早暁

 皓月と話をした数日後。盈月は再び、秀鈴の宮を訪ねていた。

 秀鈴と盈月は並んで、寝台に腰を下ろしている。寝台の横にある、篭の中では雲月が穏やかな寝息を立てている。

「そうですか……。皓月には、寂しい思いをさせていると思っております。幾ら今だけだとは言え、母親に自由に会えぬことがどれ程辛いことか……。

 心優しい皓月のことです。きっと、我慢をしているでしょう」

 盈月から、数日前の皓月の様子を聞き、秀鈴は悄然とした口調で言う。


 秀鈴が言い終わるのを見計らったように、雲月が微かに泣き声を上げる。秀鈴と盈月は、お互い顔を見合わせ微笑み合う。秀鈴が立ち上がり、篭に近づきそっと雲月を抱き上げ、優しく揺らす。

 泣き声が徐々に小さくなる。

「一度、皓月を私や雲月に会わせても良いかも知れません」

 雲月を抱いたまま秀鈴が言う。

「だが……」盈月は狼狽し声を上ずらせる。

 雲月の誕生に関して、宮廷内では緘口令を引いている。故に、皓月を秀鈴に会わせることで、雲月の誕生が外部に漏れてしまうことを危惧していた。

「王様が杞憂なさるのも当然でございましょう。

 ですが、皓月が聡い子だというのは、王様も良くご存じのはず。

 こちらが雲月のことを話すなと言えば、皓月は誰にも雲月のことを言わぬでしょう。

 それに、このまま会わずにいれば雲月の存在がなかったことに、なってしまうようで……。雲月がこの世に生を受けたのは事実です。故に、例え一人でも彼の存在を覚えている者がいると、母として嬉しいのですよ。それが、兄である皓月ならばなおのこと。

 わたくしたちが、雲月や皓月よりも長生きすることは、不可能なのですから」

 秀鈴は柔和に笑う。


雲月の存在を、皓月の胸に留めておいて欲しい―。

 それは、盈月も同じ思いである。

「では年が明け、落ち着いた後というのはどうだ。

 勿論、会わせる前に皓月には、他言無用だと言い聞かせ、更には人払いをする必要がある。例え、側仕えの女官や内官だとしても、宮に入ることは許さぬ。

 それでも良いか」

 盈月の厳しい物言いに、秀鈴は「よろしゅうございます」と朗らかに答える。

「皓月にとっても、女官や内官がいない方が、遠慮なくわたくしに甘えられるのではないか、と思っております。

 皓月は穏やかで優しい性格故か、周りに気を遣い過ぎてしまう節がありますから……」

 秀鈴の言葉に盈月は大きく頷く。


 皓月が雲月や秀鈴に拝謁するまでに、盈月としてはやらなければならないことが残っている。

 その男が宮廷に参内したのは、新年を迎え五日程経った頃である。

 既に年明け特有の、荘厳で神聖な空気が薄れ、日常が戻って来ている。蝋梅が咲く季節だが、日差しは麗らかで季節外れの暖かさである。

「新年早々申し訳ない。

 だが、国にとっても生まれた皇子にとっても、このような話はなるべく早い方が良い」

 男を幻雲宮に通し、椅子に腰を下ろすと口を開く。


 男は、生成きなり色の麻の深衣を身に纏い、後頭部で髷を結い白い頭巾で包み、余った布は垂らす、いわゆる緇撮しさつの髪形をし再拝稽首を捧げている。

 盈月は男をじっと見つめる。

 歳は而立じりつ(30歳)を少し超えた程であり、日に焼けた肌と大柄の骨太のがっしりとした体格の持ち主である。


「面を上げよ」低い声で命じる。

 男はゆっくりと顔を上げ、盈月を凝視し直ぐに視線を逸らす。

 顔つきは厳ついが、目元は温和である。

 体格から、怖いもの知らずの肝が据わった者かと思ったが、一国の君主を目の前にしては平然としてはいられぬらしい。

 その人間らしい人柄に、親しみが湧き盈月はふっと口元を緩める。

この者ならば―。

 期待が胸を満たす。


「お初にお目にかかります。

 わたくし暉月きげつにて、養蚕を生業としております白陽と申します。

 どうぞお見知りおきを」

 この白陽と名乗った男こそ、雲月を託そうとしている人物である。


 白陽が住む暉月は、都から見て北西に位置し養蚕が盛んで、良質な絹が取れる地域である。最も養蚕の盛んな地域は、暉月だけではない。他国でも、養蚕が盛んな地域は存在する。

