第9話

『かわいそうにね、あんたの母さんも兄さんも、みんな死んじゃったわよ? あんたも、羽をもがれた蛾みたいに、のたうち回ってさっさと死ねばいいわ! 裏切り者のお人形さん?』


 そう、これはやり直し前のあの日に浴びせられた言葉。


 私がずっと忘れていた、災厄の夜の記憶。


 あの夜、血の臭いが充満する礼拝堂の中で、彼女の哄笑が響き渡った。


 一方の私は身動きも取れず、ただぐったりと床に横たわっている。確か、祈りの最中に襲われたのだっけ。


 硝子のかけらのような鈍いもので、ぎちぎちとお腹が切り裂かれ、何かが引き摺り出される。全身から脂汗が吹き出して肌を伝い落ちていった。


 身を捩りたいほどの激痛なのに、指先ひとつ動かせない。叫び出すことすらできない。


 もう、まともに息をしているのかどうかすらわからなかった。


 ただ、ぐちゃぐちゃと水っぽい音と甲高い笑い声が響いている。痛い、という感覚が懐かしく思えるほど熱い。それなのに、体は凍えそうなほどに寒くて、冷たい獣にお腹から食い散らかされているような心地だった。


 目が、見えなくてよかった。


 そう思ったのは、これが初めてかもしれない。きっと私は、見るに耐えない姿をしているだろう。


 激烈な痛みに耐えかね気を失ってしまいそうになっても、それすら許されない。


 彼女が鼻歌混じりに私を壊していく。逃げ出したくてたまらないのに、私はただ、震えながら耐え忍ぶことしかできなかった。


 つう、と涙が溢れて、床にくっついた頬を濡らしていく。


 ……レイヴェル、レイヴェル、痛いの、痛くて熱いの。


 空が遠い。美しく澄み渡る、優しい薄水の空が見えない。私の、私だけの大切な空が。


 彼の声を、記憶の中から必死にかき集める。


 すでに崩れ始めている精神の均衡を、彼に留めてほしかった。


 ……レイヴェル、レイヴェル、レイヴェル。お話をして。私に、声を聴かせて。


 その場にいない彼に、何度も何度も懇願する。


 ……最期に、あなたの声が聴きたいの。


 いつもそうだ。私は彼の朗読なしには、ぐっすり眠ることすらできない。彼がいなければ、夜の静寂は永遠に訪れない。


 でもこれは、叶わない願いなのだとわかっていた。


 私はきっと、このままひとりぼっちで死ぬのだ。


 生贄にもなれず、訳もわからないままに殺されてしまう。


 使命を果たせなかった私に、生まれてきた意味などなかったような気がして、昏く、心に翳りが差していった。


『ちょっと、待ってよ、何であんたが……?』


 クロエの戸惑うような声が聞こえたのは、そんなときだ。


『馬鹿みたい。あんたたちが縋っている人形姫なんて、本当は――』


 言い争うような声が、断片的に聞こえてくる。時折意識が飛んでは、痛みに呼び戻されることを繰り返していた。


『ちょっと待って。やめて! やめて、兄さんっ――』


 まもなくして彼女の断末魔のような叫び声が響き渡り、どさり、と重たいものが床に倒れ込む。


『コーデリアさま……?』


 空色の声が近づく。


 ずっと求めていた、恋慕うひとの声だった。


 ……レイヴェル、来て、くれたのね。


 大きな手が背中に添えられ、そっと抱き起こされた。


 彼に触れられているだけで、怖いことも痛いことも、雪のように溶けていく気がする。


 最後に会えた。それだけでもういい。


 彼に何か言葉を残したかったが、悲しいことに、唇がわずかに震えるばかりで声が出ない。それどころか、指先すらも動かせなかった。


『コー、デリア、さま……? コーデリアさま……?』


 放心したように、彼は私の名を繰り返した。


 空色の声が、礼拝堂に虚しく反響する。彼の声は確かに届いているけれど、やっぱり答えられなかった。


 ……ごめんなさい、レイヴェル。あなたに、伝えなければならない言葉はたくさんあったのに。


 そのまま何度か彼に頬を撫でられているうちに、どんどんと意識が曖昧になっていく。


 涙の名残が頬を伝い、まどろむような心地よさに、体が溶けていくような気がした。


 やがて、手のひらにそっとくちづけが落とされる。


 これが別れの挨拶なのかもしれないと思ったが、彼は虚ろな声音でぽつりと呟いた。


『……薔薇の匂いがしない。ねえどうして、あなたからこんなにたくさん血が出ているんですか』


 それはまるで、死の概念を知らない無垢な子どものような問いかけだった。


 不穏な気配が、ゆっくりと彼の空色を翳らせていく。


『おかしいな……あなたは、こんな死に方をしていいひとではないのに。そうでしょう? コーデリアさま。あなたが望んだ終わり方以外は……許されるはずがないんだ』


 今にも消えようとしている脈に触れ、彼は震える声で譫言のように繰り返す。


『そうだ、こんな結末は許されない……俺が許さない』


 レイヴェルは震える声でくすくすと笑い出したかと思うと、縋りつくようにいっそう強く私を抱きしめた。


 彼の指が、何度も何度も慈しむように私の頭を撫でる。


 こつり、と額と額が重なり、乾いた笑い声の混じった吐息をすぐそばで感じた。


 ぽたぽたと、頬に生ぬるい雨が降る。それは、私が流した涙とよく似た熱を帯びていた。


『ああ、そうか……俺は、このために魔術師に生まれてきたんだなあ』


 何かが吹っ切れたような晴れやかな声で、彼は笑った。


 そのとき私は確かに、狂気が彼を飲み込んでいく音を聞いたのだ。


『……待っていてくださいね、コーデリアさま。今、いつものように綺麗にして差し上げますから。痛いことも怖いこともぜんぶ、俺がなくして差し上げます。俺は……あなたの物語をこんな風に終わらせたりしない』


 泣きながら笑う彼は、たぶん、もうどこかおかしかった。


 一瞬で、彼の理性は崩れ落ちてしまったのだ。


 誰に言われずとも、私のせいなのだということはわかっている。


 ……駄目、レイヴェル。私のことはもう諦めて……!


 何をするつもりなのかわからなかったけれど、彼を、止めなければと思う。死の間際でむき出しになった本能が、不穏なものを感じ取ったのかもしれない。


 けれど、その意思とは裏腹に、抗いがたい睡魔に襲われてしまった。


『コーデリアさま、すこしだけ、夢の中で待っていてくださいね。目覚めたらぜんぶ、ぜんぶ元通りです。あなたの美しい物語は、まだ終わらない』


 彼は笑いながら、私の手のひらにくちづけを落とした。


『暫しの間おやすみなさい。……かわいいかわいい、俺のコーデリアさま』

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