第17話 わたしはあかんくないけど

 夜、子世代はまだまだ飲み足りなかったが、祖母が「ばあちゃんもう寝たい、静かにしてくれ」と言うので、五人で離れに移動した。

 提案したのはなんと椿だった。

 向日葵は驚いた。離れは椿と向日葵の愛の巣である。大樹すら上げたことはなかったし、両親も数えるくらいしか入ったことがない。離れは完全に椿のプライベート空間で、向日葵以外の人間に踏み込まれるのは嫌だろうと思っていた。

 しかし冷静に考えれば椿の実家も大勢の人間が出入りする家だった。それに普通の夫婦なら住まいに客を招くくらいあるのではないか。


 離れは親の土地の敷地内にあるが、キッチンも風呂もついた二階建てで、実質的には一戸建て4LDKである。父と母が結婚した時に若い二人のために祖父が建てた家だ。椿も向日葵も寝る時以外はずっと母屋にいるが、この離れだけで生活を回すことも可能だ。


 リビングダイニングでワインのコルクを抜く。いちごで作られたワインである。伊豆の特産品だ。甘くておいしいジュースのようなお酒で、向日葵のお気に入りを菜々と稔のために放出した。


 しかしほどなくして大樹が風呂に呼ばれて離れを出ていった。それからしばらくして、大樹の後に椿が入るようにと言われて、椿も出ていった。今頃脱衣所で風呂上がりで全裸の兄と浴衣を抱えて入浴準備をしている椿がぎゃあぎゃあとわめいていることだろう。兄は裸族で服をなかなか着たがらない。一方椿は相手が同性であっても肌を晒すのは蛮族のすることだと言っていた。大騒ぎするに違いない。祖母の眠りが妨げられないといい。


 稔がワイングラスを傾けている。いつの間にかすっかり大人の男性になった稔がワイングラスを持つととても様になる。小学生の頃の同級生にいじめられて学校に行けなくなった時のあの稔とは大違いだ。しかしまるっきり別人だとも思わない。おとなしくて賢いところはずっと変わらず、幼少期の彼との連続性はある。

 一方菜々は完全にジュースとしてごくごくと飲み干していた。ワインがちょっともったいない気もするが、気に入ってくれたのなら何よりだ。菜々もずいぶん変わった。大学に入ってからの四年間でとても明るくなった。しかし彼女のほうは小中高と何があったのかは口にしない。きっといろいろと苦労したのだろう。本家にいる時は全部忘れて能天気に過ごしてほしい。


 向日葵は左腕でクッションを抱き締めたまま右手でワイングラスを持っていたが、空になったのをいいタイミングだと思ってローテーブルの上に置いた。


「ねえ、みのくん、ななちゃん、ちょっと聞いてもいい?」


 稔が「いいよ」と言って微笑む。菜々も空になったグラスを置いて「なになに?」と身を乗り出してきた。


「椿くんのこと、どう思う?」

「どう、って?」

「ちょっと癖あるでしょ。これから先仲良くやれそうかな」


 心なしか凝ったような気がする肩を回す。


「もー、わたし、すごい心配しちゃって。椿くん人間嫌いみたいなところあるから。ななみの姉弟とぎくしゃくしてほしくないなーってずっと考えてたんだよ」


 稔が「なるほど」と頷いた。


「道理で。今日のひまちゃん、ちょっと硬いなと思っていたんだ。椿くんのことを心配していたんだね」


 そして彼もグラスを置く。


「そこまで気にすることじゃないんじゃないかな。椿くんも僕も成人してるんだから、信頼してくれると嬉しいんだけど」


 その言葉が、ぐさ、と突き刺さった。それこそ真に向日葵が心配していたポイントだ。自分が椿のママとして椿を過保護にし過ぎていないか不安だ。これははたして健全な夫婦のありようと言えるのか。椿を信頼していないと言われても言い返せない。


「ほら、ななちゃんもみのくんも、時々気ぃつかいだから」

「子供の頃の話だよ。僕らもここ数年でずいぶん変わった」

「まあ、そうだね。物心ついた時から今現在まであんま変わってないわたしが幼いのかもしれないな」

「今日のひまちゃんはなんだかやけに自己卑下するね。よくないよ。胸を張って、深呼吸をして」


 稔にたしなめられて苦笑する。三つ年下の従弟に諭されるとは何事か。


「ひまちゃんは椿くんのどこが好きで付き合ってたの?」


 逆に問われた。少しはぐらかされたような気もしたが、黙って信じろと言われたらそれまでだ。


「付き合い始めたきっかけは椿くんに告白されたからなんだけど」

「それでも結婚するくらいだからどこか惚れ込むところはあったんでしょう。何を気に入って付き合い続けたの」


 ちょっと考える。

 そういえば、クリスマスの時にいろいろ考えた気がする。他人の前では無理をしてはんなりに振る舞う椿を見て、自分は椿のどんなところを他人にPRしたいのか、真剣に考えたのだ。


「のんびりしたところかな。全体的にスローペースなんだよね。わたし、自分を落ち着きなくてがちゃがちゃした人間なんだと思ってたけど、椿くんと付き合い始めてみたらぜんぜんそんなことなくて、意外と退屈しないというか、癒されるというか」

