終点・猫の国

高梨結有

終点・猫の国

「扉が閉まります。駆け込み乗車はおやめください」


 ――あ、待って。


 ――待ってよ……。

 

 ――乗る、乗るからっ。お願いだから間に合って……。閉まらないで。これに乗り遅れたら、また上司に――。


 心の中でそう叫びながら私は走る。本当は声に出したいのだけれど、視界はぐわんぐわん揺れ、息も途切れ途切れ。おなかの中では何かが暴れまわっていて、叫んだりなんかしたら、声と一緒にそれが飛び出してきてしまいそう。


 ああ……なんだか気持ちまで切れてしまいそうだ。


 私は必死に足を動かし、飛び込むように電車に乗り込んだ。その瞬間、背後の扉が音を立てながら無慈悲に閉まった。私より後ろを走っていた人たちは、みんな駅のホームに取り残され青い顔をしていた。

 電車が動き出すと、

『駆け込み込み乗車は危険ですのでおやめください』

 と、努めて冷静な口調のアナウンスが車内に響いた。

 申し訳ないという気持ちと、この時間の電車に乗れなかったら会社に遅刻してしまうという恐怖心が、私の中でない交ぜになる。

 仕事が終わり、家に帰れるのは日付が変わってから。帰ってからも次の日の仕事の準備をしなければいけないので、一日の睡眠時間は雀の涙ほど。

 ここ最近は仕事そのもののストレスからか、ベッドに入ってもすぐに寝付くことはできず、目覚まし時計を何個セットしてもちゃんと目覚めることができないでいた。

 会社に遅刻しないギリギリの時間の電車に乗ること。それが今の私の限界だった。

 ご迷惑をおかけして申し訳ありません。どうか駆け込み乗車をしてしまった私を、ゆるしてください。

 駆け込み乗車をするたびに、私の心の中はそんな気持ちでいっぱいいっぱいになる。

「はぁ……」

 いつも座っている車両の真ん中ら辺の席が空いていたので、私は腰を落ち着けてから溜息をついた。そうしてから、反対側の座席を見る。

 そこには一匹の茶トラ猫が――香箱座りというのだろうか――お行儀良く座っていた。

 田舎の電車だからか、それとも私以外の人にはこの猫の姿が見えていないのか、毎日のように電車に乗っているこの猫を、無理に追い出そうとする人は誰もいない。

 日常生活に疲れ切っていた私にとって、毎朝この猫を見つめるという行為は、唯一の癒しと言っても過言ではなかった。

『間もなく〇〇。〇〇。お出口は右側です』

 茶トラ猫をしばらく見つめていると、私の職場の最寄り駅の名前がアナウンスされた。

 私は座席から立ち上がると、茶トラ猫の前まで行き、猫の頭と喉を順番に優しく撫でた。周りの人はスマホや紙の本に集中していて、そんな私と猫には目もくれない。

 茶トラ猫はごろごろと喉を鳴らし、気持ちよさそうな顔をする。

 猫はいいなぁ、自由そうで。いっそのこと、私も猫になってしまいたいな。そうしたら、私もこんなふうに自由になれるのかな……。

 最近、そんな思いがよく私の頭をよぎる。

 私は猫から手を離し電車を降りた。

「にゃあー」

 降りた瞬間、背後の車両の中から鳴き声が聞こえた。振り返ると、ちょうど扉が閉まり、電車は次の駅に向けて走り出してしまった――。


『扉が閉まります。ご注意ください』


「いてっ!」

 今日は昨日と違って、閉まる扉に少しだけ身体を挟まれてしまった。

 日に日に体力と気力の限界が近づいてきている。もしかしたら、明日は目の前で扉が閉まってしまい、この電車に乗ることさえできないかもしれない。

『駆け込み込み乗車は危険ですのでおやめください』

 また、あのアナウンスが聞こえる。

「すみません……すみません……」

 私は他の乗客達の冷ややかな視線に対し、頭を下げながら、今にも消え入りそうな声で謝る。

 どういうわけだか、今日はいつにも増して乗客の数が多い気がする。いつも私が座っている座席は、今日は中年のおじさんが座っているため空いていなかった。

 その代わり、あの茶トラ猫の隣の席が一つだけ空いていた。

 私は迷わず猫の隣に腰掛けた。

 今日はこの猫を撫でる元気も、じいっと見つめて癒しを感じる元気もない。

 朝から疲れ切っていた私は、猫の隣で、ゆっくりと瞼を閉じた。


「にゃーお!」

 大きな鳴き声で目を覚ます。

「あ、しまった!」

 眠気は一瞬で吹き飛び、私は慌ててズボンのポケットからスマホを取り出した。どれくらい眠ってしまったかは分からないが、確実に遅刻だ。急いで上司に連絡しなくては。

 しかしいくらスマホのスイッチを押しても、画面をタップしても、スマホは反応しない。

「あれ、おかしいな……。昨日の夜ちゃんと充電して寝たはずなのに。まさかもう充電切れ? まずいぞ……どうしよう……どうしよう……」

 私は真っ暗な画面のスマホをポケットに戻した。誰か周りの人からスマホを借り、上司に連絡しようと考えたのだ。しかし、さらに異変に気がついた。

「え、なんで……?」

 車両の中には、いくら見渡しても私以外の人間はいなかった。代わりに座っていたのは、みんな猫だった。

「にゃーお!」

 また、大きな鳴き声が聞こえた。

 その鳴き声を合図に、電車が止まる。そして、プシューっと音を立てながら車両の扉が開いた。

 行儀よく座席に座っていた沢山の猫たちが、一斉に電車から降りてゆく。

 呆気に取られていた私の太腿の上には、さっき隣に座っていた茶トラ猫がいつの間にか乗っていた。そして茶トラ猫は、私のお腹に顔を擦りつけると小さく鳴いた。

「にゃぁ」

 着いてこい、まるでそう言っているように私には聞こえた。

 茶トラ猫は、そっと私の太腿の上から飛び降り、そのまま車両の外へと歩いて行く。

「あ、待って!」

 私は慌てて座席から立ち上がると、茶トラ猫の後を追いかけて車両の出入り口まで行った。そして、開きっぱなしの扉から車両の外を覗いた。

「なに……これ……」

 そこには、駅のホームを埋め尽くすほどの大量の猫たちが、みな一様にどこかへと向かって歩いていた。

「にゃあ、にゃあ」

「みゃーお。みゃーお」

 沢山の鳴き声と、解読不能な看板の文字が視界に映る。

 その猫の大群の中に、さっきの茶トラ猫がいた。

 茶トラ猫は私の視線に気がつくと歩くのをやめ、その場で振り返り私と視線を合わせてきた。そして私のことを見つめながら、左前足の肉球をぺろぺろ舐めると、まるで招き猫のような仕草で目や耳を掻き始めた。


「ああ……『こっちの世界』の方がいいな……」

 唐突に、私はそう思った。いや、本当は前から望んでいたのかもしれない。

 こんな世界を。こんな場所を。


 私は足を伸ばし、車両の外へと出た。

 すると突然、転んだわけでもないのに視界が低くなった。さっきまで聞き取れなかった鳴き声の意味が分かるようになり、看板に書いてある文字まで鮮明に読めるようになった。


 私が見上げた先にある看板には、「終点・猫の国」と書かれていた。


「ねこ……の……くに……」


 徐々に、私が人間であったという自覚が薄れてゆく……。


 わたしが「私」であるという記憶が、曖昧になってゆく……。


 あっ……わかった。


 ようやくわたしは


 自由

 に



 な


 れ――。

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終点・猫の国 高梨結有 @takanashiyu

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