第2話

 ◇




 星が美しい、ある真冬の夜のこと。


 私はレイヴェルの手助けのもと書き上げた手紙に封蝋を施し、そっとテーブルの上に置いた。明日、お母さまにお渡しするときは、レイヴェルが咲かせてくれた薔薇の花を一輪添えるつもりだ。


「コーデリアさま、もう準備は終わりましたか? 終わったなら、一緒に本を読みましょう」


 背後からするりと私を抱きしめながら、レイヴェルが甘えるように告げる。 


 文字を書いている間は彼に手伝ってもらっていたのだが、最終確認をしたり、封蝋を施したりしている間は、彼を待たせてしまっていた。もちろん彼はその間も、私のそばでじっと様子を観察していたのだが、一段落ついたと察するなりくっついてきたようだ。


「ええ、待たせてしまってごめんなさい」


 彼に抱きしめられたことで、一気に頬が熱を帯びていた。


 レイヴェルはそれを見透かすように笑って、背後から私の頬にちゅっとくちづけた。くすぐったいような感覚が広がって、どうしていいのかわからなくなる。ただただ、幸せだった。


 レイヴェルとこうして触れあえている理由は、私の居場所が再び離宮へ戻されたからだ。


 あの火災で怪我した足を治療するには、一日じゅう私に付き添えるマリーが出入りできる離宮のほうがふさわしいという話になり、神殿から解放されたのだ。お兄さまは不満げだったが、レイヴェルが表舞台から姿を消したことで、いくらか妥協してくれたようだった。


 レイヴェルの起こした火災は、離宮の庭を焼きつくしたが、使用人や神官たちに被害が及ぶことはなかった。突然に消失した炎を訝しむ声は多かったものの、女神さまのご加護があったのだという話に落ち着いている。今ではすっかり元通りの生活を取り戻していると言っていいだろう。


 レイヴェルは、お兄さまのいないときを見計らい、魔術を使って会いに来てくれていた。マリーとも顔を合わせていない様子だが、彼女のほうはレイヴェルの訪れに気づいているらしい。膝掛けが、私のぶんとは別にもう一枚用意されているのは、おそらくそのためだ。マリーからレイヴェルへの、信頼と親切の証だった。


 おかげで私たちは一緒に過ごすことができているのだが、心中を決意してからというもの、私たちの距離は異様なまでに近くなった。


 いわば、これが私たちの蜜月のようなものなのだから当然なのかもしれないが、生贄になる前に心臓が止まってしまうのではないかと思ったことがこのひと月だけで何度もある。


 それでも、くちづけは挨拶の範囲と捉えられる箇所にしかしていない。唇へのくちづけは、ふたりきりの結婚式の際にいちどだけと決めており、人形姫は純潔でなければならないという掟を、彼は律儀に守ってくれていた。


 人形姫に意味などないことを考えれば、そんな掟を守る必要もないのかもしれないが、未来のない私たちが、万が一にも新たな命を授かるわけにはいかなかった。


 ただ、触れあって、手を繋いで、唇で存在を確かめられたらそれでいい。普通の恋人の形ではないのかもしれないけれど、私たちは満ち足りていた。


 だがこの生活も、明日で終わりだ。人形姫の儀式は、いよいよ明日に迫っていた。


 儀式当日、人形姫は朝から祈りを捧げ続け、夕には王に暇の挨拶をする。そして星が瞬くころ、ひとりで神殿に入り、用意された毒を煽って女神の御許に召されるのだ。


 つまり命の期限は、あと一日を切っていた。


 レイヴェルとは、毒を煽る直前で合流するつもりだ。神殿の敷地内は女神の加護が強すぎて魔術は使えないが、儀式が行われる大広間にはいくつか連絡通路が繋がっており、そこから侵入する算段はついているらしい。


