第19話 楽しい楽しい餅つき大会
庭に行くと父が臼を温めるために窪みに入れておいた熱湯を庭の端に捨てていた。向日葵の体重と変わらないくらいの重さの木臼を一人で動かす父のパワーに感嘆する。父といい兄といい、池谷の家系は基本的に力自慢だ。
「おっ、皆様お揃いですね」
庭に集まった顔ぶれを見て父がにやりと笑う。叔父が「手伝うよ」と言いながら臼に手を伸ばす。
向日葵の祖母であり広樹正樹兄弟の母である花代が蔵からえっちらおっちら杵を持ってきた。これも洗っておいたものなので今は清潔だ。
「どれ」
祖母は迷わずこちらに歩いてきて、大樹に向かって杵を差し出した。大樹は口では「また俺からかよ、勘弁してくれよ」と言いながらもダウンジャケットを脱いで張り切った様子だ。
「今桂子ちゃんが米蒸してっからね。来たら楽しい餅つき大会だよ」
向日葵は縁側に戻っていって「お母さん手伝ってくる」と言った。例年どおりなら二升のもち米を蒸しているはずである。一人で庭まで運んでくるのは大変だろう。
台所に向かう廊下でも兄の大きな声が聞こえてくる。
「ふっふー! 今年もこの時間がやってきたぜ。俺様の杵さばきに惚れ直しな!」
何を言っているのやら、と思いながら台所に顔を出すと、母が蒸し器をコンロから下ろそうとしているところだった。いいタイミングだ。母も振り返りながら「あらひまちゃん、助かるわ」と微笑んだ。
「お父さんやってる?」
「うん、時間だと判断したみたい。おばあちゃんが杵お兄ちゃんに渡してたよ」
「大樹は何て?」
「俺の杵の使い方に惚れ直せとかなんとか」
「いつもどおりで何よりよ」
伯母も台所に顔を出した。唇の端を持ち上げて「どんな具合?」と尋ねてくる。母が「ユキ姉さんじゃない、来てくれたの」と微笑みを返す。
「人手いるら。餅つきは男たちに任せてこっちは料理の準備しましょ」
「ひまも餅つきしたい」
「お兄ちゃんとお父さんに交渉しな。あのアホどもつくのは自分たちの仕事だと思い込んで張り切ってるかんね」
母と二人で蒸し器を運ぶ。その後ろをお湯の入ったボウルを持って伯母がついてくる。
庭に戻ると、稔がニットシャツの袖をまくり上げて肩を回していた。どうやら彼が合いの手をやるようだ。これも毎年恒例のことで、大樹が餅をつく時はだいたい稔が合いの手役をしている。稔も口では「やだなあ、僕も食べるだけの役をやりたいよ」と言いながらもまんざらではなく、杵のそばに膝をつく姿がなかなか様になっている。
臼に蒸したもち米を入れた。母が「頼むよ、みのくん、お兄ちゃん」と言って大樹の肩を叩いた。大樹が朗らかな笑顔で「任せとけ」と答えた。
「よっしゃ、やんぞやんぞ」
まずは下準備だ。つく前に杵で軽くもち米の表面を潰す。稔が手を出して臼からはみ出しそうになるもち米を臼の中に戻していく。熱いだろうに彼の手つきには迷いはない。
「よし、行けそう」
稔がそう言うと、大樹が「行くぜ」と言って杵を持ち上げた。
振り上げる。
振り下ろす。
ぺったん、という冗談のような音が鳴った。
すぐさま稔が返した。
稔の手が退いたのとほぼ同時に大樹が二回目を入れた。
「おおーっ、いいぞいいぞ!」
見ていた菜々が歓声を上げた。向日葵も「やれやれっ」と言いながら飛び跳ねた。
大樹と稔の息はぴったりで、かなりのスピードでもち米を潰していく。大樹が杵を振り上げたと思ったら稔がもち米をこね、稔が手を離すと大樹が杵を振り下ろす。完璧だった。
「楽しそう! 次お父さんやる!」
幼子のように父が言う。叔父は「いいけど腰やらないようにね」と言いながらも、彼もやる気なのだろうか、洗ってきたとおぼしき濡れた手をハンドタオルで拭いていた。
「お前こそ事務仕事ばっかで急に体動かしたら体おかしくすんぞ」
「俺ももう若くないからなぁ。今年は息子に頼んで眺めてようかな」
稔が餅に成長しつつある白いかたまりをこねながら「冗談!」と叫んだ。
「杵もう一本ないの?」
「あれは去年正樹が失敗して割っちゃっただよ」
「これ一本でぺったんぺったんやってたら日が暮れちゃわない?」
「ひまもつきたい」
「お父さんもつきたい」
「あと二回蒸してあげっから順番よく話し合いなさい」
母がふたたび台所へと引っ込んでいった。その後を祖母が「どれ、ばあちゃんも台所仕事やるかね」と言いながらついていく。
ふと気づくと、向日葵のすぐそばに椿が立っていた。
「みのくん、案外腕がしっかりしたはる」
椿が向日葵の耳に口を寄せてそうささやく。何をこそこそしているのだろう。いぶかしみつつも「そうだよ」と答える。
「みのくん中高と空手部だったから結構筋肉質だよ」
「ほんま。ぜんぜんそんな見た目やあらへんやん」
