とある年末の書面審査 - 拝啓で始めるなら敬具で締めろ
辻野深由
第1話 2021/12/12
今年もこの時期がやってきた、と辻村は職場の隣にある給湯室で小さくため息をこぼす。
思えば去年は散々な十二月だった。予算消化とか決算へ売上計上を食い込ませるためとか来年に面倒は残したくないから、なんて理由でこの手に余る数の契約審査の依頼が舞い込んできた。鴨が葱を背負ってくるならかわいいほうで、両手に包丁すら握っていないのに生きたままの蟹やら処理されていない河豚やらが持ち込まれては捌け捌けとの大号令。忙しくない時期ならまぁやってやろうかって気持ちにはなるけど、タイミングってもんがあるでしょう、何事にも。
そりゃあみんな浮足立って急いでしまうのもわかる。普段は和気あいあいしている間柄でも、年末に向けて誰もが案件という名の大小さまざまなボールを他人に投げつける。心のドッヂボールだ。
うまくキャッチするか避けるかしないとたちまちアウト。セーフティゾーンで穏便にやり過ごしたい気持ちになるのは人類皆平等。あたしだって当たりたくも避けたくもない。というかボールを抱えて鬱屈した気持ちとともに年なんか越したくない。もうさ、年末も中旬に差し掛かって年内稼働日10日もないってのに新しい契約案件とか相談案件を投げつける輩のこと大嫌いになるわけ。年内にどうにかしたいなんて懇願されたって困っちゃう。目の前のまな板に並んだ案件の前処理をやってるわけだから当然のように手が空いてないっての。あなたは整理番号110番でーっす、って鼓膜が破れる距離でわぁっと叫んでみたい。まさしく
つうかさ、客先が急ぎだからって、こんな年末に急いでる業者なんて飲食店か物流かコミマで原稿に追われている人種くらいだろって話。取引先からボールが返ってくるタイミング調整するのは営業と企画の腕の見せ所じゃないの? つうかアメリカとかヨーロッパなんて12月の中旬から仕事モード抜けちゃうでしょ。
でも、そういう愚痴を垂れながらも今年はしっかりやったわけですよ。いつも以上に。去年のような悲惨なクリスマスにならないよう、ほぼすべての案件に目途を付けた。あの忌々しい女狐の案件も片づけてやった。あとは毎日定時できっちり上がってコミマの原稿を進めないといけない。こればかりは命と同じでなにがあろうと落とせないのだから。
今日もあと二時間ばかりで終業時間だ。平穏も平穏。愚痴を垂れながらも喜怒哀楽を殺して契約キリングマシーンの如く捌いて捌いて捌きまくった結果、手持ちの案件は片手で数えるほどだ。あたしってホント優秀。
***
「年末はもう予定決まってるの?」
コミマまであと二週間と迫った十二月中旬のとある昼下がり。隣でコーヒーに砂糖をどばどば入れながら我妻が聞いてきた。経理部も年末は決算処理で忙しい時期だろうに、どういう絡繰りなのか彼女は涼しい顔をして毎日のように給湯室で優雅にくつろいでいる。
人が足りてないのが本部の常態だから暇を持て余しているってわけでもないだろうに不思議だ。経理系の資格を持ってたはずだから、仕事が早いのだろうか。なんにせよ、羨ましいことこの上ない。
「毎年の恒例行事でずっと有明にこもりっきりだけど」
「それ、年末いつもニュースになるやつだ。コミックなんちゃらってやつ」
「よく知ってるじゃん」
「え、なになに、叶絵ってそういう人種?」
「……悪い?」
「え、いや……そうなんだぁ、って。別にキショいと思ってないよ。いまどき誰だってアニメ見るじゃん。ほら、呪術とか鬼滅とか。ああいうコスプレとかする場所でしょ? 叶絵もコスプレ――」
「しないから。友達の手伝い」
「ってことは……カメラマン?」
「違うから。その思考から離れて。あたしは普通に売り子さんやるの」
「へぇ……なんか売るんだ。なんか作ってるってことでしょ? 友達はなにやってる人?」
「守秘義務があるから秘密」
「えぇ~、いいじゃーん。わたしと叶絵の仲じゃん?」
「知りたかったら現地に来たらどう? 逃げも隠れもできないから、探せばすぐ見つかると思うけど」
なにしろ我が家の姫はシャッターサークルの主だ。
会場をほっつき歩いていれば否応にも目に付く位置にブースがある。
「いやぁ、それは勘弁かなぁ。わたしもコンサートあるし。Jの」
「あー、それはそれで大変そう……」
「わかる? もう毎年準備がほんと大変でさぁ、フラスタ作らないといけないのに仕事が忙しくてそれどころじゃ――って、飯沼じゃん」
我妻が甘ったるいコーヒーを口にしながら辻村の後ろへ怪訝な眼差しを向ける。
振り返ると、滅多に見かけない同期の飯沼が困惑した面持ちを浮かべて突っ立っていた。
「……えっと、女子会のところすまんが、俺もコーヒーもらっていいか?」
