第12話
湯あみを終え、夜もすっかり更けたころ。
私は寝室の窓をわずかに開けて、夜風に当たっていた。このところはすっかり秋めいてきたからか、風はすこし冷たい。
マリーにはすでに挨拶を済ませ、下がってもらった。今は、レイヴェルを待っているところだ。
疲労で頭は働かないはずなのに、どうしてか妙に冷静な気持ちだった。
やり直し前のことはすべて「悪い夢」になってしまったのだから、災厄の真相を完全に証明する手立てはないだろうけれど、私はほとんど確信していた。あとは、レイヴェルにただひと言尋ねてみるだけだ。
「失礼いたします」
空色の声が背後から投げかけられ、ゆっくりと顔を上げる。こつこつと靴音を立てながら、静かな足取りで彼が近づいてくるのがわかった。
「……夜風は冷たいですよ。あんな怪我をなさったばかりなのに、お体に障ります」
隣に並び立った彼が気遣わしげな視線を投げかけてくる。
私はゆるゆると首を横に振って、瞬く銀の星たちを眺めた。
「今日は、風にあたりたい気分なの。あなたも座って」
彼のために椅子を用意しておいたのだ。彼は従うことにしたようで、ゆっくりと腰を下ろした。
「お怪我の具合はいかがですか。痛んだり、血が出たりはしませんか」
「平気よ。もうすこしも痛くないの。レイヴェルのおかげね」
心配性な彼を安心させるように笑いかければ、彼はしばし私の首を観察したあと、小さく口もとを緩めた。そのままどちらからともなく、窓の外を見やる。
「……心地よい風ですね。星も綺麗だ」
「ええ、静かな夜だわ」
互いに口をつぐんで、しばらく夜空を見上げる。
お互いに、伝えたいことの切り口を探しているような、不思議な沈黙だった。
「クロエの……ロザリーのことですが」
結局、先に口を開いたのはレイヴェルだった。
「あれは、俺の妹です。死んだと思っていたのに……こうしてあなたの命を狙っていたなんて。どのように弁明すれば良いのかわかりません。できれば、この手で始末したかった」
表向きには、レイヴェルが魔術師であることも、ロザリーの兄であることも知られていない。彼はただ、人形姫の従者として不届き者を捕らえた功労者という扱いになっていた。
レイヴェルは、大礼拝にもいちども参加したことはないようで、神官たちにはほとんど存在を知られていないらしい。今日までふたりが顔を合わせることがなかったのは、そのためだろう。
「あなたが謝るようなことではないわ。あなたのおかげで、大事にならずに済んだのだもの」
「コーデリアさまに血を流させてしまった。間に合ったとは言いがたい」
「あのくらい、なんてことないのよ。……本当に、なんてことないの」
澄み切った夜風が吹き抜ける。ゆっくりとまぶたを閉じて、その冷たさを味わった。
「ひとつお伺いしても?」
「ええ」
まぶたを閉じたまま受け答えれば、目が見えなかったころのやり取りを思い出した。
そう遠い日の記憶ではないのに、今となってはもう、懐かしいとすら感じる。
「……どうして、禁術の代償を尋ねたのです? 何か気になることでもありましたか」
頭の中いっぱいに、薄水色が広がる。その美しさに頬を緩ませて、ほうっと息をついた。
「そうね……」
夜風が髪を撫でる。夜の匂いを感じながら、私は彼にとって唐突に思えるであろう問いかけを切り出した。
「ねえ、レイヴェル、たとえばね……今日みたいに、私がひどく痛めつけられて、死の淵をさまようような事態になったとしたら……あなたは大勢のひとを――この国の民を犠牲にしてでも、禁術で私の命を助けるのかしら」
「……ずいぶん、物騒なお話ですね」
戸惑うようなレイヴェルの声に、私はゆっくりとまぶたを開いた。
そのまままっすぐに、彼の瞳を射抜く。私の意図を測りかねるように、彼の瞳は揺らいでいた。
「正直に、答えてほしいの」