「細身だよね。みんな大好きな細マッチョだよ、お兄ちゃんみたいなごりごりのゴリラとは違って女の子にモテモテだよ」
稔が合いの手に夢中で弁解できないのをいいことに、菜々が「優里のドライフラワーみたいな男だよ」と言ってきた。それは相当嫌な男ではないのか。向日葵は鼻で笑ってしまった。
「対するお兄ちゃんは湘南乃風の純恋歌のような男で」
「聞こえてっかんな」
「餅つきに集中しろー」
この家に引っ越してくるまでテレビを見たことがなかった、幼少期にJ‐POPを聴いた経験のない椿がきょとんとしている。
伯母が小皿と割り箸を持って縁側にやってきた。食べる準備を始めたのだ。向日葵は「いっけね、お兄ちゃんとみのくん眺めてるの夢中で台所忘れてた」と言って縁側に上がろうとした。
次の時、大樹と稔を見た伯母が、ほう、と息を吐いた。
「やっぱ長男の大樹がいると安心だら」
向日葵はひやりとした。
「本家は大樹がいるからいいね。あとはみのがフォローしてくれれば完璧だら」
下唇を噛みながら椿のほうを見た。
案の定、椿は目を真ん丸にして唖然としていた。
何と言ったらいいのかわからなかった。
伯母は、何の悪気もなく、ただただ純粋に本心を言っただけなのだ。見たままの感想を、それも本家の大樹が生まれてからの二十五年と自分が生まれてからの五十六年をかけ合わせて強固になった無意識下の思想を、ぽろりとこぼしただけなのだ。
気づいたのは向日葵だけなのだろうか。ここで伯母のその考え方に口を出したら逆に変な空気になりはしないだろうか。気づかなかったふりをして流したほうがいいのだろうか。
「そうだな」
次に口を開いたのは、叔父だった。
「大樹が帰ってきてくれたらな」
こっちはたぶん、悪意がある。
大樹が餅をつく手を止めた。
「おい」
彼はいつになく硬い表情で叔父のほうを見た。
「俺は帰ってこねぇぞ。その時が来たら海外転勤だからよ」
大樹のその発言に正樹が押し黙る。
大樹は次に伯母のほうを見た。そしてはっきりとした声で断罪した。
「伯母ちゃん、訂正しな」
向日葵は兄の心意気に感動した。
「うちには椿がいんの。長男の俺がいなくなっても椿とひまがいりゃあこの家は続いてくんだよ」
甥に指摘されてようやく自分が失言したことに気づいたらしい。伯母が慌てた顔で「ごめんなさいね」と言ってきた。悪意をもって、皮肉を込めて言った叔父より無意識だった伯母のほうがたちが悪いかもしれない。椿は彼女のこういうところが苦手なのだ。
「やだ、あたしったら、だめね。そうそう、本家には椿がいるかんね」
「あの」
椿が声を上げた。
「僕もお餅がつけたら認めてもらえるんですか」
向日葵は慌てて「いいの」と言った。頑固でプライドの高い椿は一度言い出したら聞かない。わかってはいるが、止めたい。大樹や稔と違って経験値のない椿が生兵法でやったら怪我をする。彼にこんな肉体労働をさせるわけにはいかない。
しかし向日葵が慌てれば慌てるほど叔父の機嫌が悪くなっていく。
「なんだ、君、餅つきもしたことがないのかい」
叔父の言葉に、椿は凍てついた表情のまま「はい」と答えた。だがそれだけだ。それ以上は言わなかった。
大樹と稔は手を止めたままだ。このままでは餅が硬くなってしまう。しかし人間のあいだに漂う空気が冷たいことと言ったらこの上ない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、と焦燥感を募らせたところで――父が言った。
「おい、椿、お前、着替えてこい」
椿は今綺麗な着物姿なのだ。
「いつだか作務衣着てただろ。あれに着替えてこい」
舅に命じられて、椿は素直に「はい」と頷いた。
「餅つきぐらい俺が教えてやる。お前は俺の跡取りなんだからよ」
椿が離れのほうに駆けていく。その後ろ姿を見送りながら向日葵は脱力した。
何も知らない母と祖母が第二陣を運んできながら「えっ、なになに?」「どうしたこの空気」と混ぜっ返す。それに対して「何でもねぇよ」と答えたのは大樹だ。
「やべー、これつき終わらないと次来ちゃったじゃん」
「大樹兄、早く、早く」
その後帰ってきた椿は舅にレクチャーされながら杵を振るったが、向日葵も初めて見るへっぴり腰で、今夜以降全身が悲鳴を上げるだろう、と思ってしまった。勘弁してほしい。けれどいい機会だったのかもしれない、兄と父の態度に救われる。
本家の直系の男たちがそう言うのならばそれまでだ。それに椿には学ぶ意欲がある。叔父はそれ以上口を出さなかった。
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