《Ⅵ》もう一度、お手を取ってもよろしいでしょうか、お嬢様

 カレンが聞いていた声が幻聴でなかったのであれば、クォードは『一時間以内に、「東の賢者セダカルツァーニ」を「音無おとなしの離宮」まで持ってこい』と言っていたはずだ。さらには『要求に応じない場合、こいつの命はないと思え』とも言っていたと思う。


 だが実際の所、もしかしたら一時間を多少過ぎてもカレンの命は持つかもしれない。


「ちょっとクァントぉ、ここって時計ないのぉ~?」

「懐中時計くらい持っとけ! 大人のたしなみだろうがっ!!」

「アタシ、いつまでも心は子供でいたいのよぉ。ここ、皇族所有の離宮なんでしょぉ? 柱時計なり置き時計なり、ひとつやふたつあってもいいじゃなぁい!」


 カレンが意識を取り戻した時、聞き慣れてしまった不機嫌な声と聞き慣れてしまいたくないオネエ口調がそんなやり取りをしていたので。


「そんな不都合を感じるなら、時計がある場所を本拠地にすりゃあ良かっただろ」


 そっと己の状況を確かめると、カレンは椅子に座らされた状態で体をいましめられているようだった。引き千切られないようになのか、見るからに重そうな鎖で巻かれて椅子の背に固定されているらしい。案外これくらいの鎖なら身体強化で引き千切れるのではないかと思ったのだが、ご丁寧に魔力封じまでかけられているのか鎖はびくともしなかった。魔力が封じられた状態でも並の令嬢よりは力があると自負しているカレンだが、あくまで比較対象は『並の令嬢』であるから、さすがに膂力だけで鎖を引き千切ることはできない。


「だぁってぇ! コッソリ準備をするなら普段人が寄り付かない場所が良かったんですものぉ!」


 続く言葉にカレンはソロリと周囲を見回した。


 石造りの優美なアーチ型の窓にはレースのカーテンがかけられ、淡く光が差し込んでいた。磨き抜かれた寄木細工の床の上で弾けた光が燐光となって空間の中を転がっているようにも見える。高めに取られた天井から下がったシャンデリアと、柱にそれぞれしつらえられた照明と水晶による装飾が光を拡散して、灯りがなくても驚くくらいに部屋の中は明るい。


 ただただ溜め息が出るほどに美しいその空間が、ここ数年使われずに放置されてきたことをカレンは知っている。


 ──信じたくなかったけど、本当に離宮に拠点を作ってたんだ……


 音無の離宮、水晶の間。……カレンが皇宮魔法使いの特権でルーシェから借り受けて引き籠もっている離宮の、3階にあるダンスホールだった。


 ──確かにここなら掃除くらいしか来ないだろうから、潜伏するにはうってつけだよね。


 カレンが引き籠もるまで歴代国主の休養のために使われていた音無の離宮には、夜会を開催するためのきらびやかな空間や、国主が快適にすごすための贅を尽くした空間も用意されている。だがカレンに離宮が下賜されてからはそんな行事ともとんと縁がない。そこそこに広い離宮はカレンにとっては無駄な空間にあふれていて、その上カレンは離宮の使用人の数を絞っている。カレンの性格と使用人の日々の動きを観察していれば、人目を衝いて普段使われていないエリアに潜伏することは難しくなかったはずだ。使用人の誰かを抱き込むなり、手の内の者を新規使用人の中に紛れ込ませればよりスムーズに事は進んだに違いない。


 ──多分、かなり前々から仕組まれてる。


 カレンはスッと瞳をすがめると、クォードにやいのやいのと言い続けるジョナを見据えた。


 ──全部解決したら、一回しなくちゃ。


 そんなカレンの視線に気付いたのか、振り返ったジョナがカレンを見遣る。カレンと視線を合わせたジョナは、状況にどこまでも似つかわしくない華やかな笑みを浮かべた。


「あら? お目覚め?」


 一方クォードはジョナの言葉にピクリと微かに肩を震わせた。それからゆっくりカレンの方を振り返った顔に表情らしい表情はない。


「ご機嫌いかがかしら? オヒメサマ」

「……離宮のみんなをどうしたの?」

「あぁらぁ! まずは臣下の心配? 思っていた以上に君主としての器量があるじゃなぁい! 感心しちゃったぁ!」


 カツ、コツ、と革靴のヒールでダンスホールの床を叩きながらジョナはゆっくりとカレンへ歩み寄ってくる。肉食獣が確実に狩れると確信している獲物をいたぶるかのような間合いの取り方だ。