冗談で聞いているわけではないのだ、と言い聞かせるように彼を見つめる。
やがて彼はふっと神妙な面持ちになったかと思うと、ゆっくりと視線を伏せた。
「それはつまり……あなたが生贄として使命を果たす、という意味合いではなく、今日のような不慮の事態であなたの命が危険にさらされた場合を想定しているのでしょうか」
「そういうことになるわね」
外の風の音が聞こえるほどの沈黙に包まれる。
普段は心地よいその静けさが、今ばかりは妙に重苦しく感じられた。
「どうでしょうね……俺は、あなたの『幸福な結末』を――清らかなまま生贄となって生を終えるというあなたの願いを尊重したい。民を守りたいという、あなたの慈しみ深い心も好きです。そういう意味では、この国の民を犠牲にしてまであなたを呼び戻すのは、矛盾している行動のように思えます」
レイヴェルはどこか弱々しく笑いながら、自らの手のひらに視線を落とした。
「しかし……いざ不慮の事態であなたを失う場面に遭遇してしまったら、そうも言っていられないのでしょうね。理性など打ち捨てて、ただ、あなたを救うためだけに禁術に手を出すかもしれない。いや……俺はきっとそうするのでしょう」
まるで許されないことを口にするかのように、彼は肩をすくめた。
深紫の瞳は昏く虚ろで、焼けつくような葛藤が伝わってくる。
「それもこれも、あなたの物語を終わらせたくないと、浅ましく願っているせいです。本当は生贄にだって、なってほしくない。でも、あなたが生贄として女神に身を捧げ、人形姫の使命を果たすことを最上の幸福とするのなら……俺はその結末を見届けようと決めたんです。あなたが望んで思い描く結末ならば、それがいちばん美しい物語の終わり方ですから」
――そうですか、生贄となることが、コーデリアさまにとっての『幸福な結末』なのですね。
幼いころ、彼が確かめるように口にしたあの言葉が蘇る。何気ない会話だと考えていたが、私が定義した「幸福な結末」は、彼の心に色濃く焼きついていたらしい。
人形姫としての使命が、彼を、こんなにも悩ませていたなんてすこしも知らなかった。
「俺があなたの命を諦めるのは、あなたが人形姫の使命をまっとうするために生贄となる、ただその一点に限ります。だから、不慮の事態であなたが死に向かえば、どんな手を使ってでも引き止めずにはいられないでしょう。俺は、そこまで理性的な生き物ではありませんので」
彼は私の手に指先を絡めると、言葉に不釣り合いなほど穏やかな、甘い笑みを見せた。
「正直に言って、民の命や安寧などどうでもいいのです。あなたと比べるまでもない。あなたの他に何が壊れようが、誰が死のうが、まったく関係ありません」
「っ……」
指先に、歪んだ熱のこもったくちづけが落とされる。
ぞわり、と背筋を寒気が抜けていった。
「これで、コーデリアさまの知りたいことの答えになっているでしょうか?」
彼はにこりと穏やかに笑って、わずかに小首を傾げた。
可笑しくもないのに、勝手に口もとが歪む。
これこそが、私の確かめたかった答えだった。
「……ええ、充分よ」
ようやく災厄の真相にたどり着いた気がして、全身から力が抜ける。
どうしようもないやるせなさと、深い後悔に苛まれた。じわりと両目に涙の膜が張る。
彼は、私のことを裏切ってなどいなかった。
ずっとずっと、私のことだけを考えてくれていたのだ。
……災厄の夜、レイヴェルは禁術を使って、私の命を救ってくれたのね。その代償として、民が犠牲になったのね。
彼は怖いくらいに、私に忠実だった。王族を殺してなどいなかった。
むしろ、私を救ってくれた恩人だったのだ。
王族に恨みを持つロザリーによって、お母さまとお兄さまが殺され、そして私もまた、彼女の手に落ち、死の淵をさまよっていた。
