昔話 シュー/土くれの旅
やまの かなた
第1話
この一握りの土くれは、かつての誰だったかも知れない。
もしも、この世に力ある者がいて、
この土くれで形を作り命を吹き込んだなら、人になれないだろうか。
この只の土くれから再び始める事が出来るなら、もしもそれが叶うなら…。
「シュー(土くれの旅)」
やまのかなた
ここがどこなのか。今がいつなのか。自分が何者なのか解らぬままに薄暗い中で目が覚めた。
一番最初に思い出すのは暗い穴蔵のような所だ。後で解った事を合わせてみると、奥は崖の下の辺りで、その穴蔵を細工した小屋の周りは丈の高い草が茫々と茂り、そんな中にある朽ちかけた小屋だった。
その暗さの中にも年老いた師が、後ろ姿だけを見せて始終、奥の崖に向かって座禅を組んでいたのを覚えている。これは後になって解った事だ。
その師は身なりも言葉もかなり年老いて見えたから、やはり老人だったのだろう。
私はその師から「シュー」と呼ばれた。
歯の隙間から漏れるようなその言葉が果たして本当は何と言っていたのか、今となってははっきり解らないが、それは風の吹く音にも似た響きで、「シュー」と私を呼んだ。
私が振り向いて師の方を見ると師は相変わらず,こちらは少しも見ないで後ろ手に、薄汚れた古い木の碗に入った何かを私に向けてよこした。
それは粥のような物だった事を覚えている。
食べろというのか?
そう思って、それを受け取って口の中に流した。
少し塩味の効いたどろりとした物を私はその時初めて体の中に入れた。
それが物を食べるという一番古い記憶だ。
物心ついたというのがその時かも知れない。
師はいつも崖に向かって座禅をし、時には経を唱えていた。私は後ろの方で黙ってそれを聞いていた。
ある日、言い忘れていた事を思い出したように、
「シュー、お前はただの土くれなのだよ。」と言った。
だから私が最初に覚えたのは、自分がシューであり、自分が土くれだという事だった。
そのうちに小屋の入り口に、目のクリクリした子供達が来て、小屋の中を覗き込み、ワイワイ騒ぎ立てるようになった。
きっと近くに家々があったのかも知れない。
その子供達は小屋の中までは入って来ないが、毎日入り口から中を覗き込んで、笑い合ったり、ふざけたり、ヒソヒソ声で話をしたりした。
そして何かしきりに言い合っている。
それが妙に気になって、
「何?あれは何?」と私が心の中で思っただけなのに師には解るらしく、
「気にするな!好きなようにさせておけ!」と言うばかりなのだ。
一日に一回、どろりとした碗の粥を食べ、私も師の後ろにいて真似をしながら経を唱えるのだが、子供達の事が気になって仕方が無い。
その度に師は、「気にするな!好きなようにさせておけ!」と言うのだった。
暫らくそんな日が続いた頃、入り口に群がる子供達の中の一人が私に向かって、
「お前は人間か!それともけだものか!それとも化け物か!」と聞いた。
何を言っているのか解らない。
「何?何?」
私が訳も解らず問うと、
後姿の師が、
「あの人間の子供達は、お前を見てお前が人間かけだものか、化け物かと聞いているのだヨ。お前は自分が何だと思う?」
と私に聞いた。
「お前は人間か?」と尚も私に聞く。
私は訳も解らずにドギマギしながらただ、
「何?何?」と思うばかりだった。
すると師は、「シュー、よく聞け!人間とは四つ足ではなく二本の足で立って歩き、また物を食う時。犬猫畜生は口を使って食うが、人間は手を使って物を食う。
お前は何だ?お前は何になりたい?」と聞く。
私はおどおどしながら恐る恐る、
「人間?」と思った。何故かあの子供達が羨ましかったからだ。
「そうじゃ、形は人間じゃ。じゃが今は形だけの人間じゃ。本当の人間は考える。考えて行動する。考えて考えて言葉も話せる。
さて、お前は人間か?」
私は自分がまだ人間じゃないような気がして不安になる。
「シュー、そんなに心配せんでも良い。お前はまだ人間じゃない。
お前の目と耳、鼻と口は備わったが粥を口に入れて飲む事は出来ても、まだ口がきけまい。
だが心配するな。まあそのうち、人間になる日も来る。」と言った。
このやりとりは師と私との心のやりとりで子供達の耳には何が何だか少しも解りはしなかったろう。
何だか解りはしなかったろう。
次の日もまた、次の日も子供達は飽きもせずに小屋の中を覗きに来た。
そして口々に、
「お前は人間か!それとも化け物か!けだものか!」と叫ぶ。
そう言われる度に私は答える事が出来ずに、オロオロとして何故かドキドキするのだった。
そんな私に向かって師は、今度こそ人間にも聞こえるはっきりとした大声で、
「見るなー、聞くなー、言うなー。」と叫んだ。
すると小屋を覗いていた子供達の声が一瞬、息を呑んだように静まり返った。
だけど、この静かな時間はどれ程続くだろう。
そしてあの言葉のつぶてはまたすぐに私に向かって投げつけられるだろう。
私は弱々しくそう思った。
崖に向かって落ち着き払っていられる師が解らない。
その心を読んだように師は更に大声で、
「余計なものは見るなー、余計な事は聞くなー、余計なものは口から出すなー。」と太い声で腹の底から吠えた。
