第13話 魔性の王妃アンジュ
アンジュが王妃になって一か月が経とうとしていたが、まだ気持ちの整理がついていなかった。ソファにもたれて、鳥が啼く空を眺めてぼんやりとする日々。
本はたっぷりと買い込んでくれたし、美味しい紅茶は選び放題。
ドレスはいつも新調してくれるし、髪の毛を結い上げてくれるメイドは黒髪が美しいと褒めてくれる。
でも、もう側室の小さな部屋には戻れないのだ。
広すぎる自室は疲れてきてしまうし、本を読むのも最近は億劫になっている。
そして、ナンもルドルフも、あれきり消えてしまったように現れない。
そもそも、気心知れたメイドなど今後現れるのかと思う。
あれ以来、メイドに素肌を見せたことがない。
必ずガウンを羽織り、下着を身につけ、乱れた姿を見せないようにしていた。
ゼストと話す姿を見られたらいけないと、寝室でしか会話をしないでいる。
アーネストのことが怖いせいもあるが、自分の幸せが人の不幸の上で成り立っているようで笑みを見せなくなった。
あの後、アーネストとゼストは離婚が正式に発表され、代わりにアンジュとの結婚が決まった。
世間のアンジュの評価は低く、ゴシップ記事の通りだと言われ、誰もアンジュのことを認めることはなく、風当たりは強い。
しかも、外交を保つために別邸にアーネストがいる。
もはや生きた心地がしない。
(寝室は一緒だけど、一度も相手をしたこともないこと、ゼストは怒ってないかしら?)
もう結婚して不倫ではないのだが、セイが足しげくゴシップ記事を持ってくるので、身体を重ねる気になどなれなかった。
ゼストからキスをされても、前のように甘えた声も出なくなっている。
自然と身体は離れて、ふたりの熱も冷めていく。
そして、今日もまた、セイはゴシップ記事を持って現れた。
「おくつろぎのところ申し訳ありません。酷い記事が載っておりました」
「そう。見せて?」
そうして見てみると、アンジュは思わず頭を抱えたくなる。
『魔女アンジュ。次は王の暗殺か! それともアーネスト様の殺害か!』
「なんて記事。酷いわ」
「ですが、これを裏で操っているのはアーネスト様です。見出しに王の暗殺とあります」
「そうね……。でもゼストを暗殺って難しいんじゃないのかしら?」
「とはいえ、寝込みを襲われると――」
セイはにやっと笑ってアンジュを見つめた。
「か弱い女性を守りながら戦うのは、不利ですからね」
「セイ。冗談が過ぎるわ。私だって参っているのよ。この記事、もうずっと続いているわ。アーネスト様は怒りが収まらないってことよ。それに、毎回毎回、物騒なことが書いてあるじゃない」
アンジュは記事を隅々まで読んで、何か手掛かりがないか探すが汚らしい言葉で埋め尽くされていた。
畳んでセイに渡すと、深いため息が出る。
結局、ゼストにまだ好きだと言えていないことも、悩みの種だ。
不倫をしていた、それを認めているわけだからだ。
(あああああ! もうっ!)
アンジュは頭をかきむしりたい衝動に駆られながら、またため息を吐いた。
「それからもうひとつ。知らせがあります」
「楽しいお話がいいわ」
「ナンを連れてきました」
「ナンッ⁉」
顔を上げると、ドアを開けて入り口に佇んでいる。
信じられないという思いで、アンジュは目を思わず擦っていた。
「ナン?」
「アンジュさまぁ!」
拙い走りで駆け寄ってくると、ナンはアンジュの胸に飛び込んできた。
久しぶりに見た顔は、前と変わらずあどけない少女を残すようで、ほっとした。
「良かった。酷いことされてないわね?」
「実家にいただけですから」
「でも、給金は貰えていた?」
ナンは涙を流しながら何度も頷く。
「そんな心配はいいのです! アンジュ様がこんなことに! 酷い目に合っていると知れば、ナンは火の中水の中!」
ナンの言葉に苦笑していると、セイの咳払いが聞こえてくる。
「ナン? 王妃になることが、不名誉なことだといいたいのか?」
「そうでございます! アンジュ様の幸せは、老後までゆっくりと過ごすこと。誰にも邪魔されず、静かに過ごすことでした。それが、こんなお家騒動に巻き込まれて、酷い捏造記事まで書かれて」
ナンはさめざめと泣いて、セイを睨んでいた。
(このふたり、近づけたらいけないわ)
ナンもセイも忠義に厚いが、言葉が悪い。
良くも悪くも似た者同士で、一緒にいると火花がバチバチ飛んでいる。
「セイ? もう平気よ。下がって。あ、ところで、ルドルフは?」