 そこでふたりきりの結婚式を挙げ、毒をわかちあって命を絶つつもりでいた。


「どうしました。難しい顔をしていますね」


 レイヴェルが私の顔を覗き込むように笑って、頬を撫でた。すべてをわかちあうと決めたから、今の気持ちを正直に口にする。


「……すこしだけ、怖くなってしまったの。いよいよ、明日なのね」


 彼は慈しむように目を細めると、そっと私の手を取って、ソファーへ導いた。


「そういうことなら、あなたが怖くなくなるような物語を朗読して差し上げます」


「ええ、ありがとう」


 彼とぴったり寄り添うように並べば、レイヴェルが私に膝掛けを羽織らせてくれた。そうしてふたりの膝の上にもう一枚の膝掛けを乗せる。


 言葉もなくはにかみあえば、すぐに、心地よい朗読が始まった。


 月明かりが溶け込んだ薄暗い寝室の中、レイヴェルの空色の声だけが響き渡る。


 彼が選んだのは、私が好きな天使の物語だった。何度聞いても、飽きることはない。


「白い砂浜も、銀の水面も、なんて美しいのでしょう。天使は、温かな砂の上でそっと静かに泣きました」


 彼の声に酔いしれながら、天使が泣くほど感動したという美しい海を想像してみる。


 白い砂浜と、銀の水面、青色の貝殻。きっと、暖かくて心地よい風が吹いていたに違いない。


 ……結局最後まで、海を見ることは叶わなかったわね。


 細々とした後悔を上げれば、きりがない。朗読の最中だというのに、どうにも感傷的な気分になってしまった。


 切なさを紛らわすように、本を持ったレイヴェルの腕と体の隙間に潜り込む。こうすると、彼の柔らかな香りに包まれて、心から安心できるのだ。


「どうしました? まだお寒いですか?」


「いいえ。あなたにくっつきたくなっただけ」


 彼の肩に頭をすりすりと擦り寄せれば、レイヴェルの腕が私を包み込むように腰に回された。隙間なくくっつくと温かくて嬉しい。


 レイヴェルは吐息混じりに笑うと、そのまま私の頬にくちづけ、何度か甘噛みをした。


 くちづけられるのはしょっちゅうだが、噛まれたのは初めてのことだ。びっくりして彼を見上げてしまう。


「痛かったですか?」


 レイヴェルはどうにもご機嫌だった。彼が嬉しそうならばそれに越したことはないのだが、噛む心理はよくわからない。


「痛くはないけれど……なんだか食べられてしまいそうでどきどきするわ」


「食べはしませんが、急にいじめたくなりました」


 笑いながら、レイヴェルは私のこめかみにくちづける。唇にこそしないが、そのぶん他の箇所にはたくさんする。そのたびに私は顔が熱くなってしまうのだが、彼は気づいているのだろうか。


 でもおかげで、先ほどまでもやもやと燻っていた不安が消し飛んだ気がする。


 彼との触れあいは麻薬のようだ。痛みを、こんなにも簡単に打ち払ってくれるのだから。


 心穏やかな気持ちで、再開した彼の朗読に聴き入った。彼の声は空色であることに変わりはないが、出会ったころに比べれば、ずいぶんと大人びた落ち着いた声になった気がする。


 十年という月日の流れを実感した。彼も、すこしは私を大人っぽく思ってくれているだろうか。


 お伽噺が終わり、ぱたんと表紙が閉じられると、心地の良い静寂に包まれる。彼とふたりでいれば、沈黙も一種の音楽のようだ。


「レイヴェル、今度は一緒にお話をつくりましょう」


「いいですよ。どんなお話にしましょうか」


「人形姫と朗読師が、結婚式を挙げたあとのお話がいいわ」


 レイヴェルはふっと微笑むと、本を置いて私の指に自らの指を絡めた。お互いにすこし力を入れるだけで、決して離れないほど固く結ばれる。


「わかりました。……俺の希望としては、海の見える暖かい国が舞台だといいのですが」


「私も同じことを言おうとしていたわ。白い砂浜のほど近くにある、小さな家に住み着くのがいいと思うの。人形姫は……そうね、料理にあまり自信がないから、お掃除やお洗濯をしたいわ」


「あいにくですが、朗読師も料理はあまり得意ではなさそうです」


「じゃあふたりで頑張るしかないわね。初めは消し炭みたいな食事でも耐え凌ぎましょう」


「先が思いやられますね」


 くすくすと笑いあい、ゆっくりと物語を紡いでいく。


「ふたりはね、朝と夕暮れに砂浜を散歩するの。そうして毎日ひとつずつ綺麗な貝殻を集めて、おうちの中を飾るのよ」


「それはいい。貝殻を見るたびに、ふたりで散歩した時間を思い出すのですね」


「ええ、そうよ。夜はふたりでおんなじ本を読んで眠るの」


「ひとつの寝台で?」


「もちろん、毎日一緒がいいわ」


「寝不足になりそうですね」


 レイヴェルは吐息混じりに笑った。慈しむようでどこか色気のある眼差しに、どくん、と心臓が跳ねる。どうしていいかわからなくなって、もじもじしながら慌てて物語を再開した。


