後編
——「ひろくん、ひろくん起きて。もう朝だよ」
——あれ、そうだ、日本に帰ってきてたんだった。
——「今日もよく眠れてたね。朝ごはん食べる?」
みかるはにっこりと笑って宏愛にキスをした。外からは燦々と陽の光が部屋の中に差し込み、お味噌汁の匂いがしている。久しぶりにぐっすりと眠れた気がした。やはりドイツでの生活はストレスが多いのか。みかるが隣にいるからなのか。宏愛はキッチンに戻っていくみかるの腕を引っ張って抱きしめた。
「愛してるよ」
「ふふ。何今の。本当に?」
ベッドで寝転がる宏愛の腕の中には雪がいた。あたりは薄暗い。アラームの音が遠くの方で鳴っている気がした。
「宏愛さん、すごくぐっすり気持ちよさそうに眠ってた。いい夢でも見てたんですか?」
雪はくすくすと笑いながら宏愛に話しかけた。ベッドの中で、二人は裸でしっかりと抱き合っている。
「あれ……ここ……日本……だよな……」
「何いってるんですか。ずっとドイツでしょ。宏愛さん、日本に帰るのやめるっていってたじゃないですか」
先程のが夢だというのか。いやそんな、あんなリアルな夢があってたまるか。それに、日本へ帰るのをやめたって。宏愛は混乱していたが、少しずつ思い出してきた。仕事帰りに雪の演奏会へ行った後、なんとなく雪を部屋に呼んだ。いや、これは初めてのことではない。こういう関係になってから、もう随分と経っている。雪と過ごすために日本帰国も取りやめて、みかると大喧嘩になった。どこからが夢で、どこからが現実なのか、いまだに宏愛は混乱している。
「電話しなきゃ……」
「誰に?」
雪の言葉を振り払って、トイレに駆け込んだ宏愛は、みかるに電話をした。ずっと発信音が鳴っているが出ない。宏愛は、諦めるように携帯を置いて、寝室に戻った。
「雪」
「?」
雪は目を丸くして、いまだにベッドの中から宏愛を見つめている。
「大好きだよ」
宏愛は雪を抱きしめた。雪も嬉しそうに抱きしめ返した。
「宏愛さん、嬉しいけどもう起きよう。今日は会社で大事な仕事があるって言っていたじゃないですか、昨日随分と悩んでいたようだけど、大丈夫ですか?」
「え?」
うっすらと記憶にある。仕事のミス。悪夢のような出来事だったが、どうやら悪夢ではなく現実だったようだ。
「そうだね、もう行かないと」
「瀬崎さん! 大丈夫ですか!?」
「え。ああ……昨日のことね……すっかり忘れてて」
「え、忘れてた……? 本当に言ってます?」
宏愛にとっては、とても不思議なことだった。今考えてみても、今日の朝は日本のみかるの部屋で目覚めたような気がしてならない。昨日会社で起こった出来事の方が、夢の中のようだ。
「データ……全部消えたんだよね……」
「そうですよ……これ全部打ち直しなんて、瀬崎さん一人でできますか……?」
こっち育ちの同僚は、心配しているような雰囲気を出しながらも、明らかに手伝いたくはなさそうだ。それはそうだろう、一度も残業なんてしたことのない奴だ。しかし、彼女に言わせれば、残業をする方が、仕事ができない人間だという認識らしい。それ以前に就業時間を超えてまで働くなんて、悪魔の所業だとでもいうかのような表情で、我々駐在社員の顔を見ている。給料が違うのだから、それも仕方のない事だろう。宏愛は一心不乱にパソコンに向かったが、宏愛の頭の中は、みかると目覚める夢のような朝の事と、雪と過ごす夜の事でいっぱいだった。
今日はとんでもない一日だった。おまけに結局一日で先日の挽回をすることは不可能だった。それでも雪との約束を守らないわけにはいかない。今日は大ホールで雪が学生オーケストラと協奏曲を演奏するようだ。先日の学内オーディションで選ばれたらしく、始終喜んでいた雪の笑顔を忘れることはできない。宏愛は、大して綺麗にラッピングもしてもらえなかったが、大きな花束を買って、大学に向かった。
宏愛には音楽のことはよくわからない。コンサート内容も、この演奏がよかったのか悪かったのかも、特に興味はなかった。ただピンク色のドレスでステージに出てきた雪は、誰よりも美しかった。銀色の横笛がキラキラと光って、雪の演奏に華を添えた。演奏会が終わった後、楽屋に花束を持って会いに行くと、周りの学生が彼氏だ、彼氏だと騒ぎ立て、挙げ句の果てに打ち上げパーティにまで参加する羽目になってしまった。宏愛は、自分には激しく場違いな感じがしたし、ドイツ語ができない宏愛は、終始蚊帳の外に追いやられてしまっているような気がしたが、雪は楽しそうだった。でも、雪に周りの学生たちに自分の彼氏だと、言いふらさないで欲しい気持ちもあったが、それを静止するような語学力が宏愛にはなかったし、そのテンションにもついていけなかった。自分が英語しかできないことを悟ると、英語もほとんど流暢な学生たちは、宏愛の身の上を根掘り葉掘りと聞いてきた。
深夜一時。ようやく打ち上げは解散の方向に向かい、雪とともに自宅へ帰ることになった。
「雪、プレゼントがあるんだ」
宏愛は、この時を待っていたと言わんばかりに、雪に向き合った。雪は少し郊外の小さな学生寮に住んでいて、十人で同じキッチンとバスルームを使っている。お金がなくて、そのような所にしか住めないと言っていたが、今は学校の近くの都心部に住んでいる宏愛の部屋に来る回数が格段と増えた。バイト帰りに夜遅くなることも多い雪に、夜はどうしても自分の部屋に帰ってきて欲しくて、宏愛は部屋の合鍵を渡した。
