第5話
突然のことだったせいか、彼の不意をつくことができたようだ。そのまま彼の体をバルコニーの欄干に押しつける。
熱で歪んでいたのか、その衝撃で欄干はあっさりと壊れて炎に飲み込まれていった。
彼の上半身が宙に浮き、彼に馬乗りになるようにして動きを封じる。
いちばんしたくなかった決意を、心の中で静かに固めた。
「……コーデリアさま?」
「それでも……私は止めるわ」
彼の胸ぐらを掴んだまま、ぐっと距離を縮める。
私がやらなければならない。痛いほどよくわかっているのに、目頭が熱い。
「あなたに、誰ひとりとして殺させない。民の命は、私が守るの。だから絶対にあなたを止めるわ!」
――ここで、あなたを殺してでも。
「本当に、どこまでも誇り高い姫君だ。王家はあなたを騙していたのに、まだこの国がそんなに大切ですか?」
「民を守ることに、私の気持ちは関係ないわ」
どれだけの理不尽がこの身に降りかかろうとも、民を蔑ろにして良い理由にはなりえない。
人形姫が嘘だったとしても、私はこの国の王女なのだから。
民の安寧の脅威となりうるものは、排除しなければならないのだ。
それがたとえ、世界でいちばん愛しいひとであったとしても。私のために、捧げられる災厄だったとしても。
「最終通告よ。炎を消して」
「こればかりは譲れません。女王と差し違えてでも、俺はあなたを捕らえる籠を壊してみせる」
息もつけぬような緊迫感が漂う。互いに睨み合うような、一歩も引けない状況だった。
「こんなこと、私は望んでないわ」
「そうでしょうね。これは俺の身勝手です。ただあなたを、こんなくだらない伝承のために死なせたくないだけだ」
ぴりぴりとした緊張感の中で、レイヴェルは小さな息をつく。
「でも――」
彼はわずかな間睫毛を伏せたかと思うと、やがて、はっとするほど柔らかな笑みを見せた。
「――本当に俺を許せないのならば、どうかこのまま殺してください。あなたの手で、終わらせてください。そうすれば、炎も自然と消えるでしょう。……このままあなたを失うくらいなら、その前に、せめてあなたに裁かれたい」
血に塗れたレイヴェルの手が、私の頬に触れる。諦念を滲ませた儚い表情で、彼は笑った。
頬に触れた彼の指が、震えるように肌を掠める。まるで、女神に懇願するかのような仕草だった。
ひょっとすると私は彼にとって、魔女のような存在なのかもしれない。私のために国を滅ぼし、枷を解いてくれようとしている彼を、私はこうして拒絶しているのだから。
でも、レイヴェルより民を選んだわけではないのだと、どうかわかってほしい。私の心はいつだって、彼の空色一色に染め上がっているのだから。
彼にぐっと顔を近づけ、泣きながら満面の笑みを浮かべた。
俯いた拍子に白銀の髪がさらりと流れ、彼の横顔に触れる。それは、帷のように世界から私たちを隔絶した。
これがきっと、彼に向ける最後の笑顔だ。
深紫の瞳は慈しむような光を帯びて、私を映し出していた。長い睫毛が落とした繊細な影をそっとなぞる。
綺麗だ。どれだけ眺めても飽きることはない。誰より愛おしい、レイヴェルの顔だ。
……さようなら、さようなら、レイヴェル。
「……次に会ったときには私たち、きっと結ばれましょうね」
そのまま彼の首に抱きついて、全身の力をかけた。
ふたりの体がぐらりと傾いて、たちまち青い炎の中に落下していく。
「っ……コーデリアさま!?」
決して離れることがないように、彼の体にぎゅっと抱きついた。視界が反転する一瞬の景色が、やけに美しく目に焼きついていく。
青と紫の火花がぱちぱちと散って、私たちを包み込んでいた。肌を焼く熱を感じてもおかしくないのに、不思議とすこしも痛くない。
どちらが流したとも知れぬ涙は、夜空へ吸い込まれていった。
彼の表情は見えなかった。固く抱きしめあっていたから、彼も私の顔は見えていなかっただろう。ただ、最後の瞬間まで彼の温もりだけを感じていたかった。
「っ――!」
瞬間、ぱっと眩い紫の光があふれて、とっさに目を瞑る。光を取り戻した日を思わせるような、痛いくらいの眩しさだ。
