第14話

 絵師シャムシールは語った。

「僕が壁に下絵を描いていると、肉屋組合の人が通りかかりまして、この絵に、金曜日には肉を食べようという文章を書いてもらえないかと頼むので、書いてあげました。いやあ、絵の中に文章が書いてあるなんてね」

 それがいかにも傑作というように、絵師はにこにこしていた。悪気のない、平穏そのものの顔だった。

「……似てるのか」

 スィグルはやっと、それだけ訊ねた。

 しかし、絵師がなんですかという顔をしたので、スィグルは呻いて、もう一度、言い直した。

「その絵の僕は、僕に似てるのか。僕を知っている者が見たら、それが誰だか分かる程度に?」

 シャムシールが必ずしも写実的に描かないことを、スィグルは知っていた。

 それに、花やら動物やら、果物やらの絵を示して、これは誰々ですと、人の名前を挙げることもある。

 もしかしたら壁画の中で、肉を食っているのは、常識的な者の目で見れば、領主レイラスではなく、なにかの動物とか、そういう望みもまだあるではないか。

「似せて描きました」

 望みはなかった。

「対になる壁には、エル・ギリスを描きました。金曜礼拝の日なので、天使像に懺悔してるところを」

 石段にいるギリスに、絵師は悪気無いふうに言った。

 ギリスは驚いた顔はしなかった。たぶん知っていたのだろう。

 なにから指摘するか、スィグルは痺れた頭で考えた。

「天使像を描いたのか、市場前の広場の壁に。それはまずいよ、シャムシール。聖別されていない場所に、そんなものを描くと、神殿から異端視される恐れがある」

「手だけです、殿下。天使像とわかるほどは描いてません」

 にこにこ頷いて、シャムシールは言った。ギリスが絵師の話を継いだ。

「なんかさ、すごくでっかい手が空から伸びてて、それに俺がすがりついてんの。へんな絵だよ」

 へんな絵か、と、スィグルは唾を溜飲した。だったら肉を食べようはどんな絵なんだ。

 それ以前に、なぜそれがどんな絵なのかを、僕が知らないなんてことが起きるんだ。

「シャムシール、お前が見せた下絵には、そんな絵はなかった」

「変えました。殿下が、あとは任せると仰ってくださったので」

「下絵の通りに描くんだと思うだろう!」

 ああまた怒鳴っちゃったと思いつつ、スィグルは絵師に怒鳴った。

 しかし怒鳴らずにおれようか、この、領主の揚げ足をとる連中に対して。

「申し訳ありません。普通はそうだろうと思いますが、僕は目先の創作意欲にさからえない質で……ご不快でしたら、全て塗りつぶして、はじめの下絵の通りに描き直します」

 悄然として、シャムシールは平伏した。

 彼が膝を折ると、その背後に、抱えた帳簿をのぞきこんで苛々と待っているラダックが見えた。

「そんなのは絵の具の無駄です」

 こちらを見もせずに、ラダックは口をはさんできた。

 朝儀の間、順番が来ていない者は、黙って待つものだった。少なくとも、父の広間ダロワージではそうだった。小声での私語はゆるされていたが、話に割って入る者はいなかった。

「神殿方面がうるさいのがご心配なのであれば、その金曜日の手のやつだけ直させましょうよ」

 ラダックがなおもそう提案すると、石段にいたギリスが、がっかりした顔をした。

「広場から俺がいなくなっちゃうよ、ラダック」

 そんなギリスを眺めていた絵師シャムシールが、ふと思い出したような顔をした。

「石鹸を作っている組合の人たちが、肉屋さんをうらやましがってケンカになってました。天使像の手のところだけ、石鹸に描き変えてあげてもいいですか」

 シャムシールはそう提案してきたが、ギリスは混乱した顔になった。たぶん頭の中で絵を想像しようとして、失敗しているのだろう。確かにそれがどういう絵になるのか、スィグルにも見当もつかなかった。

