悪夢ワクチン

森川音湖(もりかわ ねこ)

前編

「ねぇ。起きて、もう朝だよ」

 ——優しい声が耳を撫でるように聞こえる。

「ひろくん、すごくうなされてたよ。大丈夫?」

 ——俺? うなされてたのか。

「ひろくん、はや……く……おき……て…………」

 ——みかる? どうしたんだ? 首が……もげて……

「ひ……ろ……く…………ん」

 ——みかる! みかる!!

 そのままみかるの首はもげ、腕が自然理とは反対の方向にグニャグニャと曲がりながら、しがみつき、ものすごい力で首を絞めていった。

 ——みかる! やめろーーーーー!!




 「うゎーーーー!!」

 全身は汗でびっしょり、部屋は窓から光が差し込んでも薄暗く、今が本当に朝なのかもわからないまま、瀬崎宏愛せざきひろなるは目が覚めた。

 部屋のカーテンを開けても、日は登っているようだが、分厚い雲に覆われて、ギリギリ朝なのだと分かるくらいだ。部屋の中は暖かい。宏愛は汗でびっしょり濡れたTシャツを脱いで、コーヒーメーカーにスイッチを入れてシャワー室に向かった。シャワーから出た頃には、キッチンにコーヒーのいい香りが漂っている。


 ドイツ、フランクフルトに赴任して半年が経った。駐在先として悪いところではないが、婚約者である西野みかるにしのみかるを残して、飛行機で十二時間もかかる地球の裏側へ最低一年間、最悪の場合三年以上駐在しなければならないことは、宏愛にとって大きな決断でもあったのだが、海外赴任は手当がついて給料も上がる。結婚前に貯蓄を増やしておくことは悪いことではなかった。みかるも、日本で宏愛のことを待っていてくれると約束してくれた。フランクフルトは、日本企業がたくさん進出していて、駐在社員も多いし、日本食スーパーやレストランも数えきれない程にある。生活するには全く困らない。おまけに、会社が用意してくれたアパートも広くて綺麗だ。みかるとは毎日テレビ電話をしている。悪い事なんて一つもないように思えた。しかし、十一月ごろから、常に曇天で、どんどんと日が当たる時間は少なくなり、外に出ても全く楽しい気分になれなくなってしまった。仕事も忙しい。週に何度か行きつけの日本人がやっている日本食屋で、晩酌をすることだけが楽しみになった。

 その頃から、宏愛は夢見が悪くなっていってしまった。日本にいた時はこんなことはなかったのだが、ストレスのせいか、環境の変化のせいか、ひどい悪夢にうなされる事は多い。眠りも浅く、朝起きた時に、全く眠った気がしなかった。




「ひろくん、また悪い夢見たの? 大丈夫?」

「ああ、こっちはどんどん日も当たらなくなってきて、朝も夜もそろそろ真っ暗になっていくよ……すでにめちゃくちゃ寒いしな」

「本当に? 体にだけは気をつけてよ。ちゃんと食べるものにも気をつけてね、そっちにはコンビニとか無いんでしょ?」

 駐在して半年も経つというのに、みかるはいつも宏愛の体を心配していた。母親みたいで少し鬱陶しいこともあるが、たまに日本食を段ボールいっぱいに詰めて送ってくるみかるを結婚相手に選んで、自分は心底幸運な男だと宏愛は思っていた。

「大丈夫だよ、救援物資ありがとう。助かるよ」

「全然! ひろくんが喜んでくれて良かった。私も休み取れたらそっちに行けるようにするよ」

「俺も、そろそろちょっとは日本帰りたいんだけど……仕事忙しくて、悪いな」

「ひろくん、会いたいな……」

「俺もだよ」

 みかるとは毎朝十五分テレビ電話をすることが日課となっている。ドイツの就業時間は日本より少し遅めだった。時差は八時間。みかるが会社から帰って、最寄駅についてから家に着くまでの十五分間、宏愛はそれまでの時間に全ての身支度を整え、みかると電話してから家を出る。婚約したての相手と長い間離れて暮らさなければならないなんて、こんな辛いことはない。その毎朝十五分のルーティンだけが、二人の関係を支えているような気がした。宏愛は、みかるのために一年で日本に帰れるように、仕事に一層励んだ。ドイツなんて暗い慣れない地で、一人でみかると離れて仕事をする事は、宏愛にとって思った以上に辛い事であった。




「いらっしゃいませー!」

「こんばんは、今日もカウンターで」

「もちろん。今日は空芯菜くうしんさい入ってますよ」

 いつもいる従業員の若い女性が宏愛をいつものカウンター席に案内した。宏愛は週に二、三度、会社帰りに、この『Kanemoto』で晩酌する事が日課になっている。主人の金本かねもとさんは、フランクフルトに日本食居酒屋を開いてちょうど三十年になるそうだ。東西ドイツが統一されて間もなくの頃から店をやっている。そんなに長く外国人がこの国で小さな店を経営しているなんて、尊敬に値する。

