ、お前はただの電気ケトルだから、喋らないことだって、今は、分かるんだ。話し相手だって、作れるようになったからな」

 カーテンから差し込む朝六時の夏の西日に照らされた、部屋の隅の電気ケトルは、もう二度と俺に口を利くことはなかった。

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捨て猫を拾った。食べる為に。 瀬戸あくび @nakinyako

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