第2話 出会い

「こんにちは。アンジュ」

 突然出迎えられて、アンジュは買ってきた本を思わず落とした。

 足先にしたたかに一番分厚い本を打ち付けて、小さな悲鳴をあげる。

 しかし、そんなことよりもどうして寝室に見知らぬ男性がいるのかが問題だ。

 そして傍にはお付きのメイドのナンがいる。

 頭をフル回転させずとも、勝手に部屋に入れたのはナンだと分かる。

「ナン? 何度も呼んだのよ? この人は誰?」

「この方がゼスト王です」

 ひくっと顔がショールの下で引きつった。

「顔を見せないか。アンジュ。君の噂は聞いている。つまらないものばかりだ」

「ゼストさまにご迷惑をおかけすることではないかと」

 アンジュはショールを更に深く被り、俯いた。

 困ったことに、彼が座るベッドは広くふたりで寝ても問題ない作りになっている。

 布団の上には本が置いてあったり、部屋にも本が平積みされていたりして、綺麗な寝室とは言えない。

 が、ゼストはどう思っているのかはわからない。

 様子を窺いたいが、顔を上げる勇気はなかった。

「勿論だ。この部屋はいい。アンジュの趣味がたっぷり詰まっていて心地よい」

「汚いと仰ってください」

「いや。意外と俺好みだ」

 そう言われて、アンジュはひくひくっと顔が引きつった。

 そうやって女性をその気にさせて、結局、側室は身体しか愛されない。

 いや、アーネストのことだってどこまで本気なのか、最近の噂を聞いているとわからなくなってくる。彼女を真剣に愛していれば、男娼に狂うなんて噂はないように思うのだ。

「ありがとうございます」

 アンジュは努めて冷静に言った。

 しかし、慣れない男性相手に震えそうになる。

「顔は見せてくれないのか?」

 そう言って、アンジュの方に近寄る足音が聞こえてくる。

 後ずさりしながら、目深にショールを被り顔を隠した。

「とても、醜いと言われておりますので」

「しかし、声はとても綺麗だ。今まで来なかったことに腹を立てたか?」

「いえ、そんなわけありませんっ。ゼストさまはアーネストさまのお傍にいるのが一番かと思いますし、私はそれを望んでいるのです」

「ほう……。つまり、俺に抱かれたくはない?」

 ゼストの声が低く艶やかに耳朶に響いてきた。

 怒っているように聞こえてきて、身体を竦ませる。

 男性の心の機微は想像するだけで分からず、怖くてたまらない。

「そ、そういう意味ではっ!」

 するっとショールの中に手が伸びて、顎を持ち上げられた。

 自然と上を向く形になって、ぱさっと布が落ちてしまう。

 目のまえにいるゼストに目を奪われつつ、眼鏡越しに整った顔立ちを見つめた。

 グリーンの切れ長の瞳にさらさらの金髪、鼻筋の通った顔立ちは小説から抜け出たような美男子だ。

 しかしその顔が不思議そうにして、眉間に皺を寄せる。

「丸眼鏡……。ふーん」

「なんです?」

「いや。瓶底眼鏡といい勝負だな。ダサい」

「ええ、ダサい女ですから」

 アンジュは怒りを買わないように、そっと手を払いのけてショールを拾い手に取った。

 俯きがちにして、なるべくゼストに顔を見られないようにする。

「どうして顔を隠す?」

「そんなつもりはございません。顔を見せたじゃありませんか」

「いや、そのショールのことだ。少し過剰じゃないか? それともまさか、自分が男性から好かれるタイプだと?」

 くくっと笑われて、アンジュは頬を染め上げた。

 そんなつもりで顔を隠しているわけではない。

 ただ、言われてみれば自意識過剰ではある。

 しかも、本人を前にして眼鏡のみで顔を隠しているが、ほぼさらけ出しているのだ。

 何も知らないゼストから見れば、ブスが何を自己防衛に必死なんだと笑うだろう。

「失礼ですが、私の育った地域では女性はショールで顔を覆い、婚前まで殿方に見せることは禁じられているのです」

 咄嗟に嘘をついて、もう一度わざとらしくショールを被る。

「聞いたことがない」

「王族だけです」

「だとしても、初耳だ。そう言われると、アンジュの顔が知りたくなるな」

 ぬうっと手が伸びてきて、ショール越しに頬を撫でられる。

 ひくっと身体を震わせながら、嫌悪感を悟られないように必死に振舞う。

 アンジュは側室にいるが、ゼストが大嫌いなのだ。

 こんな風に政略結婚の駒にされたりしているから傍にいるものの、本当は顔を見るのだって嬉しいとは思えない。彼がいくら美形であっても、許せないことが腹の中にくすぶる。

(この国の男って嫌い。一夫多妻制だからって何をしても許されるものじゃないのよ)

