第20話 また違うあしらい方をおぼえなあかんのやね

 みんなで餅を平らげようとして母に「年明けお雑煮に入れるから全部食べちゃだめ」と怒られた昼食から一時間ほど経った頃のことだ。

 向日葵と椿は縁側にいた。

 ようやく手に入った二人きりの時間だ。今日は朝起きて布団を出てからずっと慌ただしかったので、ものすごく久しぶりに二人で過ごす時間を持てた気がする。


 椿はまだ作務衣姿だった。その状態のまま、向日葵に膝枕を求めながら縁側に腰を下ろした。向日葵が苦笑してしぶしぶそばに正座すると、腿の上に頭を載せ、床に横たわる。向日葵は椿の頭を撫でながら「甘えたちゃん」とささやいて微笑んだ。


「疲れたねえ、椿くん。ちょっとお休みしようね」


 向日葵の膝に手を置いたまま何も言わない。疲れたとかしんどいとかを口にするのは彼のプライドが許さないのだ。しかし慣れない肉体労働のせいで心身が悲鳴を上げているはずである。この労苦はまだまだ続く。今ぐらいはゆっくりしてくれるといい。まめに癒してやりたい。そして彼が癒されることで自分も癒される。向日葵は能天気な彼を見たいのである。


 椿はきっと叔父夫婦がいる間は緊張しっぱなしだろう。叔父は椿を毛嫌いしていて口も利かない。後で話があると言っていたが、いつにするつもりか。このまま流れてほしい。叔父の兄である向日葵の父になんとかしてもらいたい。それすら椿のプライドは傷つくと思うが、兄をもつ妹であり池谷一族本家の後継者である向日葵から言わせてもらえばこれは兄であり一族の長である父の監督不届きだ。だいたいこの兄弟は五十二歳と五十歳である。二十二歳の若者を囲んでどうしようというのだろう。


 縁側は冷たく寒い。すぐそこがガラス窓だからだ。一族の他の人間は暖房が効いた居間や仏間でくつろいでいる。自分たちだけが人目を避けてこんなところで過ごさなければならないのは不公平だ。椿がどうしても二人きりになりたいというので仕方なくここにやってきたが、いっそのこと離れに引っ込んでしまいたい。しかしそれもまた椿が伯母の行動を鑑みて他の親族が来るかもしれず挨拶する必要があると思い込んで拒否した。向日葵はもうどうでもいい。


 本日の空はくもりで、時々冷たい雨が降っていた。いつもは晴れているのになぜ今日に限ってこうなのだろう。椿の心境を反映したかのようだ。


「ひいさん」


 椿がぽつりと向日葵を呼んだ。向日葵はすぐ「なに?」と返事をした。椿は「呼んだだけ」と答えた。


「ひいさん」

「はい」

「ひいさん」

「なあに?」

「ひいさん……」

「よしよし」


 椿の頭を撫で、少し伸びた髪を耳にかけてやる。椿のぶすっとした横顔が見える。素直なことは良いことだ。


 突然背後の障子戸が開いた。椿が跳ね起きた。


「悪ィ、いちゃいちゃしてた?」


 振り返ると、そこに兄の大樹が立っていた。餅つきの時は黒い長袖Tシャツだったが、今はその上に白いトレーナーを着ている。やんちゃで雑な兄のことだ、白い服を着ると汚してしまいそうで怖い。


「何かありました?」

「ちょっとついてきてほしいとこがあんだけどさ」

「どこです?」

「カラオケ」


 椿が顔をしかめた。大樹の前では表情が豊かだ。

 大樹のほうはへらへらしている。椿がご機嫌でも不機嫌でも大樹はマイペースだ。


「お袋がカラオケ行きたいってさ。お前もついてこいよ」

「嫌です」


 椿がきっぱりと答える。先ほどは親族一同にいい顔をしたいと言っていたのに見事な手の平返しである。


「僕歌えへんもん」

「いいんだよお前は歌わなくて。接待カラオケだから。おっさんおばさんどもがチャゲアスや槇原敬之を歌うのを聞きながらタンバリン叩いてりゃいいんだよ、連中を気持ちよくさせてやるのが俺らの務めなんだよ」