「安心してちょうだい。みぃんな、普段通りに働いてるわ。アタシ達が今ここでこうしていることは、離宮のみんなは気付いていないことなのよ」


 ──何が『安心してちょうだい』よ。


 そんなジョナを無表情のまま見上げて、カレンは内心だけで毒づく。


 ──つまり『下手に動けば離宮にいる人間の命は保証しない』ってことじゃない。


 ダンスホールの中にいるのは、カレン達三人だけではなかった。


 広いダンスホールの中には今、明らかにこの離宮の使用人ではない人間がワラワラと散らばっている。何かを準備している者、囁きあっている者、ただ立っているだけの者と様子は様々だが、全員が武装している上に、ダンスホールの所々に爆薬まで積まれているのが見えた。万が一離宮の人間にこちらの存在を覚られたら即刻離宮を制圧する気であることがパッと見ただけで分かってしまう。


「伯母様……陛下は、私情と国政を天秤にかけたりしない」


 それでもカレンはひるまなかった。


 真っ直ぐにジョナを見据えたまま、ただ淡々と事実を口にする。


「私を人質に取った所で、陛下は『東の賢者』を渡したりしない」


 時流系魔法具『東の賢者』。


 はるかいにしえの世から『手に入れた者は古今東西を統べる王となる』とまで謳われた、最強の魔法具にして魔術具。それは一冊の本だとか、小さな箱であるとか、はたまた人の形をしているだとか、伝承が伝わる国や時代によって伝えられている形は様々だ。ただ『手に入れれば叶わぬ願いはない』という言い伝えと『どうやら最近はアルマリエのどこかに存在しているらしい』という話だけはどこで聞いても共通していた。


 その『東の賢者』をルーシェが所有しているということをカレンは知らなかったが、知った所で驚きはない。強大な魔法具……『魔法道具』の域を越え、ただのヒトでは扱えなくなった代物は、世間にあっても人々を不幸にしかしない。そんな魔法具を所有することで己の支配下に置き制御することも、強大な力を持つ魔法使い達が負う役割のひとつだ。


 だからこそ、ルーシェが本当に『東の賢者』を所有しているならば、そう易々と誰かに譲り渡すとは思えなかった。ましてや相手は国際的に危険視されている秘密結社『ルーツ』。渡してしまったら最後、彼らが何をしでかすか分かったものではない。


「あらん? それは分からないじゃない」


 カレンは絶対の自信を持って言い切る。だがジョナはそうとは思っていないようだった。


「だってアナタ、次期女皇なんでしょ? アルマリエ皇族は強大な魔法使いの血筋。そもそも子供が生まれにくい血筋の中で、さらに力が強い子供が生まれる可能性って、そんなに高くはないんじゃなぁい? 現に先代女皇はそこら辺の魔法使いに劣る実力だったって話じゃない。アナタという存在はアルマリエ皇宮にとって簡単に切り捨てるには惜しい存在であるはずよぉ?」


 ──そこまで知ってるのか、このオネエ。


 カレンはとっさの切り返しが思いつかなくて口ごもった。ジョナの言葉は、確かにアルマリエ皇族の正鵠を射ている。


「……『東の賢者』を手に入れて何をするつもり?」


 反論が見つからなかったカレンは問いの矛先を変えた。そんなカレンの内心が読めたのかジョナの笑みが厭らしく歪む。


「アタシ達『混沌の仲介人ルーツ・デ・ダルモンテ』の望みはね、オヒメサマ。魔術の原則を越えることにあるの」

「……魔術の原則を、越える?」

「そうよぉ! 魔法と魔術が袂を分かつ前の原初領域への回帰、と言ってもいいかしらぁ」


 魔法と魔術は、似て否なるモノ。だが世界のことわりに働きかけて不可思議なことを起こすすべということに変わりはない。


 己の身に流れる魔力の特性を活かし、世界の理を曲げるのが魔法。世界の理へアクセスする鍵として術式を用い、世界の理を増長・抑制するのが魔術。魔法は無から有を生み出すことができるが属性の縛りから自由になることは許されず、魔術は属性の縛りを受けないが無から有は生み出せない。


