第10話

 ずきずきと頭を苛んでいた痛みが、ぴたりと止んだ。


 ……こんなに大切なことを、どうして忘れていたの。


 これが、これこそがきっとあの災厄の夜の真実だったのに。


 ……目を覚まさなきゃ。レイヴェルに、会いにいかなくちゃ。


 揺らぐ意識の中で必死に抗う。このままのうのうと眠っているわけにはいかない。


 レイヴェルに、伝えなければならないことが山ほどあるのに。


 その瞬間、不意に首もとの圧迫感が消え、肩を揺さぶられるのがわかった。


 泥の中から這い出るような心地で、ゆっくりと覚醒する。


「――リアさま! コーデリアさま‼︎」


 薄水色の空が広がる。それだけで、彼が来てくれたのだと悟った。


 あの、災厄の夜と同じように。


 はっとまぶたを開けば、私はレイヴェルに抱きかかえられていた。


 クロエに結ばれた首もとのリボンは解かれており、ずいぶん楽に息ができる。


 口の中は血の味がしたが、出血は止まっているようで、先ほどのように血があふれ出すようなことはなかった。


「……レイ、ヴェル」


「よかった……。痛いところはありませんか? 息はできますか?」


 クロエに殴られた頬は痛むし、首筋もひりひりと熱を帯びていたが、問題ない。きっとレイヴェルが手当をしてくれたのだろう。


 意識がだんだんと覚醒して、なんとか言葉を紡いだ。


「大丈夫……私は大丈夫よ、レイヴェル」


 どうやら私が送った合図は、きちんと彼に伝わったようだ。


 だが、災厄の夜の記憶が後を引いて、ほっとするような気持ちは湧き起こらない。うまく、表情が作れなかった。


 レイヴェルはそれを私が怯えているせいだと考えたのか、優しく包み込むような仕草で私を抱きしめた。


「遅くなって申し訳ありません。手遅れになる前で本当によかった。……もう何も、怖いことはありませんよ」


 レイヴェルの手に導かれるようにして、彼の胸に頭を預けた。彼の上着の中にすっぽりと包まれると、じんわりとした温もりが伝わってくる。黒手袋をつけた彼の手が、私の頬や首筋をいたわるようにさすった。