続いてふわりと体が浮き上がるような感覚に見舞われたかと思うと、とさり、と軽い音を立てて地面に体がついた。
「っ……レイ、ヴェル?」
震えるまぶたをゆっくりと開けば、私たちは焼け焦げた庭の上に横たわっていた。私はレイヴェルの体の上に倒れ込むような形で、背中には庇うように彼の腕が回されている。
あたりを焼き尽くしていた炎が、いつの間にか跡形もなく消え去っていた。霧のような薄い煙が立ち込めていたが、次第にすっと晴れていく。
炎が消えて初めて、銀の瞬きが夜空いっぱいにちりばめられていたことを知った。
「何を考えているのですか!」
レイヴェルが上体を起こして、叱るように私に掴みかかった。
彼の膝の上に乗ったまま、静かに彼を見つめ返す。ふたりとも、煤と灰だらけだ。
「……炎を、消してくれたの?」
「あたりまえでしょう。あのままでは、あなたまで怪我をするところでした。リアに、火傷なんてさせたくない」
レイヴェルは深い溜息をついて、私の体をかき抱いた。
苦しいほどに腕に力が込められ、肩口に顔を埋めるようにして擦り寄ってくる。唇が鎖骨に当たってくすぐったかった。
「……殺すなら、俺だけを落とせばいいものを」
「そんなことできないわ」
彼だけを死なせるなんてことは、考えられなかった。
私たちは、ふたり一緒にいなければならないから。青い炎に焼かれるのならば、ふたり一緒がよかった。
「あなたはご自分の命の価値をわかっていない。こんなところで死ぬなんて絶対にいけません。もちろん、偽りの伝承のために生贄となるのも駄目だ」
レイヴェルは暗い瞳で縋るように私を見た。まるで、置いていかれることを恐れている子どものようだ。
私の両肩を揺さぶるように掴んで、レイヴェルは続ける。
「もう、この際女王のことはどうでもいい。俺と一緒に逃げましょう、リア。こんな国のことはすべて忘れるのです。誰の目も届かないところへ逃げて、そうして、一緒に海の見える国で――」
レイヴェルは、はっとしたように口をつぐんだ。深紫の瞳が、戸惑うように揺らいでいる。
私が、声もなく泣いていたせいだろうか。
「コーデリアさま……」
「ありがとう……ありがとう、レイヴェル。――でもね……もう、いいのよ」
レイヴェルの膝に座ったまま、そっと彼の頬を指先でなぞる。
ずっと、私が触れてきた彼の顔だ。
「人形姫の制度が覆らないままに私が逃げたら……民の不安を煽るもの。王家と神殿の威信が崩れて、本当に国が荒れるかもしれないわ」
それに、王家は絶対に私を諦めないだろう。魔術師であるレイヴェルが守ってくれるとわかっていても、ふたりで過ごす幸福な日々が突然壊されるかもしれない、と怯えて暮らすのは、私たちの望む本当の幸せとは言いがたいはずだ。
「だからね、私、ひと月後に生贄になる。レイヴェルがこんなに頑張ってくれたのに変わらなかったのなら……きっとこれが私の運命なのよ。大丈夫、怖くないわ。ずっと、十八になった年に死ぬつもりで生きてきたんだもの」
「そんなこと――」
何かを言いかけていたレイヴェルの唇に、そっと人差し指を添えて言葉を封じた。
それ以上、何も言わないで欲しい。これでも、目いっぱいの強がりなのだから。
目頭が熱くなるのを感じながら、レイヴェルを安心させるように無理矢理頬を緩めた。
けれど、うまくいかない。唇の端がぴくぴくと引き攣って、上手に笑えない。
レイヴェルは彼の唇に触れていた私の手を両手で包み込むと、言葉の代わりに何度も首を横に振って私に縋りついた。彼の懇願が、痛いほどに伝わる。
私だって、彼と生きられるものならば生きたかった。何に縛られることもなく、一緒に生きていたかった。
膝立ちになって、そっと彼の頭を胸に抱く。煤けた彼の黒髪を、そうするのが当然というように繰り返し撫でた。
「コーデリアさま……!」
「いいの、レイヴェル。もう、いいの」
彼に言っているというよりも、自分に言い聞かせているといったほうがふさわしいかもしれない。その証拠に、声はずっと小刻みに震えていた。