「でもその原則はね、『魔法』と『魔術』だから発生するのよ」


 魔法使いならば、あるいは魔術師であるならば、無意識の内に刷り込まれて、疑うことさえしない大原則。


「全てがいっしょくただった『始原の混沌』には、そんな制約はなかったの」

「その『始原の混沌』を手に入れて、あなた達は何がしたいの?」

「何がしたいかなんて分からないわぁ。アタシはただそれを素敵だと思うだけ。『魔法』も『魔術』も扱う者として、ね」


 その言葉が本心なのか、カレンの言葉をかわすための建前だったのかは分からない。


「もっとも、クァントはそうじゃないみたいだけどぉ?」


 そして続いた言葉がカレンの意識をジョナからそらすためのものなのか否かも、カレンには分からなかった。


「なんたってこの子、『東の賢者セダカルツァーニ』を手に入れるためだけに組織にいたようなものだしねぇ?」

「えっ……」


 どこからか驚愕の声が聞こえてきた。


 一瞬遅れて、それが自分の唇からこぼれた声であったことをカレンは知る。


 ──『東の賢者』のために、クォードは『ルーツ』にいた?


「この子、元は由緒正しき国家お抱え魔術師なのよ。それこそ生まれながらの才に目をつけられて、万が一にも逃げられないように暗ぁい塔の中に幽閉されて育ったくらいにはね。『カルセドアの至宝カルセディアン・ザラスティーヤ・クァント』って呼び名がその全てを物語ってるわよねぇ!」


 普段はとことん仕事をしないくせに、こんな時に限ってカレンの表情筋は真面目に仕事をしているようだった。あるいは、ジョナが無駄に相手の表情を読むのがうまいのか。


 カレンの驚愕を敏感に拾い上げたジョナは嬉々としてクォードの真実を語り始める。


「おまけにこの子、忠義が深いったら。カルセドア王国はだいぶ前に一夜にして滅んだ魔術大国だったんだけどねぇ、クァントはそれを一人で復活させようと頑張ってきたのよ。亡き主家のために人生を捧ぐ。イヤァン、忠臣のかがみよねぇ!」

「……10年だ」


 不意に、低いのによく通る声が囁くように呟いた。


「国を亡くして10年。……ただただもう一度、我が王に会うためだけに生きてきた」


 ジョナの向こう。立ち上がって歩いていけば10歩足らずで埋められる距離。


 その距離の向こうに立つクォードが、今はこんなにも遠い。


「全ては、あの光景をもう一度見るために」


 ──あぁ、そっか。


 以前、疑問に思ったことがあった。


 公爵家令嬢として、次期国主候補として育てられたカレンから見ても教養が深かったクォード。完璧に執事業務をこなし、何においても優秀で、魔術師としてもずば抜けた才能を持っているクォード。


 そんなクォードは、どんな人間として生を受けたのだろうかと。生まれながらに秘密結社幹部であったはずがない。どのような素地を持ち、どのように育った人間なのだろうかと。


 ──全部、亡き主のためだったんだ。


 カレンのために淹れてくれたお茶も。カレンに叩き込んでくれたマナーも。カレンのために動いてくれた何もかも。


 本当は、本来の主に尽くすために覚えたことだったのだ。本来の主である、『カルセドアの至宝カルセディアン・ザラスティーヤ・クァント』の所有者であったカルセドア王とその家族のためのものだったのだ。


