交渉

 黴雨の時期に近づいているのか、秀鈴の宮である金烏宮は湿気がこもり蒸し暑かった。

 人払いの為に、出入り口の扉は勿論、無双窓や丸窓まで閉め切っている。それ故か、妙に息苦しい。

 いや。息苦しいのは、これから秀鈴に話す事柄とも関係している、とも白陽は思う。


 天雲が己の憤りを白陽にぶつけて数日。

 この日の周易局の職務終了後、白陽は金烏宮にて、秀鈴と対峙していた。天雲の行く末の為に。

 宮の中には白陽と秀鈴、そして秀鈴の側仕えの女官がひとり傍で控えている。秀鈴と白陽は、几を挟み向かい合わせに腰を下ろしている。

 二人の前には、湯飲みに入った茶が置いてあり仄かに湯気が上がっている。

 少しでも息苦しさを払拭しようと、白陽は先ほどから何度も深呼吸を繰り返す。

 その様子を見た秀鈴は、背後に控えている女官をちらりと見やる。

「無双窓を開けて頂戴」秀鈴の指示に、女官が素早く動き無双窓を横にずらす。窓から薄日が差し込み、仄かに明るくなる。


 秀鈴は再度、ちらりと女官に視線を向ける。主の視線で、女官は意図を察したのか、何も言わず宮を後にする。


 通常、内官ではない白陽が内廷に足を踏み入れることは、許されていない。ここにいる誠の男児は国王・皓月とその弟・偃月のみである。

 だが、白陽は天雲の養父という立場上、これまで幾度も内廷を訪れていた。先王・盈月が存命だった頃は盈月に、崩去した後は秀鈴に、天雲の様子を報告してきた。


 重苦しい空気の中、先に口を開いたのは白陽である。

「太后様。我が息子の件で、ひとつご相談したき儀がございます」

 白陽の声に、秀鈴は形のいい眉を動かす。

「恐れながら申し上げます。

 先代の王が崩去され早三年。

 天雲に己の出生の秘密を話しても良いのではないか…と、わたくしは思うております」

 秀鈴の反応を窺うが、彼女は表情を変えず沈黙を貫いている。白陽は静かに話を進める。


「先日、王様の件を天雲に伝え、淡月に向かうよう指示を出しました。ですが天雲は、『自分は都に残り、働き口を探す』と。彼の口振りから、わたくしと同じ官吏の道を歩むつもりかと。

 わたくしはすぐさま、都で働くことや官吏を目指すことは勿論、宮廷に近づくことも天雲には禁忌だと伝えました」

 そこで一旦言葉を切ると、秀鈴の反応を窺う。だが、先程と同じく微動だにしない。このまま話を続けても良いものか…と思案するが、話さなければ秀鈴の了承を得ることは不可能である。

 白陽は話を進める。


「わたくしから、頭ごなしに否定されるとは思ってもいなかったのでしょう。

 『都で働けず、官吏も目指せず、そのうえ宮廷に近づくことも出来ない己は、これからどう生きていけば良いのか』

 『自分の人生は自分で決める。例え、実の父親であろうと口出しをするな』

 と、憤りをぶつけられました」

 その時の天雲の声音や表情、姿を思い出すと今でも胸の痛みに襲われる。

「この二十年。わたくしは天雲の為に…と、様々な策を講じて参りました。皇子として生まれた天雲が、民として生きていけるように。

 都の外れに住み、宮廷から遠ざけ、官吏の登用試験に興味関心を持たぬように、宮廷や政の話は天雲の耳に入れぬように、育てて参りました。

 ですが……」

 白陽の視線が下に落ちる。

「天雲には、わたくしの行動全てが裏切りの行為に見えたのでしょう」

 自虐的に笑い、顔を上げる。真っ直ぐ、秀鈴を見据える。

「天雲は数え二十。この歳になれば、己が何者なのか、何故宮廷に近づくことが禁忌なのか、知りたいと思うのは同然かと存じます。

 いつまでも、誤魔化しが効く子供ではございません。れっきとした、数え二十の一人の青年です。いずれ、己の出生の秘密を数奇な運命を知ることになりましょう」

 白陽の真剣な様子とは裏腹に、秀鈴はけだるげにため息をひとつ。


「何事かと思いましたが、その程度の話でしたか」

 秀鈴は興味なさそうに茶を啜る。

 彼女の発言と態度に、白陽は呆けた表情を見せる。

その程度の話―?

