二章 6.洋館

海岸道を行くと鹿角神社がある。

鹿角神社を過ぎて、すぐの分かれ道から北山に向かって桜並木の坂道を登って行く。

高台に長く躑躅の生垣が大内医院の門柱まで続いている。


「こんにちは」須賀は大内医院の玄関で声を掛けた。

もう医院を閉めてから三年になる。

藤子さんは出て来ない。

東側に続く通路を通って自宅の玄関へ向かった。

大内の表札がある。

門扉を開けようとすると声が聞こえる。

おかしい。声は聞こえる。

確かに人は居る。


医院の玄関へ戻り、脇を通って南側に回ってみた。

通用口の門扉越しに庭を覘いた。

居た。米田だ。

大内藤子さんと部屋にもう一人。

「こんにちは」須賀は、門扉越しに、もう一度声を掛けた。

三人は、一斉に須賀を見た。

「ごめんください。玄関で声を掛けたんですが、分らなかったようでしたから、こっち回りました」

「ああ、ごめんなさい。どうぞ」

大内藤子さんが須賀の前へ来て挨拶をした。

「突然で申し訳ありません」部屋にいた、もう一人は弥生さんだった。

「あっ。寺井さん」須賀は驚いた。

寺井満春社長が亡くなった後、美弥さんが後を継いで社長になった。

満春と父の直道は仲が良かった。

須賀の母を寺井海運に誘って雇い入れた。

美弥さんは須賀の母を頼りにしていた。

おかげで、須賀は大学へ進学できた。

美弥さんの息子は、大学へ進学せず、新たに神戸で営業所を開設して陸運事業を始めている。


今日は、大内医院の藤子さんの家へ、弥生さんの荷物を運び込んでいるのだった。

弥生さんは土曜日の夕方と日曜日の朝、藤子さんの塾に通っている。

寺井の自宅から土曜、日曜の両日通うのが面倒だし、夜遅くなると危ないので、土曜日の夜は、藤子さんの家に一泊する事になった。


先週、買物をしたそうだ。「藤子先生。お布団これにします」弥生さんは、はしゃいでいたそうだ。

「じゃあ、これで決まりやな?もう迷わんといてよ」

「箪笥でしょ。後は、そうそう、パジャマ」

藤子さんは、後二時間でも終わりそうにないと思ったそうだ。

「箪笥は家にあるんで良えやん。まるでお嫁入りするみたいや」


荷物は寺井海運に届いていた。

会社の車が空いているのだが、運転できる人がいない。

そんな時、米田さんが、寺井海運にやって来た。


米田さんが、車を運転して荷物を運ぶ手伝いをすることになったそうだ。

南側の和室は、普段使用していなかったので、大掃除をしたそうだ。

そして、弥生さんの荷物を運び込んでいた。


そういう事情ならと、須賀が帰ろうとした。

「そんなに急いで帰らなくてもいいのに」

弥生さんが云った。

「いや。でも、忙しそうやし」須賀は、悪い予感がした。

「手伝ってくれたら早く片付くし、助かるんやけどな」

運悪く訪ねてしまった。

須賀は、荷物の運び込みを手伝う羽目になった。


米田が笑顔で空のバケツを須賀に渡し廊下の突き当たりを指差した。

「おっさんも捕まったんや」

米田に尋ねた。

「そうなんや。事務所の建て直しの相談したいから、一辺来てくれって社長に言われとったんや」

「こないだの打合せは、誘き寄せる罠やったんやな」須賀は、冗談ぽく云った。

「そうや。今日行ったら、ちょうど良かった。ちゅうて、運転手やらされて、荷物運びまで押し付けられとんや」

米田は、残念そうに云った。

弥生さんが、お茶を運んで来たので、休憩する事になった。


米田が事務所に残っている机を取りに寺井海運へ戻った。

藤子さんに岡島さんの事を尋ねようとした時、隣の六畳間から弥生さんが何か見つけたのか「先生!」驚いたように藤子さんを呼ぶ声が聞こえた。

振り向くと弥生さんが目を輝かせて何かを凝視している。

「揚羽蝶の指輪。どこで見つけたんですか」

弥生さんが尋ねた。

「それは、お祖母ちゃんが大内に嫁ぐ時に曾祖母さんから贈られたそうなの。そう言って、私はお父さんから贈られたの」

藤子さんが話した。

「それじゃあ、大切なものですね」

弥生さんは、神妙な顔付きで云った。

「藤子先生。やっぱり、先生が使ってた箪笥にします」

急にというか突然話しが変わった。

「折角、買ったのに、もったいないわ」

「でも、大き過ぎるし」

結局、新しく買った箪笥は、藤子さんが使う事になった。

米田がトラックに机を乗せて戻って来た。

須賀は、米田と箪笥の移動をする羽目になった。

どこに机を置くのかで、弥生さんは、何回も置き直し、迷っていた。


作業を終えて、藤子さんに岡島さんの事を話そうと思った。


藤子さんは、弥生さんと米田さんを見送っていた。

南側に広がる菜花畑から一段低くなった道端にトラックを停めていた。

弥生さんが、振り返って須賀に会釈をして、藤子さんに手を振っている。

米田さんも振り返って、こちらに会釈をして、運転席に乗り込もうとしていた。

「あっ」藤子さんが、須賀の隣で突然、声を発した。

藤子さんを見ると、驚いた表情のまま茫然としていた。

振っていた手は胸元で止まったままだった。

「どうかしましたか」

須賀が尋ねた。

「いいえ。それより、何かご用が、おありじゃなかったのですか」

藤子さんは、我に返ったようだ。

「今日はお疲れのようなので今度にします」

須賀は帰ろうとしていた。

「いいえ。手伝って頂いたので助かりました」

藤子さんは、既に、話しを聞くつもりなのか、玄関へ向かいながら云った。


居間に向かい合って腰掛けると用件を伝えた。

「岡島さんとは、どんな話をなさったのでしょうか」

岡島さんが転落死した当日、藤子さんに何を取材しようとしていたのか知りたかった。

「須賀さんのお父さんが亡くなった時の事をお尋ねでした」

それで、と後を促した。

藤子さんが答えた。

北展望台の脇道の坂を駆け降りる人影を見たと警察に証言した事と、警察の結論を説明したそうだ。


藤子さんの人影を目撃したという証言だけでは、何の収穫も無かっただろう。

この事なら須賀でも知っている。


何の収穫もなく須賀も大内医院から帰った。

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