すると、今、まさに再び騒ぎ立てようとしていた子供達は、すっかり度肝を抜かれたように息を呑んで次に何がやって来るかと構えているようであった。
私も同じだった。
すると後姿の師は、今度は同じ太い声ながらずしりと来る重さで、
「目があるから見えるのは仕方が無い。だが余計なものは見るな。大事なものだけを見ろ。」と言った。
師はあの子供達に言ったのだろうか。それとも私に言ったかも知れない。
私はあの子供達は余計なものだから見ない事にしようと目を細く閉じた。
すると次に師は、
「耳があるから聞こえるのは仕方が無い。だが余計なものは聞くな。大事なものだけを聞け。」と言った。
それなら、あの騒々しい子供達の声は余計なものだからと思って耳の表蓋を閉じた。
すると耳の内蓋を通り抜けた小鳥のさえずりや木々の葉をゆする、さわさわとした風の音だけが聞こえた。
私の心はその事で全余程落ち着きやわらいだ。
次に師は、
「人間というものはその口で考え無しに余計な事をしゃべりたくなる。余計な事は口から出すな!余計な事は口から出さずに鼻から出してしまえ!」
と、これはまた太い声で叫んだ。
すると小屋の戸口ではやし立てていた子供達の声がピタリと止んで、心なしかスーピー、スーピーと鼻から何かを出す音がした。
だから私も何?何?とは言わずに、口に出そうなその言葉を、スーピー、スーピーと鼻から出した。
そうしているうちにいつの間にか、あんなに騒々しかった気配は消えて、小屋の外を囲んでいた子供達は一人残らずどこかに行ってしまったらしい。
随分静かになった。
すると師は、「儂は座ってばかりいたので足が立たなくなった。シュー、醜い土くれだったシューよ。
今日からはお前が家々を巡り、この袋の中に施しを受けて来るのだ。」と言った。
私は何?何?と聞きたかったけれど、その言葉はきっと余計な言葉だと思い鼻から、スーピー、スーピー、と吐き出した。
すると師が次に、「立ち上がれ!」と言ったので立ち、
「歩け!」と言ったので歩き出した。
小屋の外に出たのは初めてだった。上を見ると青々とした天があり、陽がサンサンと射していた。
歩いて行くと家々が見えて来た。
最初の家の前でボンヤリ立っていると、家の中からお婆さんが出て来て、
「ありゃ、お坊様。お経は読めないのかネ。」と言われた。
それで他に思いつかないので、
「余計なものは見るなー、余計な事は聞くなー、余計な事は言うなー。」と覚えたばかりの言葉をお経のように唱えてみた。
するとお婆さんはニッコリ笑って、
「まあ、まあ、まだこんなにお若いのに有難いお言葉を頂戴致しました。ありがとうございます。」と言って、袋の中にお椀に山盛りのお米を入れて下さった。
そのようにして何軒か歩いた。
小屋に戻ると後ろ向きの師が、
「貰ったものは残らず小屋の外に置いておけ。」と言った。
その通りにすると、次の朝には前の日に頂いた供物は影も形もなくなっていて、その代わりに薄汚れた木の碗に粥らしきものが半分程入って置かれていた。
それを師の元に持って行って差し出すと、自分はいらないから私に食えと言う。
「人間となったからには物を食わねばならない。」そう言った。
師に言われるままにそれを口にすると、それは前のと同じ、少し塩味の効いたドロリとしたものだった。
それを残さず飲み干して、その碗をまた元の所に置いておくと、その碗はいつの間にか消えているのだった。
師は相変わらず崖に向かって座禅を組み、経を唱えている。
私は何もする事が無いから、師に習って師の後ろで座禅をした。
師が黙っている時は黙り、師が時たま思い出したように読経すると、私も大きな声で読経した。そうする中にも師は時々、村を巡って来いと言うのだった。
私は立ち上がり、頭陀袋を首にかけて外に出て、村の家々を巡る。
外は風が吹いている。
どこからか師の心の声がする。
「風になれ!」と内から響く声がする。
訳も解らないまま風に身を委ねていると、いつか風そのものになっていた。
風は地から天に吹き上がる、それと一緒に私も天に向かって吹き上がった。
風はまた、天から地に吹き下ろした。
まるで一本の細い稲わらのように、私の体は吹く風と共にどこまでも飛んで行く。
下を見ると、人間の子供達が小さく見える。風とはこういうものなのか。
やがて一軒の家の前まで、吹かれて行った。
その家の戸口に立つと、中からすすり泣く声が聞こえて来た。
私は思わず、「何故?何故?」と聞いていたらしい。
その心に答えるように耳に師の声がする。
「悲しみというものを知っているか?悲しみを知らないのは人間では無い。人の悲しみを自分の悲しみとせよ。」
私が戸を開けて入って行くと、その家の大事な一人娘が今、息を引き取ったばかりであった。まだ若い娘だった。
私はその亡骸の枕元に行き、経を唱えた。
知っている限りの長い経を唱えていると、側で泣いている親達の気持ちがじりじりと私の周りと取り囲み、やがて私の体を包み、私の中まで入って来て私を苦しませ悲しませた。
身も世も無い悲しみが私の心を締め付けた。
これは今まで知らなかった痛みとなって私をさいなんだ。
これが悲しみなのか?