あのままであれば、私もすぐにお母さまとお兄さまと同じ道を辿っていただろう。
でも、レイヴェルが救ってくれた。死を待つだけの私の命を、無理矢理すくい上げたのだ。
禁術に手を出し、王都で生きる幾千もの命を代償にして。
許されることではない。人形姫のために民を犠牲にしていては、本末転倒だ。
……でもこれは、彼なりの信念から導き出された結末だったのね。
彼が私の命を諦める唯一の条件は、私が生贄となる場合だけ。
それ以外で私が死に向かうことは、彼にとって許されることではなかったのだ。私以外のすべてを犠牲にすることを厭わないくらいには、彼は私を欲してくれているのだろう。
どうかしている。この世には、私の命よりも尊重すべきものが山ほどあるというのに。
その盲目さを、病的な執着を、恐ろしく思う。彼は世の中の常識だとか倫理観だとか、そういうものからかけ離れ過ぎている。
けれど、それほどまでに彼の世界は私一色で染まっているのかと思うと、胸をかきむしられるような気持ちになるのも確かだった。
嫌いになど、なれるはずがない。突き放せるわけがない。
……私が、あの災厄の引き金を引いたのね。
レイヴェルが破滅の魔術師ならば、私だって破滅の人形姫だ。
彼の狂気の元凶は、他ならぬ私だったのだから。
それなのに、私がどれだけレイヴェルを恐れても、責め立てても、彼は私のそばにいた。言い訳の余地があったのに、決して本当のことを明かさなかった。
それはきっと、私がこうして自責の念と罪の意識に苛まれることを望んでいなかったからなのだろう。彼は文字通り、すべてをひとりで背負っていたのだ。
ただただ、悔やまれてならない。知らなかったこととはいえ、私のために過酷な選択をしたレイヴェルを、あんなふうに糾弾してしまったことが。
……あなたは、どんな気持ちで私の非難を受けとめていたのかしら。どんな思いで、塞ぎ込む私のそばにいたのかしら。
「ごめんなさい、ごめんなさい、レイヴェル……っ。ごめんなさいっ……」
泣きじゃくりながら、隣にいる彼に縋りつく。
私が思っている以上に私は、彼の心を縛りつけていたらしい。
悲しくて、やるせなくて、消えてしまいたくなる。大粒の涙が、次から次へとこぼれ落ちた。
「コーデリアさま……!? いったい、どうさなったのです? 何を謝っておられるのですか」
レイヴェルが、おそるおそるといった様子で私の肩に手を添え、そっと顔を上げさせた。心から心配するような彼の表情に、余計に涙があふれてしまう。
……どうして、私のためにここまでしてくれるの。
私は、彼に何もできていないのに。救われてばかりいるただの小娘なのに。
レイヴェルは困ったように私を見守っていたが、やがて、ぎこちない手つきで私を抱きしめた。そうしてなだめるように髪を撫でてくれる。
「俺にはあなたの涙の理由を察することはできませんが……あなたが泣くようなことは、何もないのですよ。あなたを苦しめるものも、悲しませるものも、俺がすべて壊して差し上げます。だから、おひとりで背負わないでください」
優しい言葉のひとつひとつが、今の私には毒薬のようだった。
彼に触れられた箇所から染み込んで、全身を焼いていく。ただただ彼の腕の中で嗚咽を漏らし、縋りつくことしかできない。
「……リア、俺にもあなたの涙を半分、わけてくださいませんか」
私を抱きしめる腕に力を込めながら、彼はそっと私の頭にくちづけた。
そのまま額に、そして目尻に移動して、涙を拭い去るように何度も唇が触れる。
柔らかな感触は、まるで火傷の跡を残すように、私に鮮烈な熱を刻みつけていった。
「レイヴェル……レイヴェル、ごめんなさい……私、あなたのこと、すこしもわかっていなかったの」
「いったいどうなさったのですか。今夜のリアは、まるで小さな子どものようですね」
レイヴェルは私の頭に手を当てたまま、小さく微笑んで私と視線を絡めた。
