白石・瞳

 私こと、白石しらいしひとみは、いじめられていた。


 理由はわからない。確か二年生の先輩が私に気があるから腹いせに、とかそんな理由。二年生の男子と会話なんかしたことない。だけどそれが生意気だからと言われた。


「お前がセンパイに色目使っんだろうがよ!」


 赤川・聡子。


 私をいじめる人間の筆頭だ。いきなり呼び出され、複数の同級生に囲まれ、そう糾弾された。大声と平手打ち。たったそれだけで私は力が抜けて座り込む。何が何だか分からないままに怒鳴られ、よくわからない罵声を浴びせられる。


「しらない。そんなひとしらない」

「知らないわけないだろうが、このビッチ! 二度とセンパイに近づくんじゃねーぞ!」


 それが始まり。名前も顔も知らない二年生のセンパイに合わないように怯えていた。そうしたらまた怒鳴られた。


「お前またセンパイに近づいたな! 死ね!」

「頭悪いのかオマエ!」

「何度言ってもわかんないクズ!」


 胸をつかまれての罵倒。平手打ち。最初は赤川を眺めているだけの取り巻きも、その暴力に参加するようになった。赤川を入れて四人。暴力が四倍になった。


「陰キャ臭いニオイ振りまくな、ブス!」

「アタシの事じろじろ見てたな。バカが移るんだよ!」

「同じ教室にいるだけで空気がまずくなるんだよ!」


 私をいじめる人の数が増えれば、暴力の種類も増えてくる。最初は名も知らぬセンパイが原因だったのに、もうそんなものは関係ない。私の態度が気に入らない。私の持ち物が気に入らない。私が気に入らない。ただなんとなく。そういう空気で。いじめてもいい奴だし。


 逆らおう、なんて心は最初から折れていた。誰かに相談しようとすることさえ、彼女たちに睨まれただけで砕けてしまう。痛い、怖い。できることは心を閉ざし、時間が過ぎるのを待つことだけ。


 いじめは先生の見えないところで行われた。だからなのか、誰も助けてくれなかった。あるいはそう言う名目だから、誰も気づかないふりをしていたのかもしれない。誰も私を助けようとはしなかった。先生も、友人も、だれもかれも。


 物を隠されたりするのは日常茶飯事。誰も見ていない場所に呼び出されての暴力。SNSグループでの罵詈雑言。無茶な命令や急な呼び出し。そして――


「あの店から『ラビットアイズ』盗んで来いよ」


 夜に赤川に呼び出された私は、ドラックストアの前でそう命令された。スマホで『ラビットアイズ』の画像を見せられながら、肩を組んで周囲に聞こえないように取り巻きに囲まれて。ウサギのように赤い瞳が特徴的。そんな最近出たばかりの口紅だ。


 傍目には仲いい女子たちがじゃれあってるようにしか見えないだろう。だけど、その中は、どろどろの悪意だ。そしてその悪意は、私に向けられている。無数の泥が、私をとらえて離さない。


 そんなこと、できない。


 口ではそう言おうとしても、赤川に睨まれたらもう何も言えなかった。言葉を紡ごうとするも声帯は動かず、ただ呼吸を繰り返すのみ。その様子さえもなじられる。


「やだ白石きもーい。何こひゅこひゅ言ってるのー」

「ちょっとー。ちゃんと日本語喋りなよー」

「あはははははは。もう白石ったらー」


 明るく、冗談めかして笑う。だけど悪意は暗く、本気で私の事を嗤っている。荒い呼吸を、喋れない私を、私と言う存在を。それがいやになるぐらいに伝わってくる。


 盗む。それがよくないことぐらいわかっている。


 だけど赤川達には逆らえない。逆らえない。逆らった後の事を思うと、胃が痛い。関節が痛い。喉が痛い。吐気がする。私は赤川に教えてもらった化粧品陳列棚に行き、『ラビットアイズ』の前に立つ。それを手に取る。


 盗んじゃだめだ。そんな倫理観と。


 盗まないと何されるかわからない。そんな恐怖。


 その二つがせめぎあう。『ラビットアイズ』を手にして悩む。実際に悩んだのは数秒程度だったのかもしれないけど、私には無限の時間に感じられた。倫理観と恐怖の渦に心は歪み、自分がまっすぐ立っているかどうかさえ怪しくなっている。