私の目から知らず知らず涙が溢れ出て、とめどなく頬を濡らした。
泣きながら読経を続けている私を見て、家の者や親族、近所の者達まで有難がり慰められたようであった。
その家を出て歩き出すと、ポチリポチりと空から雨が落ちて来た。
するとまたどこからか、
「雨になれ!」という師の声がした。それと共に急に雨足が強くなり、私はいつか雨になっていた。
辺り一面のざんざん振りの雨に混じって野の道を行く。
道の途中では急に雨に降られて慌てて物陰を探して隠れる者もいるが、この辺りの村の者達だろう。外に出て両手を広げて喜んでいる者もある。
雨が天からの恵みと喜んで感謝しているのだろう。
この強い雨で助かる者がいるのだ。
畑の物も辺りの木々も野辺の草花も一瞬にして息を吹き返したように、色鮮やかな緑になってゆく。
また干上がって弱々しかった田の稲は急に生き返ったように稲の穂先に花をつけようとしている。
雨は天の恵みだ!
私は喜んで雨となりあちこちを駆け巡った。
すると、
「程度を越えてはならぬ。何事も程度を越えてはならぬのだ。」と、師の重々しい声が私の背を思いっきり打つ雨となった。
私は急いで駆け回るのを止めた。
すると空にかかっていた暗い雨雲が山の方に急いで飛んで行って、また青い空が現れた。
陽がさんさんと降り注いだ。
私はまた、大手を振って小屋に帰って来た。
小屋の中は外とは違って薄暗く、重く何か心を不安にさせた。
すると暗い小屋の中で、崖に向かっていた師の重々しい声がした。
「私は果てる時が来た。」と言う。
果てるとはどういう事だろう。
私は分けも解らずに、「何故?何故?」と問うた。
すると、「形は果てるが魂は果てない。私はまだ暫らくはお前と共に居よう。」と言うので、私は何故という言葉を呑み込んだ。
師は後姿のまま、
「この小屋の隅に油の壺があるから、それを私にかけて火をつけるように。」と言う。
私はやはり「何故?何故?」と思って心の中で叫んだ。
師は、「それが宿命だからだ。何も考える事は無い。私の言う通りにしなさい。」と言ったきり微動だにしない。
私が尚もためらっていてももう何も言ってはくれない。
その後ろ姿はもう人であって人のようではなく、石か木で出来たもののように見えた。
私は訳も解らず言う通りにするしか無い。
後ろ姿の背に、小屋の隅に置いてある壺の中の油をかけ、崖の一つ所に灯っている灯命の火をつけた。
火はすぐに油をかけた師の体を這うようにして炎が包み、それはまるで師を労わるように燃え続けた。
そうされながらも師は一言も何も言葉を発しなかった。
私はそれを目を凝らして見つめているだけだった。
やがて柱のように燃え盛っていた炎は少しずつ少しずつ小さくなり、その炎がふいに消えてしまった時、人間のあの悲しみのようなものが私の中に忍び込んで来た。
私は立ち尽くして泣いていた。
火が消えた後には、そこに師の後姿は無くて両手ですくう程の少量の白い灰が残っているばかりであった。
思えばあの師は私のたった一人の拠り所だったのだ。
お顔さえ見る事が一度も無かったけれど、師がいたからこそ私が居たのだ。
私は悲しみの余りワーッと声をあげて泣き、小屋の中をヨロヨロ歩き回った。
すると、「ここに居る。」と声なき声がする。
驚いて探すと、それは灰の中からするのであった。
「私は亡くなったが、亡くなってはいない。亡くなっても無くならないものがある。それをお前はその目で確かに見たであろう。」とその声は言った。
「お前はこれから旅に出るのだ。この旅はお前の為の旅だ。それはお前一人の旅だが私もお前と共にいる。」と師の声は言った。
「私はどこへ向かって行けば良いのでしょうか。」と聞くと、
「それはおのずと解る。育てる旅だからだ。」と声がする。
「誰を育てるのですか?」と聞くと、
「相手を育てもするが、己を育てもする。今に解る。最初から解ろうとするな。
歩め!歩め!ひたすら歩め!」と師は言った。
私は急かされるように急いで白い灰を集めて布袋に入れ、自分の懐に入れた。
旅支度も何も出来ていないのに懐の袋の中から、
「歩め!歩め!ひたすら歩め!」と容赦の無い声がする。
小屋の戸口に編笠と杖があったので急いでそれを掴んで外に飛び出した。
行く道は漠然とだが伸びているようにも見える。
編笠をかむり杖をついた私は、当てもないままに懐の中から聞こえる声に急かされて歩き出した。
薄暗い小屋から外に出ると日差しが眩しい。
空も晴れ渡って思わず大股に歩き出していた。暫らく歩いて振り返って見ると、小屋は既に遠く小さくなって、今朝までいたそこは随分遠くに流れて行って二度と自分の手元に戻らない幻のように見えて仕方が無かった。
再びあそこに帰る事があるだろうか。
しかし、もう一度戻っても、あそこには師もおらず何も残ってはいないのだ。
そう思うと根の無い草になって木枯らしの中をあてどもなく飛び回っている自分を思った。
以前は風になっても師のいる小屋に戻って来る事が出来た。雨になっても帰る所があった。今はそんな虚ろな気持ちだが、足だけはどんどん前に進んだ。
行き交う人や道端の人達が私を見ると、こちらに向かって皆、頭を下げる。
どうやら私は人間に見えるらしい。
私も丁寧に手を合わせてお辞儀をする。
