続・記す人々

十森克彦

第1話 ヨエル

 見渡す限り、荒涼としていて砂漠を行くようだった。畑ばかりか道端の草に至るまで、緑色のものはどこにも残されていない。所々に、一帯を荒らした張本人であるいなごが力尽きて、死骸となって転がっていた。

「ひどいものだ」

 ヨエルはその風景の中を歩きながら何度目かのため息をついた。突然、南の空が暗くなったかと思うと、空を覆うほどの大群が現れた。一週間ほど前のことだ。それは瞬く間に地を覆い尽くし、畑と言わず森と言わず、情け容赦なく食い尽くした。それは人の手に抗えるものではなく、エルサレムの近郊は不毛の砂漠と化した。中には、虫に食われるくらいならと自らの畑に火を放ってしまった者もおり、燻り続ける火のためにところどころから煙が立ち上っていた。

 一帯に広がっているのはまさに傷跡と呼ぶにふさわしい惨状だった。それは城内に入っても同様で、平時ならば商売をする賑やかな呼び声が行き交っている通りも、まるで人がいなくなってしまったかのように、静まり返っている。そのくせ、辻々にはいつも以上に人が集まっている。ただ、例外なくどの顔も途方に暮れて目を澱ませていた。

「時がないな。急がなければ」

 ヨエルはそれらの風景の中に希望を見出せないまま、レバノンの森の宮殿と呼ばれている王宮の前に立った。この災害は、神からの警告に違いない。歩くほどに、ヨエルの懸念は確信に変わっていた。

 王宮はかつてこの国が最も力を持っていた時代に、ソロモン王が建てたものだが、その壮麗さはいまだ失われていない。しかし、市中と変わらない閑散とした状況が、かえって物悲しさを感じさせた。

「王は、ヨアシュ王はおられるか」

 その声は人のいない建造物に虚しく響きわたるだけかと思われたが、予想に反して閉ざされていた王宮の扉が開かれ、中から複数の人間が出てきた。

「なんだ、お前は」

 怪訝な表情を浮かべながら進み出た男には、見覚えがあった。確か、祭司エホヤダの死後、議官として王の側近に加わった一人だ。

「私はヨエルだ。預言者として神のことばを王に伝えるために来たのだ」

「預言者だと。ならばここで申せ。我々が聞こう。王にお伝えすべきかどうかは我々が判断する」

「神のことばは王に直接伝えられなければならない」

 王に取り次ぐつもりなど、ない。そもそも、祭司が死んだのをいいことに、王を神殿から引き離したのは彼らである。ヨエルは食い下がろうとしたが、彼らの頑なな表情は全く動く様はなく、強引に入ろうとしても捕えられて追い出されるだけだということは目に見えていた。

「虫に食い尽くされたこの惨状を見ただろう。目を覚ませ。これらは警告だ。まもなく、大いなる裁きの日が訪れる。そうなる前に断食を布告し、神を求めよ。あわれみによって、災いを思い直してくださるかもしれない」

 止むを得ず、その場で叫ぶように語ったが、男の顔には冷笑が浮かんだだけだった。

「言いたいことはよく分かった。災害が来るというのだな。ならばお前がまず率先して避難すればどうだ。我々は守ってやることができないのだろうからな」

 王宮から顔を出していた一同の間に失笑が起こった。先に話していた男が手を払うようにして、ヨエルに退出を促した。なおも言い募ろうとしたヨエルの前に、どこから出てきたのか衛兵が立ちはだかり、ヨエルの腕をつかんでその場から強引に連れ出した。ヨエルは言葉にならない口惜しさに歯噛みしながらそれ以上は何も言えず、退出せざるを得なかった。


 神殿では、破損個所の修復工事が進められていた。かつてヨアシュ王自身がそのための費用を集め、始めさせたものだったが、神殿を顧みなくなってもその工事だけは続けさせていた。

 幾日かの後、羊皮紙を抱えたヨエルは、今度は王宮を行き過ぎて神殿を訪れた。

「ヨエル殿、ご無事でしたか。王宮で手荒い扱いを受けられたと聞いて、心配しておりました」

 祭司のゼカリヤが姿を見せた。かつてヨアシュ王を虐殺から匿い、信仰に生きるようにと養育したエホヤダの子だった。

「ご心配いただき、恐縮です、ゼカリヤ殿。しかし、ゼカリヤ殿の方こそ、王に随分睨まれているとお聞きしています」

「父エホヤダの死後、信仰的に堕落してしまったヨアシュ王を何度も諫めてきました。恐らく私は間もなく殺されるでしょう。ところで、それは?」

 ゼカリヤの目がヨエルの手元の羊皮紙に注がれた。

「神のことばを、書き記したものです。神殿にお納めするため持って参りました」

「神のことばを、ですか」

 ゼカリヤは羊皮紙から目を離さないままで、言った。

「祈りの中で、神の声を聞いたのです。神殿で語った警告の続きです。かの日には、神の霊を注がれた民が悔い改め、救いが訪れるのです。今は理解できなくても、その時が来れば。ここに記したものは、後に神のことばが真実であったということを知るための、しるしとなるのです」

「後のため、ですか。それならば確かに、神殿でお預かりしておくのが適切ですね。では私共にお任せください」

 ゼカリヤは目を上げてヨエルを見た。後のためのしるし。二人の間を厳粛な空気が満たしていった。

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