「……定められた結末を覆そうだなんて、やっぱり、無理だったんですね」
ぽつり、と彼はひとりごとのような言葉を紡いだ。
「俺はただ……あなたが欲しかったんです、リア。あなたは、ようやく見つけ出した、俺だけの美しい物語だから。こんな理不尽な終わらせ方はしたくない、と、ただその一心で……」
彼の声は震えていた。はあ、と笑うような吐息を吐き出して、レイヴェルは私の胸に頭を預ける。
「あなたの笑顔を……もっと見ていたかったなあ。一緒に本を読んで、他愛もない話をして、手を繋いで……海にも、連れていって差し上げたかった。ふたりでもっともっと、いろんな物語を――」
それ以上の言葉は、嗚咽にかき消されてしまった。
ぽたぽたと大粒の雫が地面に吸い込まれていく。彼は震えながら私に縋りついてきた。
いつもよりずっと小さく見える彼の姿に、たまらず彼の頭をかき抱く。彼の涙が移ったかのように、再びぼろぼろと涙があふれてきた。
「レイヴェル、ごめんね、ごめんなさい……人形姫に生まれてしまって、ごめんなさいっ……」
こんな謝罪を繰り返したって、どうしようもないとわかっている。
お互いに、この色彩を持っていなければ、出会うことすらなかったのだろうということも。
それでも、悲しくて、やるせなくてならなかった。胸が無理矢理張り裂かれて、ずっと血を流しているような心地だった。
なんのしがらみもなく、彼と自由に生きていける立場だったらよかったのに。
それ以外は、何もいらなかったのに。
子どものように声をあげて泣きじゃくれば、レイヴェルの手がそっと私の背中に回された。そのまま、何かに引き寄せられるようにきつく私の体を抱きしめる。言葉もなく、私もそれに応じて抱きあう腕に力を込めた。
息もできないような密着度だったが、構わなかった。彼の存在を、すこしでも多く感じていたい。
レイヴェルは、私の胸に顔を埋めたまま、嗚咽を漏らして泣いていた。私もずっと泣いていた。
……離れたくない。いつまでもこうして抱きあっていたい。
この温もりは私の半身だ。
離ればなれになることなんて、できないように生まれてきている。
愛しているという言葉が色褪せるほど、私たちはただ、お互いのことだけを求めていた。
白い吐息が途切れる。泣きじゃくり、きつく抱きしめあっているせいで胸はずっと苦しかった。それでもその吐息すらも逃さないというように、私たちは縋りあっていた。
どれくらい、そうしていただろう。
やがてレイヴェルは、私の胸に寄りかかったまま顔だけを傾けて私を見上げた。
丸い涙を一粒流しながら、彼はひどく儚げに笑ったのだ。
「……リア、あなたが生贄となる日に、俺のことも連れて行ってくださいませんか」
それは、すこし前の私ならば到底受け入れられないような申し出だっただろう。
けれど、今は不思議なくらいにすんなりと、私の心に入り込んできた。
せめてあなただけでも生きていて欲しい、なんて健全な願いはとうに抱いていなかった。
私たちは、ふたりでいなければならないのだから。ひとりでは、生きているとは言わない。
「ええ……連れていくわ。あなたを、ひとりにはしない」
互いの指を絡めて、ぎゅっと握り込む。
彼は、何かから解放されたような安らかな微笑みを浮かべていた。
きっと、私も似たような表情をしているのだろう。
「結婚式を挙げましょう。ふたりきりで。私が、生贄となる夜に」
吐息が触れあうような距離で笑いかければ、彼は甘く満たされたような瞳で私を見つめた。おもむろに黒手袋を取り去ると、血のこびりついた手で私の頬を撫でてくれる。
「すばらしい考えです。……俺と、永遠を誓ってください」
「ええ……私たちずっと、ずっと一緒よ」
どちらからともなく額をすりあわせ、祈るようにまぶたを閉じた。
置いていかない、いかせない。あなたと、すべてをわかちあうと誓った。
それは、死も例外ではない。
「……他の誰にも触れさせないわ」
私たちの、この「幸福な結末」にだけは絶対に。
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