妙な気持ちだが悪い気持ちでは無い。疲れてはいないけれどたまには、足を止めてみようとするとその途端、懐の袋から、
「歩め、歩め。」と急かされるような気がするが、どうした訳か小屋を出て以来、一度も師は声を出さない。
しかし、とにかく私は大股でグングン歩いていくしかない。それが私の旅なのだから。
小屋を出て歩き始めて小さな村をいくつか過ぎた時だった。
一人の男が前を歩いていた。
ゆっくり、のんびり歩いている男だなと思い、気にせずその男を追い越してグングン大股に歩いていると、後ろの方から声を掛けられた。
「お坊様、お坊様、そんなに急いでどこに行かれます。」と言う。
「別に急いではおりません。」と答えると、
「それなら、もう少し、ゆっくりと歩いて下さいよ。その速さでは話も出来ません。」と言って男は私の傍まで走り寄って来ると、私を見上げてニヤリと笑った。
「お坊様はお若いのに一生懸命ですネ。感心な事です。どこへ行かれるのです?」と尚も聞いて来る。
どこへと聞かれても、どこへ向かっているのか自分でも解らない。
私が黙っていると、その男は申し訳なさそうに、
「別に言いたくなければ無理には聞きません。さりとて、せっかく知り合いに慣れたのですから、さて私の事を申し上げましょう。
私も旅の途中なんですヨ。私も別に行く宛てがある訳じゃありません。足の向くまま、気の向くままという所です。」と言った。
それでも私が黙ったまま歩いていると、
「お坊様、私を見て、私は何歳に見えますか?」と男は聞いた。
今まで何人かの人を見かけて来たが、相手の事をそんな
目で深く見た事がないし、その人達と比べてみても、この男は特別若い者にも見えない。
皆目見当がつかないので黙っていると、
相手は私が困っているように見えたのだろう。
「私はよく人から若い若いって言われるんですヨ。ほら白髪だって一本も無いでしょう?歯にしたってほれ。この通り全部揃っています。よく馬の歯みたいだって言われます。腰だって、ほれ、曲がっちゃいません。足にも自信があります。
まあ、お坊様程の早足は珍しいですけれど、私もまだまだ、人並みには歩けます。
実は私はこれでもう六十歳なんですヨ。いかがです?驚いたでしょう?」と言う。
私はそういうものかと思ったが、
「そうですネ。」と言った。
私の返事は男にとっては物足りなかったようだ。
「よく驚かれるんですヨ。私の本当の年を聞くと皆、そりゃびっくりします。
ええっ?て驚いた後、まだ四十代にしか見えませんとよく言われます。」
と言って男はまた私の目を見た。
さすがに私は何か言わなければなるまい。
私はまた、「そうですネ。」と言った。
私の素っ気ない返事にこれ以上の事は期待できないと観念したものか、男は勝手気ままに話し始めた。
「私ゃ、これでも今まで、結構一生懸命仕事も人付き合いもやって来たんですヨ。でもネ、自分一人が空回りばかりしてるんです。こんな性分ですから仕方ありません。
まあ、小さい頃からおしゃべりだったんです。口から先に生まれて来たよう子だとよく言われたもんです。
大人になってからは一時期格好つけたいと思って、しゃべりたいのを抑えて渋く構えようとした事もありますが、元々が持って生まれた性分ですからいつまでも無口を気取っちゃいられません。
それに、どういう訳か根がお人よしの世話好きで、頼まれもしないのに人に親切にしてしまうんですヨ。
だが、私が骨身を惜しんで何かしてあげても、相手はそれを有難がって感謝するどころか当然のような顔をして、挙句の果てはうるさがられる始末です。
そうなりゃ、こっちだって腹が立ちます。要するに私っていう人間はどこへ行っても苦労の割に損ばかりして甘く見られるんです。年を取って来たら長年のうっぷんでああだこうだの口喧嘩が多くなりましてネ。
結局、身近にいた奴とも仲たがいをしたり、まあ世の中、苦労の割には少しの見返りも無いものだと思い知らされましてネ。
この年になって、つくづく悟りのようなものを開いたという訳です。
それである日、一大決心したんですヨ。この先今までのように私を知っている連中の中にいて、精一杯気を遣って暮らしても損をして腹を立て
るだけだ。そしてそのまま年をとって死ぬのを待つだけなら、思い切ってどこか旅に出ようってネ。大した金も持っちゃいないが、足を引っ張って止める者もいない身軽な身だ。どうにかなるだろうってネ。
例え旅の途中で、どこかの道端で野垂れ死にしたって六十歳と言えばいつ死んでも惜しい年じゃ無い。そう思ったんですヨ。
どうです?お坊様、この年で旅に出るって大した度胸だと思うんですが。お坊様、そうは思いませんか?」
とまた同意を求めるように聞く。
私はその男の目を見て、「大した度胸だネ。」と言った。
その途端、男はパッと嬉しそうな顔をした。
それまで、息もつかないでしゃべり通していたのに、急におっとりとした口調になって、
「平和だネー、ここは平和だけれど、この世の中はもっともっと辛い思いをして苦しんでいる人は多勢いるんでしょうネ。病で苦しむ、年貢の取り立てで苦しむ、飢えで苦しむ。山道では追いはぎ、町では強盗や人殺し。
こんな物騒な世の中だもの、誰もが明日死んでも不思議は無いのに、私はこうしてこの年まで生きています。そしてこの通りまだまだ若い。
まあ、大しためっけものです。
