幕間 夜と蒼穹の物語
第1話
薄暗い神殿の地下を黙々と突き進む。冬が近づいているせいか、夜はすっかり冷え込むようになっていた。地下牢には灯りも暖炉もないから、尚更だ。
魔術で灯りを灯そうにも、神殿の内部は女神の加護が強すぎて魔術を使えない。おかげで侵入するのもひと苦労だった。もっとも、だからこそあいつが閉じ込められているわけなのだが。
淀んだ地下牢の空気は、皮肉なことに幼少期を思い起こさせる。コーデリアさまに出会う前の、彩のない冷たい日々を。思い起こすだけで吐き気がするような、最悪な記憶だ。
……あいつとコーデリアさまを、会わせたくなかった。
しかもあいつは、こともあろうにコーデリアさまを傷つけたのだ。さっさと火あぶりにでもなってもらいたいが、その前にひとつだけ、確かめなければならないことがある。そのために、わざわざこんな場所に足を運んでいるのだ。
こつり、と靴音を響かせてある地下牢の前で立ち止まれば、闇に溶け込んだ黒い人影がぴくりと動いた。
「……誰」
わずかに差し込んだ月影の中に、そいつはゆらりと姿を表した。長い黒髪はずいぶんと乱れていて、「歌姫」の名を継ごうとしていた美しい少女の面影はどこにもない。
「あら、兄さん……助けに来てくれたの?」
ロザリーは、くすくすと笑いながら鉄格子にもたれかかった。黒髪の間から覗いた深紫の瞳は怪しげに光っている。
散々痛めつけた両手首には、薄汚れた布が巻きつけられていた。顔色が悪いのは血を失ったせいなのだろう。
「ひとつだけ訊く」
ロザリーの軽薄な笑みを適当にあしらいながら、俺は昼間彼女が言いかけていたことを思い出した。
「お前が言いかけていた、人形姫の本当の姿、とはなんだ? お前は何を知っている」
本来ならばロザリーの言葉など信用するに値しないが、この話題だけは別だ。
どんな些細なことでも、でまかせにしか思えなくても、確かめずに聞き逃すわけにはいかない。それくらい、これは俺とコーデリアさまにとって大切なことだった。
「あたしと組むつもりもないのに、情報だけせしめようなんて――」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる彼女の手首を、鉄格子越しに掴んだ。
すこし強く握れば、傷口がずれたのかじわじわと血が滲み出してくる。
「っ……わかった、わかった話すわよ!」
王族を殺すために潜んでいたわりに、こいつは痛みに弱い。母とともに襲われたあの日のことが心に傷を残しているのかも知れなかった。
力を緩めれば、ロザリーは何度か深呼吸をして、そうして吐き捨てるように笑った。
「母さんはね、あたしにぜんぶ教えてくれたわ。この国の、本当の姿を」
母さん。その言葉を口にする瞬間だけ、ロザリーの声は柔らかかった。あんな母親を、今でも思い慕っているらしい。
「あのねえ、兄さん。愛し子は魔女で、魔女は愛し子なのよ」
夜闇の中でも浮き上がるように赤い唇を歪め、ロザリーは横目で俺の目を射抜いた。謎かけのような言葉に、思わず眉をひそめてしまう。
「――あんたが仕えてるあの女はね、裏切り者の末裔なのよ。人形姫なんて、なんの意味もないの。あの女は、罪人と同じ色彩をもって生まれただけの小娘なんだから。そんな穢らわしい者を、女神が本当に望んでいると思う? ただの人間の命で、王国が守られると思う?」
人形姫に、意味がない?