 これも池谷家にとってはわりとよくあるイベントだが、実家にはそんな風習がない椿は困惑した様子だ。


「連中歌うために喉を潤すとかなんとか言ってアルコールを飲むから俺らが運転しなきゃなんないワケ。お前免許持ってんだろ?」


 静岡で暮らすのなら普通自動車運転免許は生きるための必修資格だ。ずっと京都にいるなら一生バスとお抱え運転手で済んだだろうに、椿も免許の取得を余儀なくされた。喫緊の課題だったので、父が結婚祝いと称して教習所代を一括で払ってくれた。ゆえに椿はこの義父が車を出せと言ってきたら逆らえない。今こそ恩返しの時が来たわけだ。


「ひいさんの車で行くん?」


 教習所代は出してくれたが、さすがに車は買ってもらえない。向日葵は自分の軽自動車の任意保険を本人限定から夫婦限定に切り替えた。逆に言えば、向日葵の黄色い車なら運転できる。普段は向日葵が仕事に行くのに乗っていってしまうのでバスと徒歩でうろうろしているが、向日葵が酒を飲む時は彼が運転する。助手席は酔いが冷めるほどひやひやするけれど飲酒運転は法律違反だ。


「そう。俺の車で叔父さん夫婦とななみの姉弟、ひまの車にうちの親たちとばあさんとお前ら夫婦」

「ひいさん運転できるやん」

「ひまはうちのプリンセスだから親父や叔父さんが飲ますんだよ」

「それは、目に見えるかのようやな」

「どういうこと?」


 椿が「大樹さんは?」と問いかけると、兄はしれっとした顔で「俺はアルコールなんかなくてもテンションが上がるので」と答えた。それこそ目に見えるかのようだ。


「ほな行く」

「悪ィな、部屋入ったらこっそり抜け出て店の周り散歩してきてもいいから」

「わかりました」


 溜息をつきながら立ち上がる。


「お前は飲まされそうになったらやんわり断れよ。運転手だからって言やあわかってくれると思うけど、最悪俺がフォローすっかんな」

「よろしゅうおたのもうします」

「最悪が最悪を更新しそうな場合お前の代わりにひまが飲むかんな」


 アルコールが大好きな向日葵が胸を張って「任せとけ!」と言うと、椿がまた大きな溜息をついた。


「着替えたほうがええですか?」

「あーいいいい、寒くないようにそのまま上にコートなり何なり着てくればいいから」

「わかりました。支度します」

「おー、車で待ってっかんな」


 立ち去ろうとする兄の背中に、向日葵が「町に出るの?」と尋ねた。沼津駅周辺だと嫌だな、と思ったのだ。椿に狭い路地を運転してほしくない。

 大樹が少し振り向いた状態で自分の顎を撫でながら「二台で行くからなぁ」と呟く。


「バイパスのところにするか。広い駐車場があるとこ」


 ほっと胸を撫で下ろした。向日葵はちょこちょここうして兄の判断に救われる。椿には申し訳ないが、本当は伯母の言うとおりこの池谷家長男がいればいろんなことが回るので、まだあと五年くらいはおんぶにだっこで生きていきたい。


「どこやろ」

「俺が先導するから後ろついてこい」

「わかりました」


 今度こそ兄は部屋の中に入っていった。

 縁側で二人きりの状態に戻って、椿と向日葵は顔を見合わせた。

 出かける前から、椿の顔が疲れている。


「大丈夫だから。わたしとお兄ちゃんがフォローするし、ななみのもわかってるから」

「歌うのが好きな一族やなぁ」

「わたしらは親たちがあれ歌えこれ歌えってって無茶ぶりするのを歌わなきゃいけないかんね」

「嫌やないやろ」

「うん、まあ、好きなんだよね、宴会が」

「僕は嫌い」

「わかってる。ごめんね。でも池谷家の恒例行事だから耐えて。本当にごめん」


 椿が何度目かもわからない溜息をつく。


「夜は年越しそば食べるだろうし休日料金でたっかいと思うからそんな長時間じゃないよ。せいぜい三時間でしょ」

「ほんなら夕方には帰ってこれるんやな」


 彼もきびすを返して縁側の奥へと歩き出した。向かう先は離れだ。


「実家にいた時とはまた違うあしらい方をおぼえなあかんのやね」


 そのとおりだ。彼は本当に血縁関係で苦労する。そういう星のもとに生まれたのだろう。向日葵はまた「ごめんね」と謝るはめになった。




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