「彼は軍におります」
セイの冷めた言葉に、アンジュは嫌な予感がしてくる。
「え……戻らないの?」
「いずれ戻るでしょう」
そう言って、セイはすたすたと部屋から出て行ってしまった。
それを聞いていたナンは出て行くなりドアに鍵を掛けてしまう。
「なんて疫病神! アンジュ様が傷つくことばかり言って」
ナンはぷんぷん怒って、近くにあったティーポットを見つけるとすぐに紅茶を淹れてくれる。
「あの、なんでルドルフだけ軍に?」
「分からないです。彼は自分からは何も言わないですし。剣も強かったので」
「そうよね……。強いからよね」
嫌な予感が止まらない。
自分のせいでナンが実家に帰らされたなら、ルドルフは命がけで戦い抜かないといけない。
ゼストのことを信じていたが、あまりの自分勝手さに頭にきてしまう。
「宮中は悪い噂でいっぱいです。アンジュ様、耳に入れないように」
「ええ」
そう言われても、アンジュの耳にもいくつか届いているのはある。
王の暗殺、アーネストの毒殺、権力の独裁、などなど、小国出身の姫がゼストに見初められる筈がないと、口々に言っていた。
それも辛いことだ。
「泣きたいわ」
そんな時、ノックする音が聞こえてきた。
誰かと思ってナンが出迎えると、男がひとり立っている。
「だれですか?」
ナンの訝しい声を聞いて、身を固める。
「ルドルフの弟、レドモンドです」
「レドモンド……?」
ナンが戸惑っているのが良く分かる。
アンジュもそんな人がいると聞いたことがないせいだ。
しかし、無口な彼がわざわざ弟の存在を口にしていなかった、とも考えられる。
滅入った心に、ルドルフの弟の存在は大きな救いだ。
「入ってもらって」
アンジュは自ら招き入れると、立ち上がった。
レドモンドは金髪のさらさらな髪に鼻筋の通った綺麗な顔立ちの騎士だった。
茶色の瞳や薄い唇は賢そうに見える。
「王妃さま、ありがとうございます」
「いいのよ、レドモンド。ルドルフの弟という証拠はあるかしら?」
「はい」
そう言われて、彼が出したのは国が発行している身分証だ。
「ありがとう。疑ってごめんなさい。ゼストにきつく言われているの、部屋に入れないようにと」
「そうですか。お辛いですね」
「仕方ないわ」
アンジュはすらすらと、泣き言を言っていた。
どことなく、レドモンドとルドルフが重なって見えてしまう。
「今日は何をしに来たのかしら?」
「近辺の護衛をしろと命じられました」
「そう。ありがとう。セイは何も言っていなかったけど」
「ゼスト王の命ですので」
「そう……」
(聞いてないわ。最近会話も減っているせいね)
ナンを部屋の外に待たせると、改めてレドモンドに見入ってしまう。
ゼストは夜を拒んでから、あまり会話をしてくれなくなっていた。
しょげたように寂しい目をされるものの、何も言わずに出て行ってセイと共に仕事の話をする。自分にも教えて欲しいというとそそくさと二人で逃げ出すのだ。
(幸せに結ばれた、とは言い難いもの)
国内に王妃と前王妃がいて、宮中も穏やかではなかった。
前王妃対現王妃の縮図は免れることなく、臣下たちやメイドたちまでうまく立ち回ることに必死だったのだ。
勿論、アンジュはそれを望んでいない。
謝罪して許してくれるのなら、アーネストに謝罪したいと思うが、彼女は別邸から出てこないのだ。
結局ひとりぼっちで王妃としての勤めを覚えていくしかなかった。
「アンジュ様、どうかされました? ぼうっとして」
「ううん。ありがとう、気が利くのね」
アンジュは微笑んだ。
レドモンドは優しく微笑み返してくれる。
こんな風に当たり前の会話すら最近減ってしまい、些細な言葉でも嬉しく思う。
「レドモンド、ルドルフは元気?」
「ええ。手紙が来ます」
「そう。戦地からの手紙なんて、大変でしょうね。私は何も知らないから。生きていて欲しいけど」
「兄はそう簡単に死にません」
「そうよね」
アンジュはくすっと笑った。
久しぶりに笑っていると思うと、レドモンドが突然現れたことも、神様の思し召しかと思えてしまう。
(そうとう落ち込んでいるから、優しくされると辛いわ)
ふうっと深いため息を吐いた時だった。
レドモンドが近寄ってきて、椅子に腰掛けていたアンジュの手を取り、膝を折った。
そして、手の甲にそっとキスを落とす。
「アンジュ様に忠誠を誓います」
