凍える夜を焼く

 二人の王と己の師匠とのお茶会を終えた日の深夜。しんと静まり帰った部屋の中で、少年は荒く苦しそうな呼吸を繰り返していた。

 寝返りを打つほどの気力もなく、ぐったりとベッドに横たわったまま、視線だけを窓の方へと向ける。カーテンの隙間から射し込むか細い月明かりから察するに、どうやら朝はまだ遠いようだ。

(……熱、とか……久しぶり、だなぁ……)

 実は少年は、あまり病気になったことがない。心の方は著しく脆弱だが、身体は割と丈夫な方なのだ。そうでなければ、幼い頃の暴力に満ちた環境を生き抜くことはできなかっただろう、と少年は考えている。

 しかしどういうわけか、今の少年は熱に魘されている真っ最中だった。それもかなりの高熱だ。恐らくは、疲労からくる風邪だろう。

 兆候自体は、お茶会が終わった直後あたりからあった。夕食に呼ばれる前にはもう、なんだか身体が熱くて、けれどその割には悪寒がする、といった典型的な風邪の症状が出始めていたのだ。だが、少年は少し疲れただけだろうと気にしないでいた。結果的には、それが間違いだったのだろう。

 食事を取って風呂に入って休めば疲れも取れるはずだと考えていた少年は、風呂から出たあたりで楽観視しすぎだったと思い知らされた。深く考えずに湯に浸かったことで、ただでさえ疲労で削られていた少年の体力はほとんど底を突き、脱衣所で寝間着に着替えている最中に何度も倒れそうになったのだ。

 だが、彼はそこで倒れるわけにはいかなかった。体調を崩していることがばれたら、この王宮の人々に迷惑をかけることになってしまうからである。それだけは避けなければならない。他人のためではなく、罪悪感で潰れそうになる自分のためにだ。

 そう思い、気力を振り絞ってなんとか部屋に戻った少年は、布団に潜りこんだところで完全に力尽きた。もはや指一本動かす気にもなれないので、これは想定以上に悪い状況なのかもしれないと彼は思った。

 だが少年は、それでもまだ、寝て起きたらある程度復活しているだろうという希望的観測を捨てることができなかった。だからこそ、そのまま泥のように眠りについたのだが、どうやら自分の体力を過大評価していたようである。

 こうして寝苦しさに目を覚ましてみれば、寝る前に感じていた悪寒はよりひどく、体は熱いのに奥の方は凍えているという、なんとも不可思議な感覚に襲われている。

 やはり疲れが出たのだろうと、少年はぼんやりする頭で考えた。記憶に新しい森での出来事は随分と神経を削ったから、こうなってもおかしくはない。

 そういえば前回の時も少し熱が出たのだったか。少年は、初めてこの王宮に入ったあの日も、そんなに体調が優れなかったということを思い出した。あの時は、それでも普段通りに過ごせる程度のもので済んだのだが、どうやら今回はそうではないらしい。元々あまり身体の調子が良くなかったとかなのだろう、多分。よく判らないけれど。

 回らない頭でそんなことを考えながら、少年はうっすらと開いていた目を閉じた。

 耳障りな自分の荒い息が耳につくからか、再び眠りに落ちることが難しい。朝になって誰かが来る前に、少なくとも誤魔化せる程度には回復していないといけないのに、と思えば思うほど、眠気は遠ざかる一方だった。

 そういえば、眠りにつく前に見えていた赤いトカゲはどこに行ったのだろうか。ぺちぺちと頬を叩く小さな手に、大丈夫だと答えた覚えがあるから、少なくとも寝る前は確かに枕元にいたはずだ。だが今は、動かずに見える範囲に赤色は映らなかった。

 もしかすると、荒い呼吸が煩いから離れたのかもしれない。だとしたら、それはとても申し訳ないことをしてしまったな、と少年は自省した。きちんとした寝床を用意して貰って、別の場所に寝かせてあげれば良かったのに、体調が悪いことを理由にそれを怠った。これは自分の落ち度だ。

 相変らず物事を悪い方向へ考える少年の気分は、自己嫌悪が重なることで更に悪化したようだった。これでは治るものも治らないだろう。

(……さむい……)

 抑えることができない全身の震えに、少年は心の中でそう呟いた。

 少年は寒いのが苦手だ。暑いのを好む訳ではないが、寒いよりはずっと良いと彼は思う。寒い冬を薄いぼろ布で過ごさざるを得なかった彼にとって、寒さは命を脅かす脅威なのだ。

(……ああ、だから、ねむれないんだ……)

 ふと少年は気づいた。頭では多分死ぬことはないだろうと判っていても、防衛本能のような何かが眠りを拒んでいる。少年にとって寒さと死の気配はほとんど同義だから、一向に睡魔が訪れないのだ。

 死ぬのだろうか。少年はふと浮かんだその思考を追いかける。無論、そんな筈はない。金の国の王は、重要人物になってしまった自分を見殺しにするようなことはしないだろう。そもそも、所詮はただの風邪である。この程度で死ぬ訳がないのだ。判っているのだが、どうしても少年は死を考えずにはいられなかった。

 母を思うのなら、生まれ落ちる前に死ぬべきだったし、今からだって死んだ方が良いのだ。だが、一度生まれてしまった以上、死ぬのは怖かった。死ねば楽になれるのかもしれないが、死んだらそれまでなのだ。魂はまた廻るのだろうけれど、少なくともこの“自分”はそれで終わってしまう。

