第12話 鴨川と狩野川

 椿と向日葵は上っ面だけの事務的な会話を続けながら買い物を済ませた。家族や親しい友人が見たら二人とも楽しめていないのを察すると思うぐらい重い空気だが、二人とも一応成人している。大勢の人間でにぎわう公園の真ん中で不穏なやり取りをしない程度の分別はある。


 最終的に、二人は中央公園の奥、あゆみ橋の手前の階段をおりた。するとそこは川廓かわくるわ通りという石畳の細い道になっている。川の流れに沿って左右に伸びているので、向かって右手、西側のほうへ移動する。


 川廓通りは広い遊歩道につながっている。そこには二組ほどのカップルがいて、コンクリートに腰を下ろして『週末の沼津』で買った軽食を食べて楽しそうに過ごしていた。


「座り」


 椿がそう言ってコンクリートの上に腰を下ろした。向日葵は素直に従い、「はい」と言いながら彼の隣に座った。


 ぼんやりしていても仕方がないので、手に持っていた豚汁を無言ですすった。プラスチックの使い捨てのどんぶりに具だくさんの豚汁はそれだけでお腹がいっぱいになる。

 椿も手袋をはずして、マイバッグから大きな丸いパンを取り出して食べ始めた。この人は着物に京都方言と純和風ないでたちをしておきながら小麦粉の食べ物が大好きで、放っておくとパンやベイクドケーキばかり食べている。


 太陽はぎらぎらと照りつけている。椿はそのうち「暑いなあ」と呟いてモヘアのショールをほどき、コートを脱いだ。向日葵も気温の上昇を感じてダウンコートの前を開いたが、さすがにトップス一枚だけでは肌寒く、暑いと思いながらも袖から腕を抜くことはしなかった。


 向日葵は泣きそうになった。

 いろんなことが失敗だ。今日を朝起きた時からやり直したい。


 そもそも仕事などと言い出さなければよかった。二人きりで自宅にこもって手作りケーキでも焼きながらささやかなクリスマスパーティをすればよかったのだ。学生時代にも一回あえてデートに出かけずにそういうクリスマスを過ごしたことがあった。人混みを避け、お互いだけと向き合い、静かだが幸福な、ゆったりとした時間を分かち合ってきた。そうして育んできたきずなは何よりも強いはずだったが、第三者が割って入ってくるとこんなにも脆く崩れそうになる。


 豚汁の味が妙に濃くてしょっぱい。


 食べ終わり、容器を地面に置いた時だった。


 椿が、ぽつりと言った。


「こうして二人並んで川沿いに座るの初めてやな」


 向日葵は首を傾げながら椿のほうを見た。

 椿は悲しげな目で河面のほうを見ていた。


「鴨川に行く機会もいくらでもあったはずやのにな」


 言われてから気づいた。確かに、川沿いにカップルが座っている様子は鴨川と状況が似ている。出町柳から四条大橋まで等間隔にカップルが並んでいる鴨川と比べると広大なわりに人間が少ない狩野川はもの寂しく感じてしまうが、空の下川岸でデート、という構図は同じと言えなくもない。


 大学の時の友人に、カップルが成立するとやっぱり鴨川に並ぶのか、と聞かれたことがある。その時椿は、実家から徒歩圏内でそんなことはできない、ときっぱり答えていた。誰に見られるかわからない。自分たちは本来人目を忍んで付き合うべきカップルで、キャンパス構内では堂々と手をつないで歩いていたが、大学の外に出たら他人でいなければならなかった。


 今は誰にもとがめられない。知り合いに見つかったら、冷やかされるだろうが、否定され非難される可能性はゼロだ。


「ごめんな」


 椿が河面を見たまま言う。


「僕、わがままして、ひいさんに嫌な思いさせてばっかり」


 たまらなくなって、向日葵は椿を横から抱き締めた。彼の肩をしっかりつかみ、こめかみに頬ずりをした。


 世間はなぜか椿に厳しい。椿が世間を嫌っているからだと思うが、世間ももう少し椿に歩み寄ってくれないだろうか。


 他人がいると椿はがちがちに緊張してしまう。肩に力を入れ、むりやり笑顔を作り、はんなりした好青年を装う。でも向日葵が知っている本来の椿はパンを食べ終わるまでずっとぼんやり川の流れを眺めているようなおっとりとした青年で、おとなしくて少し気が弱く可愛らしい。向日葵はそういう椿が大好きで、もっといろんな人にそういう椿を広めたい。しかしそれを椿自身が拒んでいる。高すぎるプライドが邪魔をして、一瞬たりとも気を抜けない。これでは疲れてしまうに決まっている。


 わたしが守ってあげるからね、と言いかけて呑み込んだ。


 それでも、椿がどこかで自分で垣根を超えないといけないのだ。それが人間社会で生きていくということなのだ。


 身を切られるようにつらい。


 豪に母性と揶揄されたのを思い出した。そんなつもりはなかったが、椿に対してそういう感情を抱いているのだろうか。


 子供が欲しいのだろうか。


 親戚や近所の子供などは可愛いしいつでもいつまででも戯れていたいと思うが、我が子、となるとまだまだ遠い未来のことのように思う。だが欲しいか欲しくないかで言えば欲しかった。無条件で愛せる生き物、それも自分と椿の遺伝子を掛け合わせて生まれる、と思うと今まだ存在していないのに可愛い。


 椿がきっぱりと作らないと言っていたのを思い出す。


 本気で泣けてきてしまった。


「ひいさん?」


 椿が心配げな声を出した。向日葵は洟をすすりながら「ごめん」と言って椿を離した。


「移動しよ。『週末の沼津』終わり! 戻ってごみだけ捨てさせてもらったら公園出よう」

「ええの? 取材は?」

「もういいよ。椿くんにしんどい思いさせてまで続けたいことじゃない。今日はクリスマスなんだし、二人で楽しいことができるような何かを考えよう」


 取材許可証をはずしてバッグに突っ込む。


「そうだ、時之栖ときのすみか行こう。イルミネーション綺麗だよ」

「ときのすみか?」

「御殿場にある、何て言うの、複合施設? ホテルとか会議場とかイベント会場とか大浴場とか、なんかいろいろあるんだよ、大人向けテーマパークみたいなのが」

「ふうん。で、イルミネーションやってるの。そんなん今日大混雑なんちゃうん?」

「クリスマスに行ったことないからわかんない! 何でもチャレンジしよ!」




 というわけで車を出したのだが、時之栖どころか、御殿場にすらも入れない、手前の裾野市の果てでイルミネーション渋滞にはまった。


「この車全部時之栖やないの」

「この車全部時之栖だよ!」


 渋滞にはまって車がまったく動かない状態で完全に日が暮れ、月が輝き始めた。雲ひとつない夜、富士山のふもとは真っ暗だ。


「もうええわイルミネーション。僕家帰りたい」

「わたしももういいわ。いいけどUターンもできないんだわ。どこで切り返そう? もうずっと一本道だし」

「えー、これ行くしかあらへんの? トイレとか行きたくなったらどうするん?」

「確かコンビニがあったはずなんだけど、どこだったかな」


 一周回っておかしくなってきた向日葵は、ハンドルを握ったまま声を上げて笑った。


「なんか今日もう一日めちゃくちゃ!」


 椿も笑い出した。


「ほんまやな。何やってもうまくいかん」

「最悪のクリスマスだ。逆におもしろすぎる」


 二人で笑うと、すっきりした。



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