やる気スイッチ
「……うん。とても良い傾向」
夜、暗い部屋の中で上半身を起こした霞はそう呟いた。
少し顔を横に向けると、そこに居るのは何よりも大切な愛おしい恋人の和希が眠っていた。寝る前に夜のプロレスにしゃれ込み、お互いに満足したところで寝る準備を済ませたのだ。
「すぅ……すぅ……霞ぃ」
「……ふふ」
隣に寝ているはずの霞を求めるように手を伸ばす和希の様子が可愛くてたまらなかった。頬に手を当てて撫でるとくすぐったそうに身を捩るが、そんな仕草すらも頬が緩んでしまう。
「……本当に良い傾向」
さて、霞の口にした良い傾向とは何のことか――なんてことはない、和希が霞のことを求めてくれることに対する言葉だ。
そんなに頻繁に愛してくれとは言わないが、やっぱり一度和希に愛されることを経験したらまたしてほしいと思うのは当然だった。相変わらず恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまう霞だが、それでもアピールはしっかりしていくと決めていた。
「ねえ和希、お風呂の中でも私は我慢してたんだよ?」
和希がシャワーを浴びている時に忍び込み、自慢の体を押し付けて誘った。しかしそこでは我慢したみたいだが、その後にちゃんとお返しというか霞の体に興味を持っている行動をしてくれた。
「……っ」
頭からシャワーを浴びている時、何も見えない中で和希に触れられるのは気持ちが良かった。視界が封じられているからこそ触覚がいつもより働いたのか、胸に手が触れただけで体が震えたのだから。
揉まれただけでも声が出そうだったのに、指でピンと弾かれた瞬間にそれはもうスイッチが入った。やる気スイッチというやつである。流石にそういうことをするならベッドの上という気持ちもあり、夕飯も控えていたということで霞は我慢した。
「……求められるって嬉しいんだね凄く」
仕返しの悪戯なのは分かっていたし、あれを合図と解釈して夜にその時間を設けたのは霞の狙いだが本当に至福の時間だった。
「……私は和希が好き、和希も私が好き。相思相愛なのは言うまでもなく、お互いにあんな風に求め合う仲……これって無敵なのでは?」
誰に言い聞かせるでもなく霞はそう言って頷いた。
和希は霞のことをたくさん考えてくれているし、たくさん大好きだという気持ちを伝えてくれる。その逆ももちろん然りだが、もっとお互いに強く結びつきたいと思った。
「……結婚だね」
このまま愛を育んでいき、将来は必ず結婚してみせる……それが霞の目標だ。
幼馴染は結ばれない、初恋は実らない、そんな謳い文句の漫画や小説を幾度となく読んできた。その度に霞は絶望した後に奮起し、たった一つのチャンスを掴み取って今の関係に辿り着いた。
「私は行動した。でもあなたたちは行動しなかっただけ……私は勝ちヒロインであなたたちは負けヒロイン」
あなたたちとは当然恋を実らせられなかった物語のヒロインに対してだ。
そこまで口にした霞は一人で何を言ってるんだと苦笑して大きな欠伸をした。明日も学校だし寝るとしよう、霞はベッドに戻り和希の体に抱き着いた。
「……♪♪」
すると霞を抱き枕にするように和希が抱き着いてきた。
今日も霞はそんな大好きな人の腕に抱かれて眠る。その表情はとても幸せそうであり、同時に和希のことをどこまでも想っている目をしていた。
期末テストも終え、夏休みまで残りの日数も少なくなってきた。
その少ない日数の中でも、やはり好きな人を想い充実した日々を送る霞はどんどん魅力を溢れさせていった。デフォルトである無表情ではなく、笑顔も多くはないが見られている。
「ねえ霞」
「なに?」
そんな霞の近況がとても気になるのが友人たちだ。
決して茶化す意味はなく、霞の口から幸せな日々を直接聞くのが楽しみになっていた。和希が聞いたら絶対に照れてしまうようなことでも、おだててしまえば話してくれる霞が可愛くて仕方ないのだ。
さて、そんな霞と友人たちの間で今日も話がされていた。その中で霞がまず口にしたのはこれだった。
「人間にはやる気スイッチがあるんだよ」
「やる気スイッチ?」
何のことだと舞と美琴、怜は首を傾げた。
霞は向こうで友人たちと雑談に興じている和希に目を向けた。すると和希も自然と霞に目を向け、お互いの視線が交差した。
「……うん」
「……??」
和希に向かって霞はグッと親指を立てた。和希も首を傾げながらも霞に応えるように親指を立てるのだった。その返しに霞は頷き、舞たちに視線を戻して話を続けた。
「この間、和希がお風呂に入っている時に突撃したんだけど」
「うん」
「おぉ!」
「……うんうん」
これは何やら香ばしい香り、それを感じて三人は身を乗り出すように霞の言葉に耳を傾けた。
「それで背中から抱きついて誘惑したんだけど、その時も何もなくて……問題はその後だったの」
三人とも、聞きたくて仕方ない様子である。
「私がシャワーを浴びている時に和希が後ろから抱きついてきて、胸を揉んでここをピンってやったの」
「っ~~~~!!」
自らの豊満な胸元に指を向け、人差し指で弾く動作をした。それだけで霞が言いたいことを理解した三人は咄嗟に顔を真っ赤にし、次いで霞から視線を和希へと向けた。和希はいきなり三人が視線を向けてきたことで困惑しているが、もう一度霞はグッと親指を立てておいた。
「……霞はずっと先のステージに行ってるんだね」
「だね……すっごいわ」
美琴と怜の言葉に霞はクスッと笑った。
「大丈夫、みんなもその内素敵な彼氏が出来るよ」
それは霞の心からの言葉だった。
親友たちへ向ける慈愛の込められた言葉で、三人はこの時だけ霞が女神に見えたとか。しかし忘れてはいけない、単純にそれは霞の惚気から出た言葉であることを。
「あの霞にここまで言わせる竜胆君が凄いんだねこれは」
「うん。和希は凄い」
「それはどういう意味で!?」
何だかんだ興味津々思春期の友人たちだった。
だが当然流石にそこまでは霞も話すつもりはない。とはいえそれならやる気スイッチ云々も話さなければいいのでは、なんて思うがそこは友人たちに自慢したかった気持ちと恥ずかしがる姿を見たかった霞の悪戯心だった。
さあ、そんなこんなでとても長い夏休みの日々がやってくる。
しかし同時にそれが和希の両親が帰ってくるまでの短い日々の始まりでもあった。
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