折角ここまで来たんですから、欲張りかも知れないが、もう少し旅の空を気ままに歩いて、時にはしんみり生きて、夜はどこかの軒先を借りて野宿しながら星空でも見上げますヨ。
そうしたらしんとした気持ちになって自分のどこがいけなかったか解るかも知れません。最後の最後には自分で納得して死にたいんですヨ。」
男はそこまで話すと、後は満足したようであった。
その後は追い立てられるような喋り方から一転して、
「明日は晴れるでしょうか。」とか、「あの空を飛んで行く鳥は何を考えているんでしょうネ。」等と独り言を言ったりした。
私はこの男にいつからか親しみのようなものを感じ始めていた。
道連れがいても悪くないと思い始めていた。
また暫らく歩いて行くと、道は十字に分かれている所に来た。
行く道は三方に分かれている。
男が、「お坊様、どの道を行かれます?」と聞くので、
「私はこの道をまっすぐ行きます。」と答えて真中の道を指すと、男は暫らく考えて道端の石ころを一つ取り上げて、天に向けて放り投げた。
石ころは左の方の道に落ちた。
すると男はちょっと悲しそうに、「いつまでもこうしてお坊様と一緒に行ける筈もありません。人生人それぞれの道があるように、私は左の道を行きます。
お坊様l、何だか名残り惜しゅうございますが、ここでお別れです。またどこかで私を見かけたら声を掛けて下さいヨ。」
そう言って淋しそうに別れて行った。
私はその男の後姿を少しの間見送っていた。
男はかなり遠くまで行ってから振り返ってこっちを見た。
見送っている私の姿を見つけると、嬉しそうに大きく手を振ったが、やがてまた木々のある中に隠れて見えなくなってしまった。
その時、私は初めて訳の解らぬ何とも言えぬ思いを胸に感じた。
これが淋しいという事なのか?
これが悲しいという気持ちなのか?
きっと人はそういうのだろうと思った。
しかし、私は尚も大股でグングン歩いて行った。
パラパラと家がある小さな村を抜け、山道に入って行った。
木立の中は涼しくて気持ちが良かった。かっこうという鳥の声が遠くに聞こえる。
時折気持ちの良いひんやりとした空気と水音を感じて近くに川がある事が解った。
その谷川のせせらぎは急に喉の渇きを思い出させた。
私は音のする方へ下って行った。
そこには確かに小川が流れていた。
久しぶりに懐から、「お前は冷たい水の味を知らないだろう。清水を飲んでみろ。」と師の声がした。
ああ、師は消えてしまったのではなかったのだ。ちゃんとここにおられる。
私はそこの流れる清水を両手で掬って飲んだ。冷たくて旨い水だ。
これが清水の味なのだと味わってゴクゴクと飲んだ。私は自分がもう化け物でもけだものでもない。人間なのだと思ったりした。
そこに旅人らしい二人連れがやって来た。
一人は中年の男で、もう一人は若い娘だ。
娘は顔色も悪く、どこか弱っているようにも見える。男が助けて水を飲ませている所を見ると、どうやら父親と娘のようだ。
水を飲み終わった娘が振り返って私をみとめると、
「お聖人様!」と言って私に手を合わせて何かを言おうとした。
連れの男がそれを押しとどめようとした。
すると懐から師の声がした。
「その娘になれ。」
私はすぐにその娘の心の中に入って心の中を見た。
娘の胸苦しさ、悲しさが自分の事
のように解る。
娘は今、そこよりいくつも山を越えた本当の山奥に一人で住む男の所に無理に嫁に行かねばならない身の上だった。
その男の事は何も解らないが、ただ金の為の身売りのようなこの縁談を娘は不安にも思い嫌がっているのであった。そしてこう思っている。
人の住まない山奥の中に一人でいるのだもの、熊のような恐ろしい男に違いない。それに家に残した小さい妹達、弟達の事を思い出してすぐにも家に帰りたい。
娘はそういう気持ちで助けを求めているのであった。
次に私は父親の心の中に入って行った。
ここ何年間か不作が続いて子沢山の家では皆が食べて行くのがいよいよ苦しくなって、同様の暮らし向きの家では町に奉公に出すといって娘を遊郭に売る家もある。
自分の娘はそういう所には死んでもやりたくない。そう思い悩んでいる時に名主様からこの縁談の話があった。
名主の知り合いの山奥で一人暮らしの男との話である。山で何をしているかは詳しくは説明されなかったが、かなり金になる仕事でもしも嫁に来るなら身売りする二倍も三倍もの支度金を払うという。
それにこれからも困った時は力になると言っているという事だった。
父親にとってこの話は天から降って来た幸運に思えた。
父親も名主様を信用して受けた話なので、本人に会って確かめた訳ではないが、この話は絶対娘を幸せにしてくれると信じて、嫌がる娘をこんこんと説き伏せてすぐにも連れて来たのであった。
娘はすがるような目で私を見、助けを求めている。
そんな山奥では何かあってもすぐには帰って来られない。もしも恐ろしい男だとしたら、どうしようと思っているのである。
すると懐の袋の声無き声がした。
私はその声の通りに、「娘よ。まず向こうへ行って相手を見てみるがいい。」と言った。
私が何も聞かぬうちにそう言ったので、娘は驚いたが、その後少し安心したように、
「お聖人様がそう言われるのであれば私は参ります。けれど相手の男が極悪党であったならそれでも私は人身御供になって添い遂げなければならないのでしょうか。」