 あの夜も、彼はきっとこうして私の傷に触れたのだ。


「はっ……ちょっと見ない間にずいぶんな優男になったじゃない。レイヴェル」


 私たちのそばで、ふらりと人影が立ち上がる。


 レイヴェルは彼女を見やることもなく、指先で何度か私の髪を梳いた。


「……お前こそ、生きているとは思わなかった。改心して神官になった、というわけでもなさそうだな」


 レイヴェルは冷え切った声で受け答えると、私を礼拝堂の座席に横たわらせ、不穏な光を宿した瞳で笑った。


「レイヴェル……」


 何を、する気なのだろう。私の不安を悟ったのか、レイヴェルはなだめるように何度か私の頬を撫でる。


「少々ここでお待ちください。すぐにあの不届き者を黙らせて参ります」


 それだけ告げて、彼はクロエに相対した。


 レイヴェルに攻撃されたのか、隙なく着こなしていたクロエの神官服はすでにぼろぼろだ。ベールはどこかに打ち捨てたようで、彼女の素顔がはっきりと見える。


 艶のある真っ黒な長い髪に、宝石のような深紫の瞳。冷たささえ思わせるような美しい顔立ちは、やっぱりレイヴェルにどことなく似ていた。


 ……そういえば、レイヴェルには妹さんがいたのだっけ。


 すでに亡くなっていると聞いていたが、何かの手違いがあったのかもしれない。彼の妹らしき姿をしたクロエは確かに、生きてここにいるのだから。


 だが、残念ながらふたりの間に漂う空気は、再会を祝福するような穏やかなものではなかった。むしろ、針で肌を刺すような、ぴりぴりとした殺気に満ちている。


「再会して数秒で妹を吹き飛ばすなんて、ずいぶん優しいお兄さまだこと」


「無駄口を叩くな。コーデリアさまの御前だぞ」


 睨みあうような緊迫感が漂っている。一触即発の状況の中、互いに最初の一手を見極めているようだ。


「コーデリアさま、ねえ? 祈ることしか知らないただの小娘じゃない」


「黙れ、コーデリアさまを侮辱するな」


「何、その女に入れ込んでるわけ? やめなよ、裏切り者の末裔だよ?」


「何を訳のわからないことを言っている? 妄想もたいがいにしろ」


「っ妄想なんかじゃないわ!」


 かろうじて穏やかだったクロエの様子が豹変する。レイヴェルとそっくりな深紫の瞳に、怪しげな光が揺らめいていた。


「妄想なんかじゃ、ないわ。あたしが……あたしたちこそが愛し子の末裔よ。あたしたちが、女王さまなの」


 何かに取り憑かれたように、クロエは高笑いした。


 ぞっとするほど美しい笑みに似合わず、その瞳はどこまでも虚ろだ。尋常ではない彼女の様子に、思わず息を呑む。


「殺さなきゃ……殺して、みんな殺して、正しい愛し子の血を……母さんの血を受け継いだあたしが、女王になるのよ。だって、それがあるべき道でしょう? 忌々しいセレスティアの血族なんて、生かしておいちゃいけないのよ!」


 クロエは笑うように叫ぶと、神官服から色とりどりのリボンを取り出してばら撒いた。


 それはまるで、蛇のように床を這って私の方へ向かってくる。


 そこへレイヴェルが私を庇うように立ち塞がると、黒手袋をつけた手をかざした。


 瞬く間にあたりの床から炎が立ち上り、リボンは灰に変わる。炎はすぐに立ち消え、わずかに煤けたような痕だけが残った。淡い紫の光の名残りがあるから、魔術を使ったのだろう。


「……紋様を描いていないのにどうして!」


「コーデリアさまの立ち入る場所には、すべて細工してある」


「離宮中に紋様を描いてあるってこと? 気持ち悪い男! ぞっとするわ‼︎」


「なんとでも言ってくれ」


 その間に、レイヴェルはクロエとの距離をぐっと縮めていた。クロエは長い紫のリボンを取り出して、レイヴェルの首にかけようとしている。先ほど私の首にかけていたものと同じ、魔術が込められたリボンだ。


「レイヴェル!」


 どこかぼんやりとした意識のままでも、レイヴェルに危険が迫っていると思えば声を上げずにいられなかった。


 だが、それは杞憂だったようだ。レイヴェルもまたクロエの手首に栞紐のようなものを絡めていたのだ。彼がそれを軽く巻きつけた途端、クロエの白い肌から真っ赤な血が噴き出す。