 ──国が消えてしまっても、主が死んでしまっても……クォードの本当の主は、カルセドア王なんだ。


 魔術師として高い実力と矜持を持っているはずであるクォードが、敵であり、己を失墜させた元凶である相手に執事としてかしずくという屈辱を受け入れてまで生き延びたかった理由。秘密結社の一員として半生を捧げた理由。その全ての根底にカルセドア王への忠誠があったのだ。


 ……だから、クォードは。


 ──だから、どんな時でも、誇りと自信にあふれてたんだ。


「っ……」


 ぼんやりと視界がぼやけて、雫が頬を伝っていった。そんなカレンを見てジョナが愉悦に歪んだ笑みを浮かべ、クォードがわずかに目をみはるのが分かったが、カレンにはなぜか涙を止めることができなかった。


 悲しい、でもない。悔しい、でもない。怒りでも切なさでもなくて、……自分が何に涙を流しているのかさえ、カレンには分からない。


 ただ、意味が分からない独白だけが、胸の中を転がっていく。


 ──クォードの中に、『私』は、いなかったんだね。


 なぜそんなことを自分が思ったのか、分からなかった。


 いなくて良かったはすだ。だってカレンはクォードの存在をいとっていたはずなのだから。裏切られたも何も、クォードが敵だということは分かっていたはずだ。それが晴れて事実だったと分かったのだから、清々と断罪の刃を振り下ろしてそれで終わりにできるはずなのに。


「なんで……」


 なぜ、そんなことを思って、自分は泣いているのか。


「なんで……っ!!」


 なぜ、そんなことを、自分は思うようになってしまったのか。


 自問自答の答えは出ない。


「失礼します」


 出るよりも先に、場の空気が変えられてしまったから。


 不意にドアの開閉音と涼やかな声が空気を切り裂く。それは『ルーツ』側にも不測の事態だったのか、ジョナとクォードの顔が揃って驚きに染まり、バッと視線が声の方へ飛んだ。


「『ルーツ』の方が指定した場所は、こちらで間違いないでしょうか?」


 最後にカレンが顔を上げる。


 そのままカレンは大きく目を瞠った。


「ご指定通り、『東の賢者セダカルツァーニ』が来てあげましたよ」


 うなじでひとつにくくられているのにピンピンと気ままに跳ねる焦げ茶の髪。常ならば穏和で知的な色を湛えている銀の虹彩が散る瞳は表情をなくして剣呑に細められていた。


 長く裾を引く漆黒の衣装はアルマリエ皇宮第一位ウァーダ魔法使いの正装。東方の民族衣装の形が取り入れられた特注の装束は上から下まで漆黒で揃えられており、唯一上着の下に重ねられた袖付きベストのボタンホールを彩る懐中時計の金の鎖だけが光を反射している。右肩から左腰へかけられたベルトは背中に背負った魔導書グリモアを固定するための物だ。顔付きは二十歳ハタチ前の青年に見えるのに、身にまとう空気はどこか浮世離れしていて、極東の神話に出てくる『仙人』を彷彿とさせるものがある。


 唐突に現れた青年は、カレンと面識がある人物だった。


「伯父様……!?」


 カレンの義理の伯父にして、ルーシェの夫。


 アルマリエ皇宮奥深くに引き籠もっていて滅多に姿を表さない人物が、なぜか不機嫌を顔一杯に広げてそこに立っていた。


 ──え? え? 何で伯父様が? この一件に伯父様は関係ないはずじゃ……そもそもこの一件以外にも関わり合いになることがないはず……


 女皇夫という立場にありながら、セダは一切まつりごとには携わっていない。ルーシェ曰く、『セダの興味は妾個人にしかない』とのことで、『女皇』にも『女皇夫』にもセダは興味がないそうだ。よって対『ルーツ』戦にセダが自分から乗り出してきたとは考えにくいし、セダを溺愛しているルーシェがそんな現場にセダを投入してきたとも考えにくい。『ルーツ』側は唐突に現れたこの青年の立場が分からず困惑しているようだが、セダの立場と背景が分かっているカレンはもっと混乱している。