 ――それは駄目だ。僕は死ねない。死んではいけない。

 追い立てられるように感じる、この焦燥感はなんだ。生への醜悪な執着か。それとも何か、もっと別の、何か大切な、生きなければならない何かが。

 判らない。何も判らない。ただただ寒い。明けない闇がそこかしこから少年の中に潜り込んで、内側から突き刺して殺そうとしてくる。

 そのまま段々と、熱にぼやけた頭は自分が何を考えているのかも把握させてくれなくなってきた。ただ本能的に感じている恐怖が、少年の頭からつま先までを埋めて竦ませている。がちがちに強張った身体は一層少年から体力も気力も奪い取っていくけれど、最早彼にはどうしようもなかった。

 そんな時だった。

「大丈夫か、キョウヤ」

 唐突に降ってきた低い音に、少年はのろのろと視線をそちらに向けた。


 ほのおだ。

 夜の闇も凍える寒さも焼き払わんような、美しく燃え盛る炎だ。


 熱に呆けていた少年の頭が、また違う熱でどろりと溶ける。右目を隠す自身の前髪がなければ、少年はその輝かしさに意識を失っていたことだろう。

「ああ、随分と辛そうだ。……ティア、よく私を呼んできてくれたな、偉いぞ」

 赤の王の声に、いつの間にかベッドの上に戻っていたトカゲが胸を張るようにして王を見上げた。そして、ぐったりと伏せている少年の頬を、心配そうにぺちぺちと叩く。大丈夫かと問いたげにトカゲが首を傾げてみせたが、意識が朦朧としている今の少年には、きちんと認識することができなかった。

 それを把握しているのかいないのか、王はベッドの脇に屈み込むと手を伸ばし、身体を強張らせて震えている子供の額に触れた。他人よりも体温の高い掌なのに、どういうわけか少年には煩わしくないように思えた。全身に燻る熱は身を焼いて少年を責めるばかりなのに、王の肌が与えるこの熱は違う。

(……これは、きもちいい、やつだ……)

 そう感じるのは、単に少年の体温が上がりすぎていて、王のそれを冷たく捉えているからか。それとも、もっと別に理由があるのか。思考をめぐらす余力もない子供は、ただその心地良さを甘受するだけだった。

 ゆるく目を伏せた少年に対し王の方はといえば、思ったよりも高い子供の熱に眉を顰めていた。普段から暖かな室内でも平然と厚着にマフラーを巻いている少年であるが、身体自体がこれだけの熱を持っているとなると、その辛さは想像に難くない。実際、王は少年が辛うじて起きているものの、まともに意識を保っていないことを察していた。

「かわいそうに。待っていろ、キョウヤ。すぐに医師を呼んでこよう」

 さすがの王も病の種類までは判らない。ここは早急に医師に診せるべきだろう。幸いなことに、金の国の宮廷医とは顔見知りである。まだ夜も明けていない時間帯に申し訳ないが、緊急事態なので目をつむって貰おう。

 そう思って立ち上がり、部屋を出ようとした王はしかし、一歩も踏み出せないままぴたりと動きを止めた。

 視線を下に落とせば、きゅ、と、控えめどころか力と言うのもおこがましいようなそれで、小さく細い指先が王の袖口を掴んでいる。

「キョウヤ?」

 王の問いかけに、しかし少年は目を伏せたまま辛そうに呼吸を繰り返すばかりで、返事がない。最早音に反応することもできないようだった。

 それでも彼は、王の服を摘まんで離さないままでいる。ほんの少し腕を揺らすだけでポトリと落ちそうだったが、それでも確かに、その指には王を引き留める意思があった。

 きっと少年は、自分でも何をしているのか判らないくらい曖昧な意識でいるだろうから、このまま手を離させて人を呼びに行ったとしても、問題はないのだろう。袖の端に引っ掛かっている彼の指を外すのは、それほど容易なことのように思えた。

 しかし王は、自身の服を捉える指に触れた瞬間、子供の表情が一瞬熱の苦しみではないもので歪むのを見てしまった。

 諦念と、悲哀だ。伸ばした手を振り払われ、じっと耐えることに慣れてしまったような、そんな顔だった。

「……大丈夫だ、キョウヤ」

 求められていると正しく悟った王は再び膝を折り、触れた指から服を解放させ、代わりに自身の手で包み込んだ。そして逆の手で熱い額に触れてやれば、少年の顔が幾分か安らぐ。

 こうして与えられた心地良さを手放したくなくて、少年は王のやわらかな熱に小さく擦り寄った。そうすれば頭を優しく撫でられて、強張った身体からはどんどん力が抜けていく。完全に脱力してしまうと、それにつられるかのように、その意識にもようやく闇が訪れ始めた。

 心地良い熱が、少年の頬を慰撫する。握られた手と頬に受ける温度に、ああ、いきている、と少年の心が零した。

(…………さむ、く……ない……な……)

 己をすくいあげる熱にもう一度擦り寄った少年が、今度こそ完全に意識を落とす。

 それを確認してから、王は小さな声で風霊の名を呼んだ。その意を汲んだ風の乙女たちが、宮廷医を呼びに行く。風霊が部屋を出て行くのを見届けてから、王は愛し子にそっと口づけを落とした。

 ずっと寄る辺もなく生きてきた少年が、苦しみの中で王を求めた。その事実が愛おしくて仕方がなかったのだ。

「お前の望む限り、ずっと傍にいよう。だから今は、ゆっくり休むといい」

 王の言葉など、眠りに落ちた少年にはもう届いていないはずだ。だがどうしてか、穏やかになった呼吸を繰り返す少年が、少しだけ微笑んだように見えた。

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