少し不思議な5分間 ── 彼女との出会いの時

ぬまちゃん

第1話

 夕日の光が差し込んで来て、教室はオレンジ色に満ちていた。下校時刻を意味する名曲アニーローリーが、彼以外に誰もいない教室に静かに流れ込んでくる。


「最終下校時刻まで、あと五分です。全校生徒は直ちに下校してください」

 録音された放送係の女子の声が、澄んだ音色とともに耳に飛び込んで来る。


 部活動の後かたずけをしていて思いのほか時間がかかってしまった彼は、机の中の教科書を通学リュックに大急ぎで詰め込んでいた。


「きゃっ!」

 どすん……ガタン。


 帰宅を急いで注意力を欠いていたのだろう。振り向きざまに走り出そうとした刹那、彼は真後ろに立っていた女子と鉢合わせしてしまった。彼の勢いに押されたように、彼女はバランスを崩して、そのまま教室の床に尻もちを突いてしまったのだった。


 天使の輪が見えるほど艶やかな黒髪のおかっぱ頭が夕日に当たって色づいていた。彼女がかけているピンクフレームの眼鏡越しに見える彼女の驚きの表情が新鮮だった。色白な肌に浮き上がる鼻にかかるそばかすも、小さな薄い唇も、全てが夕日に染まって輝いて見えた。 


 彼女は、彼が教室で毎日のように眺めている『気になる女の子』だった。


「あ、ごめん。大丈夫?」

 彼は、彼女の表情に一瞬見とれてから、教室の床にペタリと座ってしまっている彼女に手を差し出しながら申し訳なさそうに声をかける。


「ううん。大丈夫。ありがとう」

 彼女は、彼の手を取ってゆっくりと立ち上がると、スカートを軽く払ってから彼に向かって軽くはにかむ。


 教室は、まるで時間が止まったかのように、夕日の光と、彼と彼女の間の微妙な雰囲気で満ちていた。

 教室の中をちらりと見渡した後で、彼女は彼にしか聞こえないぐらい小さな言葉でつぶやいた。


「……君、いつも私のことじっと見てるよね。わたしのこと、気にかけてくれているの?」


 彼は、彼女の言葉に一瞬ドキリとした。

 好きな子をじっと見つめている行為がバレていたのか。でも、そんな事をしてたら嫌われるんじゃないか、だからここは否定した方が良いんじゃないか。彼は一生懸命に考えた。

 しかし、結局自分の気持ちを隠し通せないと思った彼は……顔を少し赤らめながら彼女の視線から目を逸らして床を見つめながら答えた。


「ごめん。君の事が……きになるから。す、すきだから、ずっと見てた」


「ありがとう。本当のことを言ってくれて」

 彼女は、スカートのひだを押さえてそっと彼に近づいて来る。


 彼は、彼女が突然自分に近づいて来るのに戸惑いながらも、彼女が自分に興味を持ってくれたと思い少し嬉しかった。


 彼女は、もう一度教室の中をちらりと見渡した。そして彼ら以外に誰もいないことを確認してから、少し背伸びをするようにして彼の耳元に口を近づけて囁いた。

「実はお願いがあるの……、君とわたしだけのヒミツのお願いなんだけど。聞いてくれるかな」

 

 彼は彼女の大胆な行動に驚きながらも、ゆっくりと頷いた。

「う、う、うん。僕に出来る事なら何でも力になるよ」


「ありがとう……、もうお腹がすいて限界だったの」

 彼女は小さな声で呟いてから、彼の首筋に白くて細い手を回して抱きついた。


 * * *


「え!?」

 彼が一瞬ひるんだ隙に、彼女の可愛らしい小さな唇が彼の首筋に吸い付く。

 それから彼女の口の中にある二本の小さな牙が彼の首筋にズブリという音と共に深々と刺さっていった。


 彼女は彼からゆっくりと血を吸い始めた。彼女が血を吸っている間、彼は体が自分のものでないように感じ、指一本も動かす事が出来なかった。

 しかし、彼女の熱い吐息に合わせて自分の心臓が早くなっている事だけは感じられた。


 ── ああ、そうか ──

 彼女は吸血鬼だったんだ。僕が毎日教室で気にしていた彼女は、実は吸血鬼だったんだ。

 体育の時間では見学が多い、お昼休みもグラウンドで遊ばずに教室内で本ばかり読んでいる彼女は吸血鬼だったんだ。


 彼は彼女に血を吸われていても、不思議に恐ろしくなかった。

 大好きな子にこうやって自分の血を差し出すなんて、自分の血を吸ってくれるなんて、なんて嬉しい事なんだろう。

 それどころか、彼は彼女に血を吸われながら、心の中は不思議な気分で満たされていたのだった。


 * * *


「ねえ! 君、もう下校時間過ぎちゃうよ」

 誰かに肩を優しく揺すられて、ぼんやりとした耳に声が飛び込んできた。



 その声は、いつも教室で彼が遠巻きにじっと見ている事しかできない、彼が気にしている女の子だった。彼女は少し大人びていて人を寄り付かせない雰囲気を醸し出していたし、彼も内気で女性に声をかけるような性格ではなかったからだ。


 そんな彼女から声をかけられて、机に突っ伏して意識を無くしていた彼はおもむろに頭をもたげた。


「あ、ごめんね。ありがとう」

 彼は、起こしてくれた彼女にお礼を言いながら慌てて椅子から立ち上がった。しかし、まだ少しふらつくように、彼は机に手をついた。


「具合が悪そうだけど、大丈夫? 途中まで一緒に帰ろう」

 彼女は、彼の腕にそっと手をかけた。


 彼は、彼女の手のひらの湿り気を自分の腕に感じられて少しドキリとしつつ、彼女を見てうなずいた。


 * * *


 校門は閉まる直前だった。

 彼と彼女は、下校時刻ギリギリに学校を出て表の道を歩き始めた。


「今日はありがとう、僕を起してくれて。でも、いったいどうして机で寝てたんだろう?」

「今日は私も遅くなっちゃって、急いで帰ろうとしたら君が机に突っ伏していたから声をかけたの。良かったわ気が付いて」


 彼は、彼女との会話が初めてなはずなのに、既に会話をした事があるような不思議な気分になっていた。

 しかし、これから彼女と話す事が出来るんだという幸せな気持ちが、それは自分の思い違いだと心の隅に押しのけさせた。


 彼と彼女は、二人で会話しながら駅に向かって商店街を歩いていく。

 しかし、商店街の店のショーケースに写っているのは、不思議なことに彼一人だった。


(了)

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