それが、生みの母親から出る言葉なのか―?

 今すぐにでも、声を大にし罵りたい衝動に駆られる。だが、相手が王族まして太后という立場を考え、ぐっと堪える。

「白陽様は勘違いをしていらっしゃいます。わたくしに“天雲”という名の息子はおりません。わたくしの息子は、皓月と偃月のみにございます」

 秀鈴の冷ややかな物言い。

「太后様は、天雲のいえ雲月皇子のご生母ではありませんか。

 ご自分が腹を痛めて生んだ御子を、何故蔑ろに出来るのです?」

 天雲の諱を耳にした刹那、秀鈴は白陽に鋭い視線を向ける。


 天雲が宮廷を出て、白陽の養子となってから彼の諱を知る者は、宮廷内で片手で数える程である。多くの者は、諱おろか天雲の存在すら知らず生活している。

 天雲の存在はそれ程、秘密裏にしなければならない事柄である。


 白陽が身を乗り出し、無意識に手を伸ばす。

「何をなさるおつもりですか」

 白陽の手が衣に触れる直前、秀鈴がさっと身を引いた。


 その声音と行動に、白陽ははっとした表情をしすぐさま手を引っ込める。

 自分がしようとしていたことに、心臓が大きく脈打ち冷や汗が出る。今、銀鏡に自分の姿を映せば、恐らく血の気の引いた白い顔が映るだろうと思案する。

 相手はこの国の太后。その太后が纏う衣を、悪気はないとはいえ一介の官吏が、触れるなどあってはならない。

「太后様。立場を弁えず、無礼を働きました。申し訳ございません」

 白陽は立ち上がり、その場にぬかづく。


 だが、白陽にちらりと視線を送ると、まるで何もなかったかのように、話を続ける。

「構いません。

 わたくしが生母だとしても、既に縁は切れております。

 恐らく二度と会うこともなければ、自分が母親だと名乗り出ることもないでしょう」

 秀鈴は淡々と言う。

「それ故という理由ではございませんが、天雲に出生の秘密を伝えることは反対いたします。

 恐らく知れば、天雲は宮廷と関りを持とうとするでしょう。また万が一、天雲が出生の秘密を知ったと、外部に露見されれば王様を支持する、政派の臣下らが黙っていないでしょう。天雲を王位争いに巻き込み、政に利用するやも知れません。

 また初虧様を支持する政派も、天雲を亡き者にしようと企てるやも知れません。

 どちらにせよ、此度の申し出はなかったことに」

 秀鈴の表情を微塵も変えず、ただ淡々と話す姿を白陽は、怒りを通り越して怖いとさえ思う。

どうして―。

どうしてここまで、冷淡でいられるのだろう―。


 そう思案しつつ白陽は、二十年前あの日。天雲を養子として迎えた日に、思いを馳せる。

 あの日、秀鈴は天雲を断腸の思いで白陽に託した。生みの母がいた証に、と自分が身に着けていた佩玉と共に。大切な佩玉を手放してまで、天雲に自分の存在を伝えようとしていた。盈月とも仲睦まじく息子想いの、慈愛に満ちた優しい妻・母親であったと記憶している。


この二十年で、何が太后様をここまで冷淡に変えたのだろう―。

 二十年前からは、想像できない秀鈴の変化にそう思案する。

養子に出したのだから、既に天雲のことなど関係ないということだろうか―。

お身体の弱い王様を、摂政としてお支えするが故に、余計な情報を入れないようにしているのだろうか―。

噂の王様の退位と関係あるだろうか―。

 だが、幾ら思案しても答えは見つからない。

 恐らく、秀鈴の胸中にしか存在しない。


「用がないのでしたら、お引き取りください」

 秀鈴は冷たく言うと茶を啜る。

 言いたいことは、山ほどある。しかし、今の秀鈴が利く耳を持ってくれるとはとても思えなかった。

 秀鈴との交渉が決裂したことに、悄然とした思いを抱えため息を吐きながら宮を後にした。


 話は天雲が白陽に、憤りをぶつけた晩に遡る。

 昼間、激しい雷鳴と共に降り出した雨は、たちまち叩き付けるような雨音を立て邸の屋根瓦を叩き、景色が白んで見えた。だが、半刻(一時間程)経つと雷鳴が小さくなり、雨も小雨になった。