どこまでも私を甘やかすような柔らかな瞳に、目頭が熱くなる。
彼の仕草ひとつひとつから、鮮やかな想いが流れ込んでくるようだった。
「こうして一緒にいるのですから、怖いことなど何もありませんよ。涙も苦しいこともぜんぶ、ふたりで半分こにしましょう」
ふわりと引き寄せられ、彼の胸に頭を預ける。彼の手は休むことなく、私の髪を撫でていた。
レイヴェルの優しい香りに包まれて、またすこし泣いてしまった。
なにもかもを、彼とわかちあいたいと思う。
喜びも悲しみも、陽だまりも星空も、あらゆるものすべてを、彼とわけあいたい。彼と、一緒がいい。
「私は……あなたに何かしてあげられているのかしら。あなたが幸せになれるような、温かくてすてきな何かを、私はわかちあえているのかしら」
私は、彼に救われてばかりだ。
盲目の闇の中でも、あの災厄の夜も、今この瞬間も、彼は私に手を差し伸べてくれる。
それと同じだけのものを、私が返せているとはとても思えない。
「何を馬鹿なことを。あなたに出会わなければ、俺はきっと、およそ人らしい感情と無縁なまま、つまらない人生を送っていたでしょう。俺の世界を揺らがせて、熱を生んだのはあなたです、リア。あなたが、すべての色彩を運んできたんだ」
彼の指が縋るように私の手に絡んだ。互いに頬を緩ませながら、ぎゅっと指を絡めあう。
「それは、私も同じだわ。私の人生でもっとも幸福なできごとは、あなたが私の朗読師になってくれたことよ。……あなたに会えたから、こんな人生でも、生まれてきてよかったって思えたの。物語が美しいことを、忘れずに生きてこられたの」
額をすり合わせ、祈るようにまぶたを閉じる。睫毛の間から、涙が頬を伝っていった。甘い吐息が頬を掠めることすら嬉しくて、目を開けなくても、彼が微笑んでいるのがわかった。
相容れぬはずの人形姫と魔術師が、孤独をわけあうように惹かれあう。互いの心の欠けた部分が、ぴたりとはまるようだった。
私たちは、こうして寄り添いあうために生まれてきたのかもしれない。
「……この先の私の幸福はすべて、あなたにあげるわ、レイヴェル。私の感情も、願いも、あなたにぜんぶあげる」
本当は、何もかも彼とわかちあいたい。すべてをわかちあって、ずっと一緒に生きていきたい。
でももう、私には時間が残されていないのだ。
私は人形姫。次の初夏、半年後には、女神さまの御許へ還る定めなのだから。
だから、私に残された幸せは、ぜんぶ彼にあげよう。
私がしてあげられることは、もう、それくらいしかないのだから。
「俺も、すべてあなたに捧げます、リア。だから……そばにいさせてください。このさきもずっと、いつまでも」
生贄となる未来が定まっている私に告げるには、あまりに不穏な言葉だった。
思わず彼の頭を抱き寄せ、ぎゅっと腕の中に閉じ込める。いつも彼がしてくれるように、柔らかな黒髪を撫でながら。
生贄になることは怖くはない。覚悟もとうに決まっているけれど、躊躇いを覚えるとすれば彼に関してだ。
……レイヴェルと、離れたくない。この温もりを、手放したくない。
憂いを帯びた涙が伝う。私の運命を定める、この白銀と緋の色彩を初めて厭わしく思った。
でもきっと、私たちはこの色彩を持っていなければ、触れあうこともできなかったのだろう。
私たちは互いに仲間外れだから、こうして巡り会えたのだ。
もどかしい葛藤を涙に溶かし込みながら、彼の温もりに寄り縋る。
きつく抱きしめあうこの瞬間が、永遠であればよかったのに。
それすら叶わないのなら、暁なんていらない。
未来なんてなくていいから、ただふたりきりでこの星の夜に、閉じ込められていたかった。
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