 暉月で取れる絹は上等で宮廷に献上され、更には国外にも輸出される。


「内官があらかじめ文を届けた故、自分がなぜ参内しているのか分かっていよう」

「承知しております」盈月の問いに白陽は、鷹揚に答える。

「そなたには皇子である雲月を大人…いや……」

 盈月はここで言葉を切り頭を振る。

「可能ならば、大人になった後も父親として家族として、雲月の傍に寄り添って欲しい」

 白陽は視線を下に落とす。

なにか疚しいことがあるのだろうか―。

「王様。正直に申し上げます。

 我が家は昨年、待望の長女が誕生いたしました。ですが、我が家は裕福ではなく長女を育てるだけで精一杯で……。とても、皇子様を育てる程の余裕はございません」

 白陽が身に纏っている、深衣の生地と袖が擦り切れていることから、一目で慎ましい生活を送っていることが見受けられる。


 視線を下に落としたままの白陽に、盈月は声を掛ける。

「なにも無償でとは言わぬ」

 盈月の言葉に、白陽は「えっ?」と声を上げ視線を上げる。

「子を育てるのに、金子が必要なことぐらい承知している。余も一人の父親だ。故に、そなたがこの話を了承するのなら、王室は金子を援助しよう。

 そうだな……。五両……。いや、八両でどうだ」

 思いも寄らない提案に、白陽は眼を瞠る。

「それは、一年でというお話でございましょうか」

 白陽は身を乗り出す。

 盈月は頭を振る。

「いや。ひと月八両だ。

 悪い話ではあるまい」

 盈月は笑う。


 月暈国での一両は約八万程。いくら養蚕が盛んな地域で、生業にしているとは言え、ひと月一両と少し稼ぐのが精一杯である。月八両など見たこともなければ、手にしたこともない。

ひと月八両(六十八万)―。

一年で九十六両(八百十六万)―。

 盈月が提示したあまりに高額な額に、白陽は呆けた表情をする。

それだけあれば―。

 白陽の胸に希望が宿る。白陽が微かに頷く。


「その代わり…と言っては何だが、了承をするには幾つか条件がある」

 盈月としては、無償で雲月を渡す気も、大金を援助する気も毛頭ない。全ては、白陽が条件を呑むかどうかにかかっている。

「一つ目。皇子に通称、言わばあざなを付けよ。

 雲月という名は、余と王妃、そして兄である皓月のみが知るいみなだ。宮廷の外で、民として暮らすのなら字は必要不可欠だ。勿論、この場で決めよとは言わぬ。引き取る時までに思案して欲しい。

 二つ目。皇子を引き取った暁には、そなたを周易しゅうえき局の官吏として登用したいと考えている」

「王様。ひとつよろしいでしょうか」

 盈月の言葉を遮る。盈月は視線で水を向ける。

「それは、わたくしに登用試験を受けよと仰せでございましょうか」

 官吏に登用されるには、三年に一度行われる登用試験に合格するか、同じく三年に一度行われる童試と呼ばれる、官吏の養成機関への入学選抜を突破するしか術はない。

 童試はともかく、登用試験は難易度か高く、一次試験である郷試の倍率は百倍に迫るという。とても、一度の受験で合格など夢のまた夢である。

 

 今日まで、童試とも登用試験とも無縁の自分が、今から勉学に励んだところで、合格するのは一体いつになるのか―。

 途方もない年月に思え、白陽は軽くめまいを覚え天を仰ぐ。


 盈月は頭を振る。

「いいや。そうではない。

 余は登用試験無しで、そなたを登用しようと思案している。勿論、養蚕の生業を続けても構わない。

 先程余は“王室が金子を援助する”と言ったが、正確には援助ではなく給金だ。ま、給金にしては払い過ぎだが、大切な皇子を託すのだ。多少は良いだろう」

 朗に盈月は笑うが、白陽としては“給金を多めに出す代わりに、皇子を引き取り育て、更には外廷勤めをせよ”という、そんな生ぬるい事ではないだろうと思案している。

 恐らく、監視をするつもりなのだ。大切な皇子が健康に育っているか。そのために、外廷という己の手が届く場に留まらせる。月の満ち欠けや、星の動き、月蝕・日蝕の有無を占い、国政に関わる周易局ならば、盈月に謁見する機会も多くなる。

 周易局での勤めは、日没から夜明けまで。故に、空いた時間で養蚕を続けることは不可能ではない。


 盈月の思惑に、刹那迷いが生じる。が―。

 盈月が提示した大金の額に、心が動いたのも事実。また、国王の口から出た頼みや条件は、言わば王命と同意である。背いた場合、謀反と見なされる。

 白陽は思惑を受け入れることにした。


 盈月が神妙な顔をし、再度口を開く。三つ目の条件が最重要なことである。

「三つ目。皇子には成人を迎えても、己の出生の秘密を明かさぬこと。勿論、家族や親戚にも。更に、皇子が宮廷に関わることは勿論、官吏の登用試験や童試を受けることも禁ずる。

 皇子の出生の秘密が露見した場合、そなたの命はないと思え」

 盈月は声を低くし、脅しとも取れる忠告をする。

 

 白陽に雲月の出生の秘密を明かすこと、更に雲月が宮廷に関わることを禁じたのは、宮廷に関われば否応いやおうなしに、王位争いに巻き込まれることを危惧してのことである。

 幾ら民として、宮廷から出て生活するとは言え、雲月が皇子なのは事実。恐らく、宮廷に近づいた時点で、規則を無視し雲月を王位継承者に担ぎ上げる輩は、必ず存在する。規則を無視することは、宮廷や王室の秩序を乱すことに繋がる。

 盈月は君主として父親として、雲月や宮廷、王室の秩序を守る義務と責務がある。


「承知いたしました。

 今この瞬間からわたくしの命は、王様のものでございます。万が一…ということがあれば、喜んでこの命を王様にお渡しいたしましょう」

 外の麗らかな日差しとは裏腹に、白陽の口から出た言葉はくらい。

 白陽の申し出に、盈月はほくそ笑んだ。

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