 白陽は日の入りと共に、宮廷へ向かい邸には天雲と玉惺のみが残っている。

 天雲は自室にて、夜着を着て仰向けに横になり物思いに耽っていた。

父さんは、どうして俺が淡月に向かうことに拘るんだろう―。

俺はどうして、ここにいてはいけないんだろう―。

やっぱり、これが関係するんだろうか―。

 そう思案し、天雲は起き上がり深衣の懐を探る。懐には、誰の物か分からない佩玉が入っている。


 佩玉は月長石げっちょうせき(ムーンストーン)で出来た円状の壁に、紺碧こんぺき色の房飾りの付いたものである。

 天雲が物心ついた頃には、既にこの佩玉を握っていた。

 佩玉は通常、身分の高い女性が襦裙の帯に付けるものである。男性の自分が何故、物心つく頃からこれを握り締めていたのか。

 母が飾り物の類を身に着けていた、という記憶はない。

 ずっと、誰の物なのか気にはなっているのだが、聞けないままである。

 いや違う―と思い直す。

 正確には幼い頃、母に持ち主を訪ねたことがある。

 だが返って来たのは、『これは、貴方を守ってくれるお守り。貴方が健康で長生きできて、嫌なことから守ってくれますように。だから、無くさないようにしなさい』という、なんとも的外れな回答であった。


 その時の母親の口振りから、この佩玉が己の境遇になんらかの関係があるような気がしてならない。

 天雲は佩玉を取り出し、再び仰向けに横になる。

「名前ぐらい記しておけばいいのに……」

 不意に声が漏れた。

 そのまま、意味もなく佩玉を見つめていると、障子戸の外から「天雲」という玉惺の声が聞こえた。

 天雲は佩玉を手にし立ち上がり、障子戸に近づく。戸を開けると、玉惺が天雲の褻衣を抱えて立っていた。

「解れていた所、直しておいたから」

 そう言うと、玉惺は天雲に褻衣を渡す。


 昼間、天雲の褻衣が解れていることに気づき、夜着に着替えた所を見計らって、縫い直してくれていたのである。

 手先が器用な玉惺は、母親が亡くなってから頻繁に、天雲や白陽の褻衣や夜着を時には仕立て時には解れを直してくれている。

 

「ありがとう」天雲は礼を言い、褻衣を受け取る。

 普段なら、長居せずその場を離れる玉惺だが、この日はじっと天雲の顔を見上げている。

昼間の件が、気になるのだろうか―。

 そう思案するが、玉惺の視線が佩玉に向いていることに気づく。

「佩玉が気になるのか」天雲が問えば、玉惺が微かに頷く。

「いや。今でも、持ってるんだな…と思って」

「そりゃ、母さんから大切なものだから無くすなって、耳が痛くなるほど言われてたからな」

 天雲が苦笑いを浮かべる。天雲の言葉に、玉惺は微笑む。


「ちょっと見せて」と言うが早いか、玉惺は佩玉に触れる。

「綺麗……」玉惺が部屋の行灯の灯に、壁を翳す。角度を変えると、月光のような青白く見える。

 暫く、角度を変え壁を眺めていたが、突如手を止め首を傾げる。

「どうした?」天雲が問う。

「天雲。これ、宝相華の花が彫られてる……」

 壁を見つめたまま、呆然と呟く。

「元々は身分の高い方のものだったのなら、壁に何か装飾がしてあっても可笑しくないだろう」

 天雲は軽くあしらうが、玉惺は頭を振った。

「違う」玉惺の低い声。

 先程までの、無邪気な表情とは打って変わって、真剣な瞳で天雲を見上げる。その視線に、纏う雰囲気に、天雲は得体の知れない畏怖を感じた。

「天雲、知らないの? 宝相華の花は―」

 続く言葉に、天雲は息を呑み眼を瞠る。

 その瞬間、周りの音が消え無音になったかのような感覚に襲われる。

「嘘……だろう……」

 天雲の乾いた声が、空虚を揺らした。

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