コーデリアさまの一生を全否定するような言葉に、ぞわりと嫌悪感が湧き起こる。
「それなのに、みんなで崇めて祈って馬鹿みたい! 神官として振る舞っているときも、笑いを堪えるのに苦労したわ」
「……コーデリアさまは、特別な方だ」
「驚いた。あんたもすっかり狂信者ね」
ロザリーは鉄格子に寄りかかったまま、俺の手を振り払うと甲高い笑い声を上げた。
「まあ、それはそれでいいんじゃないかしら? あんたの大好きな『コーデリアさま』が、国の腐った風習に踊らされて自死するのをよしとするのなら。あんたも後追いでもするの? 見ものねえ!」
床に崩れ落ちながらけたけたと笑い声を上げるロザリーの姿は、驚くほど母に似ていた。
昼間から様子がおかしかったが、捕らえられたことで何かが壊れてしまったのかもしれない。
こうなってしまっては、これ以上のことを聞き出せないだろう。彼女の笑い声を聞きつけて看守が駆けつけたら厄介だ。
早々に見切りをつけて、踵を返した。結局はっきりしたことは聞き出せなかったが、気になる言葉はいくつか拾うことができた。ひとまずはそれで十分だ。
……罪人、裏切り者、女神が望まない人形姫。
どれも、胸をざわつかせる。コーデリアさまが信じている「幸福な結末」が揺らいでしまいそうな言葉ばかりだ。
……確かめなければ。
命と引き換えに王国に安寧をもたらす、神聖な存在。それが人形姫だ。
この認識に、決して間違いがあってはいけない。
これは、誰より尊いコーデリアさまの命がかかった話なのだから。
……でも、もしもあいつの言う通り、人形姫に意味などなかったとしたら、そのときは?
コーデリアさまは、生贄となることに誇りを持っておられる。
でもそれは、民に安寧をもたらすことができると思っているからこそだ。人形姫の制度に何か問題があるのならば、彼女が定めた「幸福な結末」の定義が揺らぐ。
……そうなったら、あの方は、生きたいと願ってくださるのだろうか。
ふっと浮かび上がった自分本位な甘い考えを、慌ててかき消した。
俺は、コーデリアさまの望む「幸福な結末」を見届けたい。それだけだ。彼女が望んでいない「続き」を求めたって、きっと俺が爛れた充足感を味わうだけなのだから。
それでも、どうしても淡い期待は消えてくれない。何度も何度も夢に見た、甘く都合のいい妄想が、じわじわと俺の理性を焼き溶かしている。
――レイヴェル、私と一緒に逃げましょう。
高潔な彼女が決して言うはずもないその言葉を、俺は心のどこかでずっと待ち望んでいる。民の幸福よりも、俺を選んでくれたらどんなにいいかと浅ましく焦がれている。
……最悪だ、俺は。恋慕う人のいちばんの望みを、心から祝福することすらできないなんて。
離宮の一画に与えられた使用人部屋に戻るなり、思わず寝台に顔を伏せるようにして床に崩れ落ちた。
白いシーツの上には、コーデリアさまとつづった物語の束が散らばっている。まだ彼女の目が見えないときに、一緒につくった短い物語たちだ。
「コーデリアさま……」
ロザリーの言う通り、コーデリアさまが生贄となったら、同じ夜にあの方の後を追うつもりでいた。
コーデリアさまのいない世界など、何の価値もない。この命にも、すこしも未練はなかった。
それでも、心の奥底では願わずにいられない。コーデリアさまが、生きることを選んでくださる未来を。
……このままずっとおそばにお仕えしたい。あなたの笑顔を、声を、物語を見守っていたい。
彼女と出会ったときからずっと、俺はそれだけを願っていた気がする。
一生触れられなくていい。コーデリアさまのそばで、彼女の物語を見守ることができるのなら。
どんな物語でも終わりが近づいてくると寂しく思うものだが、コーデリアさまの物語が終わることを惜しむ気持ちは一入だった。
「コーデリアさま、コーデリアさま……リア」
ふたりでつくった物語の束に縋りつきながら、彼女の名前を繰り返す。
それだけでほんのすこし、この忌まわしい体も綺麗なものになるような気がした。
本当はどこまでも醜悪で利己的な、彼女と顔を合わせることすら許されないおぞましい生き物なのに。
物語の束をかき集めて、硬い寝台に体を投げ出した。
己の醜さを思い知ったせいか、はたまたロザリーと顔を合わせたせいか、思考は自然と忌まわしい過去に誘われていく。
思い出したくもないのに、忘れられない、呪われて育った魔女の子の物語だ。
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