「俺、雪に出会って、よく眠れるようになった気がする。悪い夢も見なくなったしな。現実では、大変なことも多いけどな」
雪はまたクスッと笑って宏愛に抱きついた。
「私も嬉しい! 宏愛さん、大好き」
雪がいるなら、ここでの生活も悪くないように思えた。駐在が三年に伸びたとしても、きっとやっていけるだろう。
鍵が空いている。雪が来ているのだろうか。
「ただいま。雪?」
「雪って誰?」
ボブカットの茶色い髪に大きな目。明るい雰囲気を醸し出した女性がそこには立っていた。
「みかる……」
「ひろくんのお家、すっごく広いんだね、こんな高層マンションに住んでるなんて、いつものテレビ電話の映像じゃ気が付かなかったよ!」
「どうやって入ったんだよ、それに来るなら一言連絡くらいくれても」
「ビックリさせたかったんだよー。会社の人に話したら入れてくれたよ! ひろくん、年末帰って来れなくて、なんか私たちギクシャクしちゃったでしょ。だから私も謝りたかったし、会いたくて、飛行機乗っちゃった。なに? 私が来て嬉しくないの? それに雪って誰よ」
「会社の人だよ……鍵渡してるから……嬉しいに決まってるだろ」
宏愛はいまだに激しく動揺していた。雪が来たら、どう言い訳をしたら良いのだろうか。それ以前にみかるに雪の存在はバレていないのだろうか。宏愛は、急いでトイレに駆け込んで雪にメッセージを送った。
『悪いけど、今日は立て込んでるからうちに来ないで。ごめんね』
既読はつかない。宏愛の心臓は激しく波打っていた。キッチンの方では懐かしい家庭料理の匂いがしている。
「ここのテラスすっごく素敵! 外でご飯食べようよ!」
「え……あぁ……」
テラスのテーブルには、ヨーロピアンな風合いには合わない日本食の数々が並んだ。日本酒も持ってきていたようだ。宏愛はあまり何も話すことはできなかったが、みかるはずっと食べながら、これまでのことを話していた。しかし、これはいつもの光景であるかのようにも思えた。ただ、みかるがドイツのフランクフルトにある、宏愛の高層マンションのテラスで笑いながら話している事実を、宏愛は夢の中なのではないかと思った。
「お腹いっぱい! ひろくん元気そうでよかった。あれから私たち、電話もほとんどできなかったし、すごく心配してた」
「ああ……仕事が忙しくて……悪かったな、約束してたのに」
「……なんだかひろくん、嬉しくなさそう」
「そんわけないだろ! みかるに会えて嬉しいに決まってるよ」
みかるは少し寂しそうに笑って、宏愛を見つめた。もうすぐイースターの季節になるが、夜になると外はまだ少し肌寒い。
「私、ひろくんの事本当に愛してた」
「……え? 俺も愛してるよ」
「ううん、嘘。あなたが愛しているのは、雪さんでしょ」
突然のことに宏愛は思考が止まった。みかるは雪のことを知っていたのか。
「みかる……雪のこと……気付いてたの……?」
「ううん、さっき会った」
宏愛はさらに思考が止まった。さっき会った……とはどういうことなのだろう。みかるが来たときに雪はこの部屋にいたのだろうか。宏愛は携帯を手に取り、先程のメッセージを開くと、まだ雪の既読はついていない。
「雪と……何か話した? 彼女帰ったの?」
「うーん。特に何も話さなかったよ。今クローゼットの中にいるよ」
テラスから見える寝室の奥に見えるクローゼットの扉の奥から黒く長い髪が少し飛び出ているのが見えた。宏愛は血の気がひいた。
「みかる! 何を……!」
「ひろくん……さようなら……」
突然のことだった。首元を掴まれて一瞬の出来事だった。三十二階のテラスから宏愛の体は宙を舞った。涙を流しているみかるが一瞬見えた。体が異様に軽く感じる。ふわふわと空を飛んでいるような感覚だ。
——「宏愛さん。起きてください」
——雪……?
——「また。こんな格好で寝てたら風邪ひいちゃいますよ」
——雪がクスッと笑って宏愛にキスをした。あたりはコーヒーのいい香りがした。
——「宏愛さん、今日は悪い夢、見ませんでしたか?」
——ああ。そうだ。あんな悪夢を見たのは久しぶりだ。みかるに突き落とされるなんて……あれ……俺……悪夢ワクチン……打ってなかったっけ……
三十二階、九十八メートルの高台から、宏愛の体はものすごい勢いで地面に叩きつけられた。しかし、宏愛の思考はまだわずかながらに動いていた。痛みを感じるなんてものじゃない、身体中から血が流れ、体内の臓器が全てがすでに使い物にならなくなっていることがわかった。あれは、走馬灯だったのか……宏愛の体は全く動かなかったが、こんな夢を前にも見たことがあることを思い出した。これは夢なのか……現実なのか……
——お願いだ……夢だと……夢だと言ってくれ……!!
「なんだこれ」
警察は、宏愛の部屋の引き出しから宏愛のサインが入った書類を見つけた。
Aufklärungsmerkblatt Zur Schutzimpfung gegen Albtraum
(悪夢ワクチンについての重要事項)
……
……
……
*このワクチンは研究段階のものです。稀に、夢と現実の違いがわからなくなることがあります。
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