「いいっ加減、我慢の限界です。これ以上こんな羽虫どもに僕とルーシェの時間を削られるなんて、我慢ができません」


 一歩、二歩とダンスホールの中に踏み込んだセダが体に回ったベルトを外す。支えを失った魔導書グリモアは鈍い破砕音を立てながら床に落ちた。床に立てて置いた時の上端がセダの胸下辺りまである魔導書グリモアは重量も相当あるようで、見事な寄木細工の床が一部えぐられている。


 ここまで来てようやくセダがルーシェの関係者だと分かったのだろう。愉悦の笑みを浮かべたジョナがヒールを鳴らしながら前へ出る。一方クォードはわずかに眉をひそめると一歩後ろへ下がった。


「ルーシェ陛下ったら、やっぱり約束を守ってくれたのねぇ! さぁ、その魔導セダカ……」

「気安く『ルーシェ』って呼ばないでくださいよ」


 もしかしたらクォードは、執事に落とされた期間に危機察知能力を上げたのかもしれない。


「貴方方の何もかもが不愉快です」


 セダの左腕がスッと魔導書グリモアの上端を撫でる。その瞬間、ポウッと銀の燐光を纏った魔導書グリモアが宙を滑り、ひとりでにセダの前でページを広げた。


 瞬間、急激に高まった場の緊張が一気に弾ける。


「離宮ごとふっ飛ばすとルーシェに叱らるので、とりあえず穏便に消えてください」

「っ!!」


 ──マズい……!!


 カレンの警鐘が最大音量で鳴り響く。とっさに体を跳ねさせたが木製の無駄に豪華な椅子に鎖で縛り付けられたカレンの体はびくともしない。さらに最悪なことにカレンとジョナとセダの立ち位置がほぼ直線上に並んでしまっている。


「第一章、解錠。第三節から第五節にかけて起動」


 ──何とかしないと……っ!!


 全身を使って椅子を揺すってみるが、魔力対策だけでなく物理対策までしてあったのか、椅子は多少揺れるだけでガタつくことさえない。完璧にカレンの身動きは封じられている。


 ──詰んだ……!!


 ザッと血の気が下がる。


 その瞬間、気忙しく自分に駆け寄ってくる足音をカレンは確かに聞いた。


「普段の馬鹿力はどこ行ったんだ引き籠もりっ!!」

「対象の時間流を1000倍に加速」


 カレンの視界が横へ綺麗にスライドする。同時に、銀の燐光が景色を薙ぐように走った。魔導書グリモアから浮かび上がった文字とともに景色を引き裂いた燐光が消えた後には、残滓に舞い散る砂と光が走った軌跡に沿ってごっそりとえぐられたダンスホールが現れる。


「な……」


 クォードの声がすぐ耳元で聞こえた。見上げればクォードはカレンをかばうように半身をカレンの前に置き、片手を椅子の背に置いて体をひねって光が通り抜けた先を見つめている。どうやら駆け寄ってきた勢いをそのままぶつけてカレンを椅子ごと移動させてくれたらしい。


「あぁ……あぁ……っ!! すっごいっ!!」


 クォードとカレンが呆然とする中、奇跡的に直撃を免れたのかジョナが恍惚とした顔で歓声を上げていた。ジョナが纏うローブも右側の裾が跡形もなく引き千切られている。


「アナタが規定した範囲の時流を1000倍に加速させたのねぇっ!! たったそれだけの呪文スペルでっ!! すごい! すごいわぁっ!! その魔導書グリモア……『東の賢者セダカルツァーニ』があれば、こんなに簡単にそんなことができてしまうのねぇっ!!」


 ──時流を1000倍に加速? それって、つまり……


 遅まきながらあの一瞬で何が起きたのか理解したカレンは全身から血の気が引くのを感じた。


 ──あの砂は、劣化して風化した、なんだ。


 ダンスホールだけではない。どんな物でも、どんな人でも、あの燐光に巻き込まれたらああなってしまうのだろう。悠久の時の流れに放り込まれたら最後、容赦ない流れに抗えるモノなど何もないのだから。