娘はそう話しながら泣いていた。
次から次へと湧いて来る涙で濡れた目で私を見た。
するとまた、懐の中から声がした。
「例え万に一つそうであっても、月日の流れは存外早いものだ。日々の暮らしに追われていると、どんな事にもすぐに終わりがやって来る。お前が今まで見て来たものも、これから見るものも、所詮皆、夢、幻なのだヨ。例えば今飲んだ、この清水でさえも過ぎてしまえば夢幻となる。いかなる喜びも、いかなる苦しみも、全て全て、夢、幻でしかないのだヨ。それが証拠に何十年後、お前が老いて、死のうとするその時にこの言葉を思い出すがいい。全て長い夢を見ていたと解るから。」
私は声無き声の言うままにそう言って、娘を諭した。
娘は初め納得していないようだったが、さりとて今の己に他に道があるとも思えず、うなだれたまま父親のいいなりになって山道を登って行った。
その二人の後姿を見送っている私にまた、声がした。
「そのうち、あの娘は自分の進む道に折り合いをつけるだろうヨ。長い年月の間には、例え楽しい時は忘れていても、苦しい時には、今のお前の言葉を思い出し慰めとし、そして死ぬ時は本当に納得するだろうヨ。」
という師の声がした。
これはこの私に対して下された言葉のような気がして、私は自分の胸に納めた。
この事により、私は自分が少しはましな人間になれたような気がした。
それからも旅は続いた。
歩く事は少しも苦では無かった。休みなく歩いても少しも疲れを知らず、腹が空いて何か食べたいという気持ちも起こらなかったが、誰かに食べ物を勧められると食べた。
行く先々の土地で、私はよく、お聖人様と呼ばれた。
時に相談事をされたり、またある時は失せ物を探して欲しいと頼まれたりした。
出来るだけ頼まれた事は相談にのってやりながら、旅を続けた。
ある日、辺りに畑や田んぼの広がる道を歩いている時だった。
前方に橋が見えるから、そこは川が流れているのだろう。
橋の手前に小さなお地蔵様が安置されてある。
愛らしいお顔の地蔵様に手を合わせて、さて橋を渡ろうとすると、橋の下の方から、
「お聖人様、お聖人様。」と呼ぶ者がいる。
私を呼んでいるのかなと下を見ると、
橋の根方の所に一人の貧しい身なりの老婆がいて、その老婆が歯の無い口を開けて笑って私を手招きしているのであった。
私が脇の細い急な坂道を降りて行くと、橋げたの根元のそこは老婆の住処なのだろう。むしろで粗末な小屋がかけられてあった。
老婆は小屋の外の河原に器用に炉をこさえて火に鍋がかけてあり、何か煮ている匂いがする。老婆はニコニコ嬉しそうに大きい石の一つに私を腰掛けさせると、
「お聖人様、丁度良い所においで下さいました。滅多にない事なのですが、今朝方、通りかかった旅のお方が御自分の弁当を自分は食べずに私に恵んで下さいました。それも大層、贅沢な弁当をです。
私はこの通り歯が悪うございますので粥にしていただこうとこうして火にかけていた所です。そこにお聖人様が通りかかりました。
これも地蔵様のお導きでございいましょう。どうぞ、この婆の供物を受け取って下さいませ。いつも私のような者は人様からの施しを受けて命ながらえておりますが、そのお返しをする事は心はあれど、いつも飢えて、かつかつの暮らしですので、人様には勿論、お地蔵様にさえいつもお供え物を頂くばかりでお返しも出来ません。それがいつもいつも心苦しゅうございました。
それが丁度、今、そこに聖人様をお見掛けしました。
大変僭越でおこがましくて、お恥ずかしい限りでございますが、今を逃してはその機会は無いと無作法にも、下から声を掛けてしまいました。
このような生活をしておりましても、決して汚いものではありません。
この鍋も碗も箸も、この川で充分に洗い清潔にしております。
どうぞどうぞ、この婆の粥を召し上がっては下さらぬか。」と勧めるのであった。
老婆が自分の為に作った貴重な雑炊の粥は、湯気が立っていかにも旨そうに見えた。
私は丁寧に頭を下げてそれを頂いた。
それは、あの師の小屋を出て以来、招かれて食べたどこの宿の食事にも負けない旨い雑炊だった。それはまた、師の小屋で師から渡されて初めて呑んだドロリとした粥にも似て何だか懐かしい味がした。碗の中身を全部食べ終わって、「御馳走様でした。大変おいしゅうございました。」と言うと、老婆はその言葉が嬉しいらしく涙を流して喜んでいる。
「何か礼がしたいが、私はこの通り何も持ってはおりません。何か私に出来る希望はありませんか。」と聞くと、
「この通りその日暮らしでございます。お聖人様、この婆は物より話を聞いてくれる人が欲しゅうございました。
旅の途中ですのに貴重なお時間を割かせて、申し訳ございませんがどうしてこのような暮らしをしているのかお知りになりたくはございませんか?」と老婆は言った。
私は何も言わずに老婆を見た。
この辺の百姓の女房にしてはどこか違う感じがする。このような橋の下に”むしろ”で小屋をかけ、道を往来する旅人や村人が地蔵に供えた物を後で頂戴して飢えをしのいでいるこの暮らしは、人がよく口にする乞食である。
成程、着ている物も破れたりたりして擦り切れてボロボロだがいつもまめに川で洗濯しているのか少しも汚くは見えない。
むしろ、こざっぱりしているし、髪も殆ど白髪だがきちんと撫でつけて後ろで紐で縛ってある。