「わたしも叶絵もあんたの秘書でも助手でも庶務でもないのでセルフサービスでどうぞ」
「…………」
予想だにしていなかったのだろう、我妻の冷たい対応に、飯沼が固まった。
「なに? なんか文句ある?」
「いや……その……すまん。コーヒーの淹れ方教えてくれないか?」
「……呆れた。あんた結婚してるくせに普段自分が飲んでるものの作り方すら知らないなんて。パートナーが普通にかわいそう。誰かに淹れてもらわないと珈琲一つ飲めないなんて恥を知れ、恥をっ!」
「ううっ……なんで俺、休憩に来ただけなのに同期に叱られないといけないんだ……」
「ほら、飲みたいなら頭下げて教えを希えっ!」
「……お、教えてくださいっ……」
「……ふむ、よかろう。ちょうどポットも空っぽになったから、ドリップするところからやるか」
我妻のレクチャーのもとたどたどしい所作で珈琲を淹れた飯沼が、一口啜ってほっと一息入れる。
「これで次からは一人で作れるようになったね。講師料もらいたいくらいだわ」
「まさかこんなタイミングで教えを乞うことになるとはな……」
「わたしに感謝しろ。つうか普段はどうしてたんだよ」
「いやぁ、それがさ、職場の近くの自販機が壊れちまってな。それで仕方なくここまで足を伸ばしてきたってわけなんだけど」
「調達部門の居室ってここから遠くない? もしかしてサボりか?」
「かれこれ10分以上はここにいるだろう我妻に言われたくはないな……」
「失敬な。わたしはしっかり自分に任された業務をやり終えてここにいるわけ。つまりお給料相当のお仕事はとうに完遂してるの。そういう意味でわたしはサボりじゃない。でもあんたは……その手にある書類を見る限り、まだ仕事がたんまりあるって感じよね。しかも、ちょっと自分じゃ手に負えない感じのやつ」
「……サボりじゃねぇ。けど、まぁ、正解だよ。法務に急ぎのお願いがあってここまで来たんだ。ここに寄ったのはついでだ」
「……あんたが法務に用?」
思わず険の混じった声が出た。
誓って、こんな時期に新規の案件を抱えたくないからではない。
調達部門から持ち込まれる案件は大概が面倒で大物だ。部品や生産財の購入を一手に担うだけあって、世界各地のメーカーと日々交渉をしている。価格しかり、品質しかり、納期しかり、契約しかり。
丁々発止息の詰まるようなやりとりを外部としている部門にいる動機が法務の顔色を窺うような態度を取るとき、持ち込まれる相談案件は往々にして面倒事になっている証なのだ。取引先との交渉がスタックしているだの、保証条件で折り合いがつかないだの、だから法務も交渉に同席してほしいだの。
普段なら快く買って出るけれど、時期が時期だ。しかも急な依頼ときた。
「……用件は」
「法務って相手先との取り決めに関することならレビューしてくれるよな?」
「……内容次第だけど」
「製造委託先に出さないといけない依頼文書の内容チェックしてほしいんだよ。A4で1枚だからすぐできるっしょ?」
「……その内容次第なんだけど」
「まぁまぁそう言わずにさ、お願いだよ。今度一杯奢るからさ!」
「飯沼くんと飲む暇ないしなぁ……」
「そう言わずにさ、頼むっ! 先輩からも法務にチェックしてもらえって頼まれてんだよ」
「…………」
「この通りだっ!」
飲みかけの珈琲を片手に、直角に腰を折り曲げ頭を下げている同期の後頭部。まだ二十代も前半だというのに、いつの間にか増えたのだろう、所々に覗く白髪がなんとも似合っていない。
「…………ずるいなぁ。こうも綺麗なお辞儀をされちゃあ、社会人として断るわけにはいかなくなっちゃうんだけど」
「頭を下げて交渉に勝てるなら安いもんだ」
「飯沼も苦労してんのねぇ……」
お手本のようなお辞儀を前に、我妻がどこか呆れたような声を出しつつ、
「でも、まぁ、確かにここまでされるとねぇ……無碍にはできないってのはわかる……」
「まぁ、それでもNGなときはNGって言うのが法務の仕事でもあるからね」
「えっ、ちょっ――」
焦った飯沼が思わず顔を上げる。
困り果てて歪みきった目元がなんとも庇護欲をそそられる。なるほどこれは結婚できるわけだなぁと、どこか得心してしまいそうになって、そんな気持ちを悟られないよう辻村は目線を逸らした。
「ま、それは一般論な話ってわけで、別に断るって言ったわけじゃないから」
「っ!! そ、それじゃあ……」
「さっきから言ってるでしょ? 内容次第だ、って」
「なら早速打ち合わせさせてくれ! 我妻と休憩してたくらいなんだ、どうせ暇なんだろ?」
「「決めつけるなっ! バカタレがっ!」」
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