「いらっしゃい! 瀬崎さん! はい、いつもの空芯菜」

 金本は、宏愛が席に着くと同時に、日本食屋にもかかわらず、宏愛が大好きな空芯菜炒めを出した。それと同時に若い従業員の女性がビールをジョッキで持ってきた。空芯菜はある時とない時がある。金本は空芯菜が入ると、宏愛に突き出しのように出すのだ。宏愛にとって、ここだけが日本に帰ったように、ストレスを発散できる場所のような気がした。普段あまり口数の多くない宏愛だが、作業をしながら少しだけ話す金本との時間や、この若い従業員の女性の笑顔や穏やかな声に好感を持っていた。

「ゆきちゃん! 瀬崎さんのグラス空いてるよ、注いであげて!」

 金本は従業員の女性に宏愛にもう一杯ビールを持っていくように命じた。女性が宏愛のところにビールを持ってきたところで、宏愛はなんとなくその女性に話しかけてしまった。

「君、ゆきさんていうんだね」

「はい。天気の雪って書いて雪です」

「今まで、何度も顔を合わせていたのに、自己紹介していなかったね。瀬崎宏愛です」

「……福山雪ふくやまゆきです……」

 雪は突然宏愛が自分に対して、自己紹介をしてきたことに驚いた。雪はなんとなく宏愛に警戒心を覚えた。宏愛も自分でびっくりしていた。こんな自分から行きつけの店の従業員に話しかけることなんてなかったが、雪には少しミステリアスで興味を惹かれる印象があって、いつもなんとなく雪のことが気になっていた。今日は自然と話しかけてしまったのだ。

「雪さんは、何年ぐらいドイツにいるの?」

「もう五年になります。私ここはアルバイトで来ていて、普段は音楽の学生なんです」

「音楽? すごいドイツっぽいね。何をやっているの?」

「フルートです」

 フルートとは、なんとも雪の印象にピッタリ似合った楽器だと宏愛は思った。雪はマスク越しに笑った。金本も、いつもおとなしい雪が宏愛と話が弾んでいることに驚いた。

「瀬崎さん! 雪ちゃんに手出しちゃダメだよぉー」

 そう言いながらも、金本は二人が話している様子を、微笑ましく見守っていた。


 それから宏愛と雪の距離が近くなるのに、時間はかからなかった。店に行けば雪がいることがほとんどだし、何度か雪の演奏会にも招待された。




「はっ……」

 本当に死んだかと思った。流石に声も出ないほどリアルな夢を見ていたようだ。屋上から落っこちて死ぬ夢。おまけに地面に激突している。普通激突する前には目が覚めるだろう、と自分でツッコミを入れたい気持ちになった。ものすごい痛みを感じたが、自分はベッドの上から落っこちてもいない。背中は無事のようだ。宏愛は手で顔全体を覆ってため息をついた。朝七時。外は真っ暗だ。ここのところ毎日のように悪夢を見る。そろそろ少し日本に帰ったほうが良いのだろうか。仕事もキツくなってきている。年末の休暇まであと少し。クリスマス前には仕事が終わるはずだ。その、あと何日かが、宏愛にとってはとてつもなく長い時間に思えて、もう一度ベッドの上で大きくため息をついた。自分は仕事をこんなに嫌がる人間ではなかったはずだ。何が自分をそうさせているのか、全く分からなかった。環境の変化はこんなにも人に影響を与えるものなのだろうか。


「瀬崎さん、大丈夫ですか? 顔色すごく悪いですよ?」

「ああ、すみません。ちょっと疲れているみたいで」

 現地採用の同僚は、日本人だが、こちらで育ったようで、ドイツ語も英語も母国語のようにペラペラだ。両親は日本人なので、日本語ももちろん母国語のようだ。

「お疲れなら、お休み取らないと。ドイツは法律で有給取らないといけないんですよ?」

「そうですよね……年末は日本に帰ろうかなと思っていて……」

「体調が悪ければ、ハウスアルツトに相談しないと」

「なんですか? ハウスアルツトって……?」

「瀬崎さん! ドイツでハウスアルツトを持つことは大事な事ですよ!」

 ドイツではまずなんでもハウスアルツトに相談する。直訳すると、家庭医という事なのだが、皮膚科や整形外科、眼科などの専門医はこのハウスアルツトの紹介状がないと予約すら取れない。ハウスアルツトにまず、自分の体の不調を相談し、ハウスアルツトが処方できる薬で事足りるならば、それでよし。専門医の受診が必要と判断した場合は、その専門医の紹介状を書く。ドイツでは、サイコテラピーなどの心療内科や、精神科も主流で、何か精神的に辛いことがあると、すぐにテラピーを受けにいく。夫婦やカップルや家族で受診するなんてこともあり、日本よりももっと気軽に医者を使う。しかし、まずはなんでもハウスアルツトに相談しなければ、診断書も書いてもらえない。会社を休むときも、このハウスアルツトの診断書が必要だ。それゆえに、自分と相性の合う、なんでも相談できるハウスアルツトを持っていることは、ドイツではとても大切な事であるようだ。


