第2話
彼女が盛り塩をしてくれてから、あの足跡は出現しなくなった。
しかし、彼女をひとり部屋に残して夜勤をしていると、不安になってしまう。
『大丈夫?』
仕事の合間に、こっそりメールを送ってみた。
『大丈夫』
すぐに返事が来る。
『私のことは心配しないで、仕事して』
出来た彼女だ。無理しているかもしれないと思うと、ますます心配になってしまう。
彼女の実家で見た、父親に覆いかぶさった影。それが彼女に襲いかかるのではないか。
心配は、尽きない。でもまずは、自分が無事に仕事を終えなくては。仕事中にスマートフォンを出していたことがバレたら、処分対象になってしまうかもしれない。
スマートフォンをスクラブのポケットに隠し、消毒液の確認をしていると、ナースコールが鳴った。
その患者様は高齢で、認知症状があり誤嚥性肺炎も患っていたが、ヘビースモーカーで煙草を隠し持っていた。ベテラン看護助手の提案で、ライターはシャーペンの芯のケースに、煙草の箱の中身をココアシガレットに替えたところ、ライターと煙草だと思って大事に持つようになった。
その患者様は、今日の午前中亡くなったと申し送りを受けた。老衰だった。
つまり、そのベッドのナースコールが鳴ったのだ。
シャーペンの芯のケースとココアシガレットが入った煙草の箱は、ナースステーションで回収している。
俺はそのセットを持ち、PHSを胸ポケットに入れ、該当のベッドに向かう。
廊下の空気は、静かだった。
この入院棟は救急外来から離れているが、たまに空気がざわつくことがある。
該当のベッドのある多床室に一歩入ると、空気が一変した。
低い声で言葉が交わされている。天井近く、カーテンレールの辺りだ。
巡視を兼ねて患者様の顔を覗かせてもらうが、全員静かに眠っている。
俺は、ぞわぞわと鳥肌が立つ気がした。
空きベッドにシャーペンの芯のケースと煙草の箱を置き、合掌する。
すぐにでもこの部屋を出たいところだが、足が動かなかった。背後から覗き込まれている気がする。頭の上から、ぶつぶつと声が聞こえる。
どのくらいの時間、動けずにいただろうか。患者様が寝返りを打つ音で天井の声が止み、俺はナースステーションに戻った。
煌々と灯る蛍光灯の下で深呼吸を繰り返す間も、あの声が耳に貼りついて離れない。何年も病院で働いているのに、未だに慣れない。
あれは、人の思いのようなものだ。残留思念とでもいうのだろうか。強い思いがその場に残り、他の人の思いを引き寄せる。
俺は霊感があるわけではない。病院で看護業務に携わるうちに、何となく空気は感じるようになった。病院のスタッフ全員が感じるわけではないが、一定数の人は感じるようになる。彼女も、そのひとりだ。俺達は、病院以外でも空気の変化に気づくようになった。
彼女はひとりで大丈夫なのだろうか。やはり、心配だ。
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