「っ……!」


 よほどの激痛だったのだろう。クロエはレイヴェルの首にリボンをかけたまま、反射的に手を離した。


 レイヴェルはその隙を見逃さなかった。彼女の足を払い、大理石の床の上に勢いよく押し倒したのだ。


 すべては、ほんの一瞬のことだった。


 レイヴェルはクロエに馬乗りになると、栞紐で両手を縛り上げた。


 魔術がかかっているのか、紐が触れている部分から、ぷつり、と赤い血が浮き出てくる。


 クロエは抵抗をやめ、血のように赤い唇を歪めてレイヴェルに笑いかけた。


「やめようよ、兄さん、こんなこと。あたしたち、ふたりきりの兄妹じゃない」


 彼の腕に頬を擦り寄せるクロエは、思わず目を逸らしたくなるほど妖艶だった。


「ねえ、あたしと組んでよ、兄さん。そうしたら、この国の秘密を教えてあげる。あんたたちが縋っている人形姫の本当の姿、知りたくない?」


「人形姫の……?」


 レイヴェルは怪訝そうに眉を顰めていたが、かなり動揺しているようだった。彼を誘惑しようとするクロエはまさに、魔女そのものだ。


「……わざわざあなたから人形姫について教えてもらわなくとも、私は充分わかっているわ」


 私は未だおぼつかない体を無理やり立たせ、吸い寄せられるようにクロエの前に歩み寄った。


 いつでも厳しく清廉な佇まいをしていたクロエは、ぼろぼろだ。射殺さんばかりの鋭い視線で私を睨みつけている。私もまた、憎悪の限りを込めて彼女の瞳を射抜いた。 


「……クロエ、あなただったのね。あなたが、私たちを――王族を殺したのね」


 囁くように呟いたその言葉は、誰にも届くことはなかった。災厄のことなんて誰ひとり知らないのだから、これは私にしかわかりようがない独り言だ。


 あの日、災厄の夜に、お母さまやお兄さまを殺したのはクロエだった。


 私にしたことと同じくらいにひどいことを、あのふたりにもしたのだろう。


「……あの壁の向こうには、何があるの? 私たちを殺すための準備でもしているのかしら」


 血の臭いとおぞましい痛みを思い出してしまい、気分が悪かった。吐き気を堪えていたせいか、問いかけた私の声は震えていて、それは皮肉げな笑い声のようにも聞こえる。


 ……許さない。あんなふうに私たちの命を弄んだなんて。


 誰かに対して一切の憐れみを持ちたくないと思ったのは、これが初めてのことだ。


 クロエは、私を見ることもなく唇を固く結んでいる。どうやら答える気はないようだ。


 ……さっさと騎士団に引き渡したほうがいいかしら。


 深い溜息をついて彼女の横顔を見下ろす。どうにも気が収まらず、苛立ちに近い感情を覚えていた。


 こんなに胸がざわつくのも、生まれて初めてのことだ。どうしていいかわからない。


 それを受けてなのか、レイヴェルがわずかに身じろぎする。


「聞こえなかったか? コーデリアさまのご下問だ。答えろ」


 レイヴェルはそれだけ告げて、さも当然と言わんばかりにクロエの手首に巻きつけていた栞紐をきつく締めた。


 その途端、紐はいとも簡単に皮膚を突き破り、柔らかな肉をゆっくりと切り開き始める。


 憎い相手とはいえ、あまりに残酷な光景を目の前にして、呼吸も忘れて身をこわばらせてしまった。


「っあああああああ‼︎」


 彼女の絶叫に思わず眉を顰めながらも、かわいそう、とは思わなかった。思いたくなかった。


 ……あなたは、あの災厄の夜に、これよりひどいことを私たちにしたのでしょう。


 クロエを心底忌々しく思いながら、彼女が悶え苦しむ姿を眺めた。


 もっと痛がればいい。


「悪い夢」の中で私たちを傷つけた罪を、思い知ればいい。


 私たち王族だけじゃない。ぼろぼろになった私を見てしまったレイヴェルもまた、この上なく傷ついたはずなのだから。レイヴェルが悲しむ原因を作った目の前の彼女を、許そうという気持ちにはとてもなれない。