「私のハウスアルツト紹介しますから。英語通じますし。一度受診してみたらどうですか?」

 何より、このような新参者がハウスアルツトを見つける事すら大変な事なのだ。初めて自分で電話してみても、一見さんはお断りとのごとく、新規患者は取っていないと言われるのが関の山。ましてや評判の良いハウスアルツトの患者になるのは一苦労だ。このように知人の紹介でも無い限り受診すらできない。なんとも不便な国である。

「でも、別に病院にいくほどのことでは……」

「とりあえず、なんでも相談できる医者がいるのは大切な事ですよ! ぜひ行ってみてください!」

 海外馴染みの強引で明るい言い様に、宏愛は二つ返事で予約を取ってしまった。


 早速次週の午前中、半休を取ってハウスアルツトへ向かう。ドイツで病院を受診するなんて、緊張するものだ。自分の英語は通じるのだろうか……第一疲れとストレスで夢見が悪いなんて、変な目でみられないだろうか。待合室に通されても、宏愛は終始緊張が抜けなかった。

「Mr. Sezaki どうぞ」


「英語でよろしいですか? 初めてですね。緊張しないで、リラックス。今日はどうされました?」

 少し年配のおじいちゃん先生が、宏愛に話しかけた。メガネをかけて白髪で、とっても穏やかな印象で、優しそうだ。ドイツの医者なんて、みんな強い言い方をするのかと思っていたが、宏愛の緊張も少しだけ解けた。

「日本からドイツに赴任してきて、半年経つのですが、環境の変化のせいかストレスなのか、夢見がとても悪くて、よく眠れないんです」

 宏愛は、自分の英語でちゃんと通じているのか不安になったが、医師は終始穏やかな表情で宏愛を見ていた。

「どんな夢を見るのですか?」

「屋上から落っこちたり、彼女が化け物になって自分の首を絞めたり……」

「それはひどいですね、サイコテラピーを受けられますか?」

「はぁ。でもそんなに時間もないですし、大ごとにしたくないというか……」

「なら、手っ取り早い方法がありますよ」

 医師は、引き出しの中から何やら医療キットのようなものを取り出した。何事もなかったかのように、テキパキと準備をしている。先日受けた新型感染症のワクチンと全く同じ形をしている注射器が見えた。

「悪夢ワクチンです」

「……え……悪夢ワクチン?」

「心配しなくても、これはケミカルなものではありません。夜にリラックス効果をもたらすように体が覚えていくものです。よく眠れるように作られた注射なので、今私が悪夢ワクチンと名前をつけただけですよ」

 ワハハと笑いながら医師は言った。その表情はどこか信頼できる雰囲気を醸し出していた。同意書はドイツ語で書かれていて、よくわからないままにサインをしてしまい、あの大規模ワクチン接種会場で、流れ作業のように打たれるワクチンと同じように、一瞬のうちに自分の右腕に悪夢ワクチンを打たれてしまった。びっくりするほど痛みもない。

「これで大丈夫。今日の夜からいい夢が見られますよ」

 診療所を出て、何事も起こらなかったかのように、体にも変化はない。結局自分は半休まで取って受診する意味があったのか疑問に思ったが、そうこうしているうちに時間がなくなり、宏愛はそのまま会社に向かった。


「瀬崎さん! どうでした? ハウスアルツト大丈夫でした?」

「ああ、ありがとう。なんか悪夢ワクチン? っていうの打ってもらったよ」

「悪夢ワクチン? なんですかそれ」

「よくわからないけど、ビタミン剤みたいなものかな。ケミカルなものではなくて、よく眠れるようになるって」

「へえー、あんまり変なもの信じちゃダメですよ〜。ちゃんと同意書とかも読まないと」

「読めっていったってドイツ語で読めないよ」

「あの医者なら大丈夫だと思いますけど、これからは私にちゃんと同意書持ってきてくださいね! 翻訳するんで」

「ああ、ありがとう」

 こっち育ちの同僚は信じられないとでも言わんばかりの顔をしていた。こうよくわからないままサインしてしまうのは、こちらの文化では考えられないらしい。それにしてもあんなに小さい字でみっちりと書かれた書類なんて、日本語だって読む気を失いそうだ。

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