驚いて手を引くと、レドモンドの優しい笑みが自分を包む。
どぎまぎして胸が鳴ってします。
(わ、私。既婚者ですけどっ! 王妃の手に触れるとか、アリッ⁉)
ぎょっと目を見開いてしまい、アンジュはしばらく固まった。
ゼストと身体の関係を持っていないせいで、レドモンドが余計に男に見える。
「今日は、もういいわ」
「ですが、身辺を守れと」
「大丈夫。平気よ?」
アンジュはそう言って、強引にレドモンドから離れようと立ち上がり、離れようとした。
すると、レドモンドから手を引かれる。
「そうして辛い時にひとりで悩まれていたのですね?」
「そうだけれど」
「俺で良ければ、話を聞くので」
「でも、夫婦の愚痴だから」
アンジュはレドモンドを見つめて、作り笑いを浮かべた。
さっきまではルドルフとレドモンドが重なって見えたが、随分お喋りだと感じて、思わず身構えてしまう。ルドルフは寡黙で手を突然引くことなど、非常時以外にしない人だ。
(兄弟でも性格は違うのね)
「俺がアンジュ様の心の支えになります!」
そう言うなり、ぎゅっと抱きしめられた。
「えっ! あの……えっ?」
「こんなに弱ったお姿、見ていられません! 王は何をしているのでしょう!」
「仕事ですが」
当たり前のことを言うと、レドモンドが咳払いをする。
ぎゅううっと抱きしめられる力が強くなり、思い切り胸に顔を押し付ける恰好になって息苦しさを覚える。
「俺なら幸せにするのに!」
「私、結婚しているのでそれは無理よ。全く、オーフィリア国の男の人って皆同じなのかしら? 宮廷で王妃に言い寄るなんて、凄いわ」
ぐぐぐっとかなり力を込めて押し返すと、レドモンドは困ったような顔をする。
「必ず守ってみせます」
「ゼストがいれば安心よ」
アンジュは今のところ、王妃になってそれを一番実感している。
色々と文句を付けたいところだが、側室と違い、王妃になって人権は守られているし、大切にされる。王妃としての勤めを果たさなければいけないが、そんなものは苦痛だとは思わない。
会話は減ったものの、ゼストはセイやナンを通じて色々と気を回してくれている。
「俺なら満足させられる!」
「何をです?」
「あ、いや……なんでもありません」
くりんとした目で見つめると、レドモンドは恥ずかしそうに顔を逸らした。
(王妃になって眼鏡も止めて、髪を降ろすようになったせいかしら? 私も捨てたものじゃないとか?)
アンジュはくすっと微笑むと、レドモンドは頬を染めた。
「お綺麗です。冗談ではありません。本気です」
「そう、ありがとう。でも、そろそろ本を読みたいの。レドモンドだって別の仕事があるでしょ? 私の護衛なら、外に居て頂戴?」
「……はい」
悲しそうに頭を下げてから、レドモンドは部屋から出て行った。
(なんだったのかしら? ルドルフとは大違い。兄弟って似ないのね)
アンジュはそう思いつつ、久しぶりに甘い言葉を聞いて、ゼストとの出会いを思い出す。
あの頃が一番甘酸っぱい経験をしていた。
ゼストもアンジュの為に必死で、自分は必死に抵抗して、恋の醍醐味と言ってもいいだろう。
でも、結婚したらどうだろう。
不倫後の結婚は罪悪感で満ちていた。
少なくとも、アンジュはそうだ。
セイが持ってくるゴシップ記事はアーネストの怒りに満ちているし、恐ろしいことばかり書いてある。
謝罪したい気持ちを抑えているのは、このごたごたな状況で顔を合わせても意味がないと思ったから。
結局、普通に付き合ってから結婚していないせいで、ゼストの私生活を知ることもなかったし、忙しさを垣間見ることもなく結婚した。
ゼストだって、アンジュの気持ちをどこまで分かっているやら。
(考えても無駄。ナンを呼んで、お茶の時間にしましょう)
アンジュはナンを呼ぶと彼女はすぐに来た。
「お茶にしましょう」
「レドモンドはどうでした?」
「ルドルフの弟とは思えない、積極的な人だったわ」
「はい?」
ナンが首を傾げるので、アンジュは口を噤んだ。
彼女はまだ乙女だ。
こんなごたごたした恋愛を聞いたら嫌悪されて嫌われるばかりだろう。
「ナン。私のこと嫌い?」
「いいえ! 一生仕えさせていただきます!」
「ありがとう。そう言ってもらえると、一番嬉しいわ」
アンジュはほっとして、彼女がいそいそとお茶を用意する姿を見つめた。
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