 間違いなく、一撃必殺。


 魔力をぶつけて相殺しようにも、セダが操る魔法は『時流』を司る。どんな魔法を以って相対しようとも、セダは時流を操って効力を無効化できてしまうのだから打つ手がない。


「あぁ、欲しい! 欲しい!! 欲しいわぁっ!!」


 その悪条件をジョナが理解できていないとは思えない。だというのに野心にあふれる秘密結社の上級幹部は興奮に顔を歪めていた。


「寄越しなさいよ! その魔導書グリモア!!」


 ジョナの体が跳ねる。それに相対するセダはただ軽く腕を振るっただけだった。たったそれだけでまた全てを無に帰す時流の刃が走る。


「ざぁんねぇん」


 確かにその刃がジョナを捉えたように見えた。だが笑みとともに叫んだジョナはセダの死角を衝く位置から姿を表す。身体強化と一種の時流魔術を使っているのかもしれない。


「これはいただいていくわぁ!」

魔導書程度そんなもの、いくらでもどうぞ?」


 伸びたジョナの手がセダの眼前に浮かぶ魔導書グリモアを掴んで己の腕の中に引き寄せる。


「貴方、何か勘違いしているようですが」


 目的の品を手に入れたジョナの顔が笑みに歪む。だが悪魔のような笑みを見てもセダの冷めた顔は微塵も動かなかった。


魔導書それは、貴方が要求してきた『東の賢者セダカルツァーニ』ではありませんよ?」


 パチンッとセダの指が鳴らされる。その瞬間、ジョナが腕に抱きしめた魔導書グリモアはボッと炎を上げて燃え上がった。セダの時流刃をかわしきったジョナもさすがにこれは予想外だったのか、ジョナの全身は一瞬で炎に包まれる。


「あああああっ!!」

「っ!?」


 なぜかその瞬間、カレンを庇ったクォードの体がビクリと跳ねた。まるで予期せず背中に焼印を押し当てられたかのように。


「……っ、ぁ……っ!?」


 カレンが慌ててクォードを見上げるとクォードの顔は苦悶と驚愕と疑問で歪んでいた。なぜ自分がこんな反応をしているのか自分でも分からないといった顔だ。


「……クォード?」

「ちょっ……と! この魔導書グリモアが『東の賢者セダカルツァーニ』じゃないって言うなら、なんだってのよっ!!」


 カレンは疑問と不安を混ぜてクォードを呼ぶ。


 その向こうで怒号が響き渡った。


「アンタさっき『東の賢者セダカルツァーニ』を持ってきたって……っ!!」

「言葉は正しく聞き取ってください。僕は『持ってきた』とは言っていません」


 炎に巻かれたものの一瞬で鎮火に成功したのか、ジョナは思ったより軽傷で済んでいた。纏う衣服も桃色の髪も盛大に焦げているが、五体満足のまま目をギラつかせてジョナはセダと相対している。


「僕は、『「東の賢者セダカルツァーニ」が』って言ったんです」


 そんなジョナを前にしても、セダの表情は変わらなかった。むしろ今の方がセダは冷めた瞳をジョナに向けている。『まだ分からないのか』と言いたげなセダの瞳に宿っているのは、虫ケラを見るかのような蔑みだった。


「分からないならば、懇切丁寧に教えて差し上げましょう」


 それでもセダは、ジョナに向かって優雅に一礼してみせた。流れるような所作はアルマリエ皇宮魔法使いの礼儀作法に則った儀礼式だ。


「僕の名前は、・エドアルフ・ロッペンチェルン」


 所作はどこまでも美しくこの上なく完璧なのに、ここまでありありと相手を見下す礼が取れるのかと、惚れ惚れしてしまうような一礼だった。


「アルマリエ帝国第18代女皇ルーシェ陛下の夫にして、ルーシェ・コンフィート・オズウェン・アルマリエに所有される魔法具。アルマリエ皇宮第一位ウァーダ魔法使いにして、極東において我が名を知らぬ者はない魔術師。始原の混沌を友とし、時流に遊ぶ者」