「実はね」


 稔がにっこり笑った。


「僕もちょっとずるくて、先手を打ってあらかじめ大樹兄に椿くんってどんな人って聞いていたんだ」


 びっくりした。兄は稔と一対一で連絡を取り合ったとは一言も言わなかった。あの男は何も考えていなさそうで人間関係の潤滑油になる。


「お兄ちゃん何て?」

「良くも悪くもマイペース、って返ってきたよ。で、実際会ってみて、なるほど、と。にぎやかなことは好まないタイプだね」


 兄も稔もかなり的確に椿の性格を把握している。頼もしい。


「大樹兄は良くも悪くももと言うけど、僕も比較的ローテンションなほうだから合わなくはないかな。少なくとも僕にとっては彼のそういうところは長所だ」

「そっか。よかったあ」


 そこでようやく菜々が口を開いた。


「でも、親戚付き合いってそんな単純じゃないからね。みのと椿くんの二人は両方とも頭よくてのんびりしてるからやり取りができるけど、みんなそうってわけじゃないでしょ? 特におばちゃんたちはさ」


 菜々の言うとおりだ。

 父広樹は正確には六人兄弟で、内訳は出生順に並べると由樹子ゆきこ亜樹子あきこ、広樹、正樹、真樹子まきこ美樹子みきこである。そして東京に出ていった亜樹子と真樹子とは違い、地元で結婚して家庭をもった由樹子と美樹子はなかなかパンチが効いている。向日葵はそういうおばたちが嫌いではないが、椿は彼女らを苦手としている節がある。


「あと、池谷家って親世代の六姉弟だけじゃないでしょ。その奥さん旦那さんもいるわけだからさぁ」


 叔母の真樹子を除いた五人が結婚したので、親世代で十一人いる。そして結婚した五人の全員が二、三人の子供を持ったので、子世代が十三人もいる。もっと正確に言えば、子世代にも結婚した人間がちらほらいるから、親族が一堂に会すれば、祖父母の二親等の親戚だけで三十人を超える。本家の長である広樹は要領のいい人間だからか全員に好かれており、大樹と向日葵はとても可愛がられて育ったが、向日葵のほうには好き嫌いがあった。気難しい椿はさらに厳しく判定するに違いない。


 菜々が手酌で自分のグラスにワインを注ぐ。


「まあ、でも、池谷家はだいじょうぶかなぁ。あたしは本家にいてどうしても無理ってなったこと記憶にないんだよねぇ。どっちかと言うと母方の家のほうが嫌なこといっぱいあったなって感じで、池谷の本家に行くことに嫌だなぁって思ったことないや」

「そっか、それなら嬉しいよ」

「椿くんもね、確かにちょっと癖あるかなぁって感じたけどね、頭のいい人だと思うから、あたしらと喧嘩することはないんじゃないの。とりあえず当たり障りなくやるし、椿くんがぐいぐい来てくれるようになったら歓迎するし」


 向日葵はほっと胸を撫で下ろした。あとは椿の気持ちひとつだけだ。


 リビングのドアが開いた。振り向くと椿が浴衣に半纏、首にタオルといういでたちで立っていた。視線が集まったからかにこりと愛想よく微笑む。


「お風呂栓抜いて掃除してきたで。僕で最後や」


 向日葵は「お疲れ様でーす」と明るい声で言った。


「もうそんな時間?」


 稔がテーブルの上に置いておいた自分のスマホに触れる。ちょうど二十三時と表示される。


「どうしよう、そろそろお開きにしたほうがいいかな」

「そうしよっか、明日もあるしね」


 というより明日が本番だ。明日はいよいよ大晦日である。正樹と和枝の夫婦が来るだろうし、もしかしたら近所に住むおばたちも来るかもしれない。


「僕らどこに泊まればいい? 母屋に部屋を用意してもらえているのかな」


 問われてから気づいた。向日葵は「あれっ」と呟いた。


「お母さん何にも言ってなかった?」

「うん、荷物は大樹兄の部屋に置いてあるけど、大樹兄の部屋に僕らと大樹兄の三人は狭すぎるでしょう」


 体育会系で合宿では基本的に雑魚寝の大樹を思うと詰め込めば無理ではないような気もするが、女性の菜々をそこに放り込むのはなかなかきついものがある。


 次の時、向日葵は引っくり返るかと思うほど驚いた。

 椿の口から想定外の言葉が飛び出した。


「荷物持ってきぃや。離れの二階に泊まりなはい」

「ええっ」


 椿がきょとんとした顔で向日葵に「あかん?」と尋ねる。向日葵は首を横に振って「わたしはあかんくないけど」と答え、椿のほうが嫌ではないのか、というのを呑み込んだ。


「風呂で大樹さんに会うた時頼まれてな。荷物は大樹さんが母屋の勝手口に運んどくから離れで引き取ってって言わはってん」

「それでオッケー出したの?」

「うん。二階空いてるし、お客さん用のお布団出したらええわ」


 兄はどんなマジックを使ったのだろう。


「二階やったらいつまでも寝ててええし。母屋やと落ち着かないやろ」

「やった、ありがとう」

「ほな荷物持ってきて。二人が戻ってくる前にお布団出しといたげる」


 菜々と稔が立ち上がり、「はーい」と言いながら離れの玄関を出ていく。リビングに椿と向日葵の二人きりになる。


「椿くん、一足飛びに思い切ったことしたね」


 椿が苦笑する。


「言うたやん、努力するって」


 なんだか泣けてきてしまった。稔の言うとおり、彼を信頼しておけばいいのだ。


「まあ僕ら一階で寝るしな。そこ邪魔されへんのやったら譲歩するわ」

「やった! ありがとう!」



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