「なんで俺、石鹸にすがりつくの?」

「いや、僕にもそれは謎ですけど。でも絵としてはいいのが描けそうな予感」

 許可してくれますよねという、期待をこめた目で、絵師はスィグルを見た。その瞳は、創作意欲に輝いていた。

「いいですね、それなら部分的な改訂ですむので、絵の具の無駄も防げます」

 追い打ちのように、ラダックが同感の意を示してきた。

 スィグルが小宮廷を見渡すと、順番を待ちながら聞くともなく聞いている連中が、もうそれでいいじゃないか、許してやって次の仕事にかかれという空気を発していた。昼時が近づいているせいだった。

「ご決断を、殿下」

 抱えた帳簿をびしびし叩いて、ラダックが急かした。こいつもさっさと自分の仕事をすませて飯に行きたいくちだろう。

「いいのか、ギリス、そんな絵に使われて」

 反対意見を言う者はいないのかという期待をこめて、スィグルは石段にいるギリスを玉座から見下ろした。

 ううんと悩むような唸り声を、ギリスはあげた。

「ただで?」

 ギリスは唐突にそう訊ねた。ほおづえをついて、彼は床を見ていたが、たぶん、ラダックに訊ねたのだった。

「仕方ないんじゃないですか、肉屋組合にはただで描いてやったんですから」

 ラダックはすかさず応じた。

「肉屋からも金をとれば? 後出しで請求すると卑怯かな。でも石鹸屋からだけ金とると、それはそれで問題だよな」

 そう言うギリスは、石鹸屋からは金をとるのが確定しているかのような口調だった。

「では、こうしたらいかがでしょう。絵は不定期的に描き変えるのです。そこに自分たちの組合に有利な意匠を載せたいものは、金を払って一定期間、その絵を買うことができます。肉屋組合は、引き続き絵を維持したければ、期限以降は有料化ということで。期限を、シャムシールが石鹸の絵を描き上げる時に設定したら、まあまあ納得感があるのでは」

 ラダックは蕩々と、その計画を皆に披露し、どうだろうかと問いかけるように沈黙した。

「肉屋が断ってきたらどうすんの」

 ギリスが心配げに反論した。

「対抗する組合である魚屋に有利な絵を描くような下絵をチラ見させて、脅しをかけましょう。そういうのを用意できますか、シャムシール」

「描けますよ。金曜日には魚を食べよう」

 歌うように絵師は言ったが、スィグルはちょっと待てと思った。期限が切れたら、領主の食事絵は消されるのだと、内心ほっとして聞いていたのに、食い物が肉から魚に変わるだけで、居続けなのか。

「肉屋がだめなら魚屋があります。それがだめでも他になにか食べ物の組合が、興味を示すでしょう。なにしろ領主様が召し上がるわけですから、効果絶大です」

 ラダックが頷きながら言うのを、皆頷いて聞いていた。誰にも打ち破れそうもない納得の気配が広間を包んでいた。

 そんな話ばっかりだなお前たち。

 スィグルは玉座で頭を抱えていたが、大丈夫ですかと言ってくれる者は、一人もいなかった。

「じゃ、それで」

 ギリスが勝手に許しを与えた。

 ちょっと待てとスィグルは顔を上げたが、典礼を取り仕切る侍従が所定位置から朗々と呼ばわった。

 次の者、参れと。

 シャムシールが深々と叩頭して去り、せかせかとそのあとを埋めたラダックが膝をついた。

 叩頭もそこそこに、金庫番は立ち上がって書類を開いた。

「公営賭博場からの収支報告です、殿下。今月は絶好調です。このままいきますと、いずれ金鉱の収益を抜くことができます」

 そう教える金庫番は、相変わらずの無表情だったが、ひどく満足げだった。

「……そうか、大儀だなみんな、よくやった」

 ほとんど条件反射で、スィグルは廷臣一同を褒めた。

 忠実なるしもべどもは皆、上機嫌で、にこにこしていた。俸給をあげてくれという顔で。

 それはそれで、平和な治世だった。

 自分が、この上に胡座をかく根性さえ身につければ、きっと小宮廷は完成する。スィグルにはそう思えた。

 父は玉座から、廷臣たちをいつも、我が友、我が英雄、我が忠臣たちよと、優しく抱擁するような甘い声で呼んでいたが、いったい自分はこの馬鹿どもを、なんと呼んでやればいいのか。

 新星の魔法を完成させるのに必要な、最後のその言葉が、スィグルにはまだ思いつかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る