雨の夜に死ねるなら、それでいいと思っていた

夏越リイユ

序章

病む花

 窓の外から聞こえてくるのは、細い雨の音だ。

 深夜と呼べる時刻を過ぎてから降り出した雨は、朝に流れていた天気予報をなぞりながら、窓の外側をしとしとと濡らしている。


 鍵はかけた。

 玄関も、窓も、すべて。


 手紙と一緒に投函されていた木の板――絵馬に触れる。そこには、私とあの人の名前が、それぞれ左右に並んで刻まれている。

 手紙に記されていた通り、花も用意した。近くでというのは気が引け、七駅先の、過去に一度も立ち寄ったことのない小さな花屋で購入した。鮮やかに花開いた、季節外れの向日葵だ。

 花瓶代わりにしていたグラスから、一輪だけのそれを抜き取る。絵馬とともに枕元へ置かなければ。茎の水気を拭き取り、私はそれを枕の隣にそっと横たえた。


 つまらない喧嘩を経て別れるに至った、大学時代の私の恋人。その後、彼は車の事故に巻き込まれて他界してしまった。しとしとと雨の降りしきる夜のできごとだった。

 葬儀に出席したか、明確には記憶に残っていない。その頃には、私の精神はとうに破綻をきたし始めていたからだ。あれ以降、砂を噛むような日々をただ坦々と重ね……だが、それも間もなく終わる。


 私の恋は息絶えた。同時に、この人生も終わったはずだった。

 それなのに、苦い結末を迎えたこの恋を、あの方は「実る」と言いきった。


『この絵馬を枕元に。反対側には自分自身への手向けとして、一輪の花を』


 相手の声を、私が実際に耳にしたのはたった一度だけだ。それでも私は信じることにした。そうでなければ、自力でなんてとても立っていられなかったから。

 私に救いの手を差し伸べてくれたあの方は、きっとこの街に、あるいはこの街の近くに住んでいる。病みに病み、世界に見放されたひとりぼっちの私の、唯一の救世主……でも。


 考えることをやめ、私はベッドに潜り込んだ。枕元の絵馬と花を落としてしまわないよう、枕の中央へ慎重に頭を置く。


 間もなく私はいなくなる。

 自ら向かうのだ。会いたいと願いに願った、大切な恋人の傍へ。


 深く被った掛布の端を握りながら、ぽたりとひと粒涙が零れ落ちる。

 向日葵の鮮やかな花びらを目に焼きつけた後、私は涙に濡れた瞼を静かに下ろした。

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