「ふ、ふたりはね、物語をつづって本にするの。それを細々と売ったり、街の子どもたちに読み聞かせたりして、すてきな物語を広めるのよ」


「そうですね。ふたり一緒なら、とても幸せな結末を描けそうだ」


「そうしてね、幸せに暮らすふたりは、いつしか新たな命を授かるの」


「男でも女でも嬉しいですが、人形姫によく似ているとなお良いですね」


「あら、私は朗読師に似ているほうがいいわ」


「こんなところで意見が相違するとは」


 互いに譲らないと言わんばかりに見つめあい、やがてどちらからともなく吹き出した。


「ふたりいれば平和ね」


「間違いありません」


「ふたりの色彩を、わかちあう子がいいわ。ひとりは黒髪と緋の瞳で、もうひとりは白銀の髪と深紫の瞳を持っているの」


「俺も同じことを考えていました。人形姫の色彩を半分もらうだけで、ずいぶん美しくなる気がします」


 ぼんやりと、考え込んでみる。レイヴェルとの間にもしも子どもが産まれたら、さぞかし可愛いに違いない。どちらに似ようが似まいが尊いことに変わりはないだろう。


 未来のあるふたりの物語は、ただの空想に過ぎない。


 それなのに、どうしてだろう。不思議と虚しいとは思わなかった。


 今生ではもうあり得ないけれど、いつか叶いそうな気がするのだ。遠い未来に、ひとかけらの希望を残したような気持ちになる。


「……人形姫と朗読師はね、来世でも、夫婦になるのよ」


「もちろんです。喋れるようになったら真っ先に、求婚しに行きますよ」


「気が早いのね」


 来世なんて、あるかどうかわからない。そもそも王族は女神に仕えるため、生まれ変わることはない、なんて説を提唱している神官もいた。


「……大丈夫です。俺は常にあなたとともにあります。あなたが生まれ変わるなら追いかけますし、女神の御許に留まるのなら、そのままあなたと一緒にいます」


 彼なら本当にやってのけてしまいそうだ。まるで私の不安を見抜いたかのような優しい言葉に、じんと目頭が熱くなる。


 いけない。最後の夜なのだから、楽しい気持ちのまま終わろうと思っていたのに。


「ずっと一緒だと、あなたが言ったのです。逃げられるなんて思わないでくださいね」


「あなたこそ……忘れちゃ嫌よ、レイヴェル」


 レイヴェルの唇が、目尻に触れる。身を任せるように睫毛を伏せれば、じわりと滲み出した涙に吸いつくように、何度もくちづけが繰り返された。


 このまま、眠ってしまうのが惜しい。


 明日になれば、もう、私たちにはほとんど時間が残されていないのだから。


 縋るようにレイヴェルを見上げれば、彼は儚げに睫毛を伏せて私の前髪をさらさらと撫でた。


「リア……今夜はこのまま、あなたを抱きしめて眠っても良いですか。絶対に、あなたの肌には触れませんから」


 それは、私がお願いしようとしていたことだ。ゆっくりと頷いて、そっと彼の胸に頭を預ける。


 これはいわば、雪のように真っ白な初夜だった。


 ふたりで一枚の毛布にくるまって、抱きしめあいながら横になる。彼の腕の中で瞬きを繰り返せば、彼は私の頬にくちづけを落とした。


「おやすみなさい、リア」


 私もお返しに、ちゅっと彼の頬にくちづける。


 途端にふわりと彼の表情が柔らかくなって、その笑みが、ただただ愛おしくてならなかった。


「おやすみなさい、レイヴェル」


 祈るように額を擦りあわせ、互いの顔を目に焼きつけるように見つめあう。


 この一瞬を惜しむようにまぶたを閉じれば、暗闇に、彼の温もりと吐息だけが溶け込んでいた。


 恋慕うひとの温もりと、柔らかな香りに包まれて眠るのが、こんなにも幸せなことだったなんて。


 彼と手を繋いだまま、はちみつのようにとろりと甘い夢の中へ沈んでいく。


 このいちど限りの清らかな初夜が、私の夜のすべてだった。


 すべてだったのだ。

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