「どおした? 厳しい顔で」

「おやめください」

 アンジュは嫌悪をあらわに、手を払った。

 自国は一夫多妻制ではないし、女性の権利は守られている。

 脆弱な国に成り下がってしまったが、それでも、女性や子供は守られていて、治安もいい。

 オーフィリア国とは正反対の国で育ったアンジュにとっては、自分の出来る精一杯のことが、側室に入り、ゼストの傍にいるだけ。

「気に入った」

「え?」

「また来る。アーネストが最近うるさくてな。心の拠り所が欲しいんだ」

 ゼストは手を引っ込めると、寝室から出て行こうとする。

 ふわりと香の香りが鼻先を掠めて、より一層異性を意識させられた。

 さらりと金髪が風で揺れ、寝室を出て行こうとする。

「……あの、お待ちください!」

「なんだ?」

 振り向くと、どこか笑みを称えているような気がした。

「もう来ないでください」

 アンジュはとんでもないことを口走ったと思ったが、ゼストが部屋に来る意味はひとつだけだ。

 身体の関係を持つ為。妻のアーネストがいようとも、オーフィリア国では関係ないことだ。

 不倫は文化。

 この国では昔から言われていて、妻の為に夫が貞操を守る必要はない。

「嫌だと言う女は初めてだ」

「で、ですが! ロイナー国を見放すことはしないで欲しいのです」

「勝手だな?」

「承知でございます……」

「また来る。ロイナーはオーフィリア国とは違い、不倫をすると夫も罰せられるのだったな?」

「両人とも重罪です」

「真面目な国だ。よくこの国と政略結婚させたものだ」

 ゼストは呆れたようにため息を吐きつつ、アンジュを哀れみの眼差しで見つめてくる。

 色気すら漂う瞳に、一瞬アンジュは息が詰まるような想いにさせられた。

 しっかりしろと自分に言い聞かせて、アンジュはゼストをきつく見つめる。

「ですので、もう来ないでください」

「では尚更、その声が啼くところを聞いてみたいものだ」

「啼……く……」

 一瞬意味が分からず、アンジュは呆然と同じことを言っていた。

 クスクスと笑われて、ゼストは説明するようにアンジュの方に近づていくる。

 眼前に彼が立ち、視線を合わせて腰を屈めてきた。

「喘ぐ……」

「あ、え、ぐ……。ひっひぃ!」

 アンジュはゼストから逃げるように後ずさりして、ベッドに尻もちをついた。

 そのままバタバタともがいていると、ゼストは大笑いする。

「その様子だと、処女も守っているようだ。楽しみで仕方ない。アンジュ待っておけ」

「い、いやでございます!」

「側室だろう? ロイナーがどうなってもいいのか?」

 ゼストの目がいやらしく笑った。 

 自分がオーフィリア国に来た一番の意味は、ロイナー国の国力を保つ為だ。

 ここで彼を怒らせることはダメだと分かっているのだが、一年間も処女を守り、ゼストから逃げるような生活を送っていたせいか、自分の身体を求められているのが信じられない。

 しかも、丸眼鏡を掛けて地味な側室だというのに。

「逃げるなと仰るのですか?」

「そう。そもそも、アンジュに逃げるところでもあるか?」

「ございません。ですがっ! アーネスト様が」

「妻のことは関係ないだろう?」

(そ、そうだった。慣れないわ)

 アンジュは奥歯を噛み絞めた。

 言い訳をすればするほど、ゼストは楽し気に笑みを浮かべだす。

 ベッドから起き上がり、アンジュは息を整えてスカートの裾をぎゅっと握った。

 今日のドレスだって使用人が着るような地味なものだ。

 わざわざ着飾ることも止めて、徹底してゼストの目に付かないようにしていたというのに。作戦は失敗した。

「じゃあ、そういうことだから、明日からもう少し綺麗なドレスを着るといい。用意させる」

「自分のものがありますので!」

「どうせ同じようなものだろう? それから、その丸眼鏡。目が悪いのなら魔法で――」

「大丈夫です! 全て自分でどうにかします!」

 アンジュは立ち上がりゼストを強引に部屋から追いやった。

「明日からよろしく」

(よろしく……じゃないわ)

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