この老婆はどんないきさつでこうなったのだろうと私は初めて思い始めていた。
この老婆の中に同化したならば全ては見えるかもしれないが、しかし懐からは何も声がしない。すると老婆は語り出した。
「お聖人様、こんな事を私が話しても笑われるかも知れませんが、私の家はある大きな町に屋敷のある誰もが知る名家でございました。
上に兄が一人おり、父はかなり高い位の役職についておりました。
兄は大変頭の良い有能な秀才で父も母も自慢にしておりました。兄はやがて嫁を迎えました。全てが順調にいって次は私が嫁いる番だと皆が噂しておりました。
それが政争というのでしょうか。藩を二つに分けた争いごとが起きました。
兄は有能故に否応なく二派にわかれた政争の渦に巻き込まれてしまいました。
結果は兄の属した派閥が敗北しました。
兄は巻き込まれただけなのです。それなのに父まで責任を取らされて父も兄も首をうたれました。母は自害しました。母は覚悟を決めていたのでしょう。自害の前に母は義姉と私を二人秘かに逃がしました。
家にあるお金を二人に渡して、どこまでも逃げなさい。あなた達はまだ若いのだからそのうち良い事もあるでしょう。
そう言って母は私達を逃がしてくれたのです。私達は二人、手に手を取り合って逃げました。自分達を知る人のいないどこかで安心して暮らしたいその一心でした。
ですが途中で義姉が倒れました。義姉のおナカには兄のややがいたのです。
それが解った時は私も義姉も泣いて喜びました。この子を産んで私達二人で立派に育てましょうと誓い合いました。
その時はこれから先、若い私達は何でも出来るような気がしたのです。
ですが事は良い方には進みませんでした。旅の疲れからか、心労からか義姉の体調は思わしくなく、旅の途中でお医者様に見て頂くと、そのお医者様は首をかしげておナカの中にいるのは”やや”ではなくて筋腫というかたまりだろう。少しも赤子の鼓動がしないし、そろそろ動いても良い頃なのに少しも動かない。
残念だが、これは何かの強い願いが無理にも腹の中で育った悪いものの可能性があると言うのです。医者は本人には知らせずに私にだけ言いました。
でも私には信じられませんでした。お医者様の診立て違いであってくれればと願ったものです。その頃には姉は臨月を迎えていて、母が持たせてくれたお金は大分少なくなっていましたので、私は動けなくなった姉を抱えて農家の納屋の一隅を借りていました。
私には不安がありました。お医者の見立てが正しければ、日々大きくなる義姉のこのおナカの中の物は何なのだろうという不安です。愛らしい赤子であれば良いのですが、もしもの事も考えねばなりません。
心配しているせいか、見る夢は不吉なものばかりでした。
それで農家のおかみさんには、お産の事は言わずに姉の体を洗ってやりたいからと言って湯を沸かしていただきました。
赤子は私が自分で取り上げようと思ったのです。人の話を聞いたり、とりあげ婆さんの話を聞いて心の準備をして用意もしてありました。
その日、やはり思った通り姉の腹痛は陣痛のように間隔を空けてやって来ました。
そして、随分苦しんだ挙句、それは姉の腹の中から生まれました。
それが何と、お聖人様、それは愛らしい赤子では無かったのでございます。
赤黒い醜いものでした。手も足も顔も無いただ所々に髪の毛のようなものがついている恐ろしい物でした。
やっと産み落とした安堵間でぐったりしている姉に私はこの事を何と言って伝えたらよいのでしょう。私は急いでその物を布に包みました。
それからお湯で姉の体を清めてやり、後片付けをしました。
もちろん赤子の泣き声は一切しません。
それを不思議に思ったのでしょう。義姉は、
「私の赤ちゃんは?男の子なの?女の子なの?」と聞きます。
私は思わず、「お姉さん、死産だったの。赤ちゃんは死んで生まれたのヨ。あんなに楽しみにしていたのに生まれた時はもう息をしていなかったの。」と私は嘘をつきました。
すると姉はワーッと泣き出しました。
「ああ、私の赤ちゃん。ごめんなさいネ。私がもっと大事にしていればあなたが死ぬ事は無かったのに。ごめんなさい。」と言って泣き出しました。
ずっと泣いて暫らくすると、「死んだ赤子の顔を見せてくれ。」と言うのです。
私はそれをこの髪の毛の生えたどす黒いものを義姉に見せてはならないと思いました。
「お姉さん、死んだ子を見る事は昔から悪い事だと言われています。このままそっと眠らせてあげましょう。」
私は必死でそれを隠そうとしましたが、何か腑に落ちないものを感じたのでしょう。
義姉は急に険しい鬼のような形相になったかと思うと、四つん這いになって納屋の隅の所まで行き、そこに布で包まっている物を見つけると、私が止める間もなくそれを開いて見てしまいました。
それを見た姉は、一瞬、声を失い、その後気を失ってしまいました。
その後、姉は幾日も起き上がることなく眠り続けました。すっかり力を失くしてしまったのでしょう。
私はその間に人の目のつかない所に行って、深く穴を掘り、その物を埋めました。
義姉にとっても私にとっても一生忘れられない恐ろしい物を見たのです。
それから義姉は目覚めてからも自分で立ち上がる事さえ出来ずにブラブラ病を患いながら五年も生きたでしょうか?