 暗い気持ちに満たされたまま、暫しの間クロエを見下ろしていた。長い黒髪を振り乱して叫ぶ様はなかなかにすさまじい。


「……やだ、いや! 痛いの! 痛いの、母さん……母さん、母さん!」


 レイヴェルと同じ深紫の瞳から涙をあふれさせ、彼女は母親を呼んでいた。


 レイヴェルの話では、ふたりの母は既にこの世にいないのではなかっただろうか。


 亡き母に縋り、だんだんと憔悴していく彼女の姿を前に、思わず視線を逸らしてしまう。


 そこで初めて、白い床の上に血溜まりが広がっていることに気がついた。


 下手をすれば、死んでしまいそうな血の量だ。


 きっと、あの夜の私もこのくらい血を流していたのだろう。クロエにも、死神の足音が聞こえているかもしれない。


 ……私、何をしているのかしら。まだ犯してもいない罪を、彼女に償わせようとするなんて。


 このやり直しの生は、復讐のために始めたわけではない。


 理不尽に奪われた命が、あの災厄の夜を超えて、幸福に生きていけるようにと願ったのだ。誰かを、傷つけたかったわけではない。


 ぐっとまぶたを閉じて、私は静かにレイヴェルに命じた。


「……もうやめてあげて、レイヴェル」


 拷問と変わらないことを続けていても、クロエと同じところへ落ちるまでだ。


 息をついて、無理やり気持ちを切り替える。


 レイヴェルはすぐに手を休めたが、紐はかなり深くまでクロエの手首に食い込んでいるようだった。腱が切れてしまったのか、彼女の長い指はだらりと脱力している。


 クロエは未だに、髪を振り乱して言葉にならない声で叫んでいた。その度に栞紐が結びつけられた手首から血があふれ、生々しい赤い肉が覗く。ちらりと見えてしまった白いものは骨なのだろうか。


「ご下問を忘れたか? 叫ぶのをやめて答えなければ骨も断つ」


 レイヴェルの淡々とした警告に、クロエは啜り泣くような声で捲し立てた。


「……そうよ、壁の向こうにあるのは、魔術の材料よ! あんたたちを殺すために準備してたの!」


「いつ実行するつもりだったの?」


「次の初夏……女王在位十年の祝宴会よ! 王族が、揃うから……その夜に……」


「……そう」


 女王在位十年の祝宴会といえば、やり直し前に災厄が起こった夜だ。


 やはり、あの夜、王族を殺したのはクロエで間違いないのだろう。


 その確信を得ると同時に、どうしようもない虚しさに襲われる。


 私はさらにクロエに近づいて、彼女の吐息が感じられるほどすぐそばにしゃがみ込んだ。


 ぴちゃぴちゃと、血を踏みしめる生々しい音が響く。


「コーデリアさま、汚れますのであまりお近づきになりませんよう」


「……もうひとつだけ、聞いてもいいかしら。これは尋問ではなく、魔女であるあなたに尋ねたいの」


 レイヴェルの警告を無視して、私はクロエを見下ろした。両目に涙を浮かべたクロエが、まるで呪い殺さん勢いで私を睨みつける。


「早くして、早く離して! なんでも言うから‼︎」


「死の淵にいる人間を呼び戻すような禁術の代償って、いったい何? ……もしかして、人間の命、だったりするのかしら」


「コーデリアさま……?」


 レイヴェルは脈絡のない質問に動揺しているようだった。


 クロエはそれに構うことなく、泣き叫ぶように即答する。


「ええ、そう、そうよ!」


「それは、たくさんの犠牲が必要なの?」


「すっかり元通りにするなら、国がひとつ消えるんじゃない? 心配しなくても、そんな魔術使うひとなんていないわよ! ……ねえ、もういいでしょ、ねえ!」


「そう……そうなのね」


 ようやく、あの災厄の夜の全貌が明らかになった気がした。あまりのやるせなさに、乾いた笑みが込み上げる。


 ……魔女と呼ばれるべきは、私のほうだわ。


 泣き出したい気持ちでいっぱいなのに、口もとは歪んでいく。血溜まりに浮かんだクロエの長い黒髪が、鮮やかに目に焼きついた。


「早く、早く離して、お願いだから‼︎」


 クロエは、私の言葉などとうに聞いていなかった。私も、彼女の叫びを聞き流していた。


 結局は、そういうことなのだ。私の歩いた後には、おびただしい量の血が流れている。私はただそれに、気づいていなかったというだけで。


 ……女神さま、災厄の原因は、私だったと言うべきなのではありませんか。


 やり場のない感情をぶつけるように、恨みがましい言葉を心の中で吐く。


 祭壇に降り注ぐ光が、今ばかりはどうしようもなく眩しいものに見えてならなかった。

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