 葛藤の末、私はその手を放す。赤川達に何をされるかわからないけど、耐えればいい。耐えることには慣れている。そう自分に言い聞かせて店を出て――


「お客さん。ちょっとこっち来てもらえます?」


 店を出たタイミングで、肩に手をかけられる。ドラックストアの制服を着た男性だ。名札を見ると『●●店 店長 青木』と書かれてある。何のことだかわからないままに事務所に引っ張られ、詰問するように声をかけられる。


「キミ、万引きしたでしょう」


 私は思わずどきりとした。万引きしようとしたのは事実だ。だけど実際には盗んでいない。私は首を振って否定するけど、店員は信用しない。


「キミが盗んだところ、見たんだよ。カメラの陰に隠れるようにしてたけど、確かに見たんだからね」

「盗んでません。そんなこと、ありません」

「じゃあ、カバンを調べさせてもらおうか」


 言って青木は私のカバンをつかむ。あまりの強引さに反論もできず、そのままカバンをひっくり返されて中にあったものが机の上に落ちていく。筆記用具や学校のノートがどさどさと落ち、そして見慣れない口紅がその中にあった。『ラビットアイズ』。さっきまで盗もうかどうか葛藤していた物だ。


「カメラにも、キミが写っているんだよね。これで決まりだな」

「そんな!? 私、盗んでません!」

「そんなこと言われてもね。証拠は十分あるんだから」


 ちがう。ちがう、ちがう……。


「警察と学校に連絡だね。あと君の家にも連絡だ。盗みは犯罪。その事をしっかり理解してもらわないと」

「私、やってない……。私は……」


 否定する私。だけどもしかしたら本当は盗んでいたんじゃないか? その懸念を捨てきれなかった。赤川達に虐められたくないから、実は盗んでいた。盗まずにいようとしたのは実は都合のいい夢で、本当は盗んでいたんじゃないのか……。


「まあでも、キミみたいな年齢の子がこういう口紅に興味を持つのも理解できるよ。盗んだのも、魔が差したんだろうね」


 優しく青木は言い放つ。大丈夫、分かっているとも。そう言いながら私に近づいてくる。


「その代わりに……。わかるだろ?」


 私の肩に置かれる手。それが少しずつ力強くなっていく。荒くなる息と、欲望にまみれた瞳。それが何を欲しているのか、私は十分に理解できた。


「ひぃ!? や、やだ!」

「いやかい? だったら警察に行こうか。少し我慢すればなんもなかったことになるのに、残念だなぁ」


 抵抗しないといけないのに、抵抗しなくていい理由を告げられた。我慢すれば、何もなかったことになる。そうだ、我慢することは慣れている。それだけでいい。それだけでいい……。


「ああ。あああああああ」


 店長の手はゆっくりと私の胸に降りて、ボタンをはずしていく。露になっていく私。肌が空気にさらされる感覚とともに、涙が流れ出す。下着を一枚一枚脱がされるたびに、心に厚い壁が生まれていく。


 青木の男の部分に汚されながら、私は何も感じないと心を閉ざす。何度も何度も肉体を貫かれ、欲望を何度も吐き出され、その感覚を青木に詳細に説明させられる。肉体を襲う感覚と、心を辱める言葉。その交差の度に、心が壊れていく。体が壊れていく。女が壊れていく。


「じゃあ、万引きの事は黙っておくよ。万引きの事はね」


 事が終わった後で、青木は私にそう言い放つ。その言葉の意味はすぐに知れた。隠すように立てられていたスマートフォン。そこに撮影された青木と私の行為。赤裸々に残る男と女の交わり。私の顔も、身体も、秘部も、痴態も。何もかもが


「だけどこのことが親やお友達にばれたら、困るだろうなぁ。それともネットに流されたい?」


 力なく首を横に振る私。それ以外に、できることなどなかった。


 強制的に青木と連絡をとれるようにさせられ、その日は家に帰る。親の帰りが遅いことが、これほどありがたいことはなかった。長い時間かけてシャワーを浴びて、すべてを忘れようとベッドに入る。


 悪意の坩堝が増え、私は人として壊れていく。

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