私は義姉の看病をしながら、ちょっとした手伝いに歩きました。そうして食いつないでいました。
二人共、いつの間にか若い時はとうに過ぎ去って、それでも二人一緒の時は良かったのですが、義姉はとうとう元気になれずに亡くなってしまいました。
死ぬ前にボンヤリしていたかと思うと私に向かって、「ねえ、私のおナカから生まれたあの化け物はきっと私と旦那様の二人の怨念だったのヨ。悔しくて悔しくて怒りでドロドロになった気持ちが私のお腹の中で育っていたのネ。私、その事が解ったの。
そういう意味ではあの子も可哀想な子ネ。」
そう言いました。
義姉がどんなにか待ち望んでいた赤ちゃん。男の子でもいい、女の子でもいい、例え犬や猫の形をしていてもいい。どんなにその手に抱いて慈しんでみたかったかと思うと、あれから何十年も過ぎたこの年になった今でも時々、急にワーッと泣きたくなるんですヨ・
義姉も死んで一人になったわたしですが、あれからすっかり気持ちがしぼんで無気力になって、どこへ行っても何をしても長続きしないでいつの間にかこんな年になってしまいました。今はお地蔵様のお供えや道行く人の施しで生かされています。
暖かいうちは良いのですが、寒くなるといっその事、夜の内に死んで朝起きた時は眠るように逝ったんだという事になりたいんですヨ。不運も手伝ってこの世では大して良い事もありませんでしたけれど、あの世へ行ったら両親も兄夫婦も私を待っていてくれると思うと、いつ死んだって恐くはないんです。
お聖人様、長い事、足を止めてしまいました。私は話を聞いて頂いて胸が軽くなりました。この先の旅の御無事をお祈りしております。」
老婆はそう言って私を送り出してくれた。
私は何とも言えぬ物悲しい思いを抱えて老婆の元を発った。
そして道々考えた。
話を聞くまではあの老婆にそんな過去があった等、誰が想像するだろう。
それに何十年も経ったとはいえ追われる身であれば誰かれ構い無しに話せる話では無かっただろう。
あの老婆は最初いかにも屈託の無い様子で、むしろ清らかに生きているかに見えた。
それならいつかは良い事もあるだろうと私は願った。
暫らく歩いていると向こうから稲わらを山と積んだ馬車と行き会った。
荷台の男は私を見ると、お聖人様、私はあいにく何も持ち合わせておりません。旅の御無事をお祈り申し上げますと手を合わせて通り過ぎようとした。
私はその男を呼び止めると、「私にその稲わらを少し分けてくれないだろうか。」と頼んだ。
男は、「お安い御用です。」と言った。
「それなら、そこの橋の根元に住む老婆にその稲わらを多めに届けてやって下さい。」と頼んだ。
男は「確かにお届け致します。」と約束して通り過ぎた。
老婆の所で雑炊を馳走になった後、話を聞いているうちに陽はかなり西に傾いていた。
道はいつか川に沿うように続いている。
もう大分、取入れが済んだのか辺りの田畑には人の影も無い。
その川の河原に珍しく一人の人の影があって否応なく目についた。
近づくにつれて女が一人しゃがんでいるのが解った。
この夕暮れのすぐにも暗くなるこの時刻に何でまた、女が一人河原で何をしているのだろう…。
近寄って行くと女は驚いて立ち上がり逃げようとした。
「どうしたのです。私は僧侶です。怪しい者ではありません。何故逃げるのです。」と呼びかけると、
立ち止まった女はさめざめと泣き出した。
見ると腹がふくれて、腹には子供がいるようだ。もう産み月に近いような身重の体で川岸にいるとは何だろう。剣呑に思われた。
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