 優雅な挙措で頭を上げたセダは、その優雅さにあまりににつかわしくない冷たい瞳で世界の全てを睥睨する。


「そんな僕を指して、人は僕のことを『東の賢者セダカルツァーニ』と呼びます」


 一瞬、セダの声に怯えたかのように世界から全ての音が消える。


 そんな静寂を破ったのは、やはりと言うべきか、狂気に浮かされた男の声だった。


「まさか……アンタ、生ける魔法具アリッシーア……っ!?」


 生ける魔法具。それはヒトの規格に収まらなくなった魔法使いにつけられる、畏敬の名であり蔑称だ。歴史の中には何人か、『生ける魔法具』と呼ばれた魔法使いが存在している。


 ──ううん、『歴史』じゃない。『伝説』だ。


 セダが本当に『生ける魔法具』……『東の賢者』であるならば、セダははるか伝説の舞台となった時代からこの世界に存在しているということになる。


 ──伯母様が伯父様を表に出さないはずだ。


 ルーシェは恐らくセダの素性を隠匿するために意図的にセダを表には出してこなかったのだろう。


 ──だって伯母様は、一人の人間として、伯父様のことを深く深く愛しているから。


 同時に、なぜこのタイミングでセダがここに乗り込んできたのかも理解できてしまった。


 単純に、『ルーツ』の存在が邪魔なのだ。『東の賢者』を求めて『ルーツ』が暗躍しているせいでルーシェが対策に時間を取られ、セダと一緒にいられる時間が減っていたに違いない。ならば原因になっている自分がとっとと乗り出してルーシェの手を煩わせている羽虫を叩き潰した方が効率的で一番早くて効果的、と考えたのだろう。あまりセダとは接点がないカレンだが、普段ルーシェから嫌になるほどセダの惚気は聞かされているので、セダが考えそうなことは何となく分かってしまう。


 ──それでも伯母様が何とか押さえてたと思うんだけどなぁ……


 つまりルーシェが押さえ付けておける限度を越えてセダは怒っているということだろう。先程本人も言っていた。『いいっ加減、我慢の限界です』と。


 ──そんな実力者が本気でキレたら世界が終わる……!!


「うふっ、あはははっ!! サァイコォ〜!!」


 カレンは血の気を失ったままガタガタ震える。だがやはりと言うべきか、ジョナは一切恐怖を見せずに笑い始めた。その狂った笑い声にカレンはさらに体を振るわせる。


「アタシ、ますます『東の賢者セダカルツァーニ』が欲しくなっちゃったわぁっ!!」

「僕はルーシェ以外に所有されるつもりはありません」

「略奪愛ってことぉ? 興奮しちゃうっ!!」


 ジョナは高く掲げた指をパチンッと鳴らした。それを合図に部屋に散らばっていた人間が統制の取れた動きでセダの包囲に乗り出す。ある者は武器を構え、ある者は魔力を放ち、ある者は仕掛けられた爆薬を起動させる。


「面倒くさい」


 だがその全てが、セダには無効だった。


「もういっそ叱られてもいいから、離宮ごと全部更地に還そうかな」


 軽く、右腕を一振り。その軌跡に銀の燐光が舞う。


 たったそれだけで、ダンスホールにひしめいていた人間の大半が消えた。今度はどれだけの時流に揉まれたのか、残滓の砂すら残さずに人も物も掻き消える。雑多な人間が発動させようとしていた魔力の痕跡さえ、時間流に喰われて消えていた。


 ダンスホールの空気を恐怖が染め上げる。カレンが初撃で感じた恐怖をやっとそれぞれが理解したのか、残された人間は各々がジリッと体を下げた。


 そんな中でジョナだけが狂気に満ちた笑みとともにセダに躍りかかる。


「そうこなくっちゃあっ!!」


 ジョナの手にはいつの間にか大振りのナイフが握られていた。その刃をジョナは一切躊躇うことなくセダへ振り下ろす。セダは体を捌いて刃を避けると指先をジョナへ向けた。その指先から光の弾丸が打ち出されるが、ジョナは被弾しても一切動きを止めずにセダを斬りつけ続ける。


「っぁ……!!」


 代わりに、またクォードの体が跳ねた。まるでクォードの方がセダの攻撃を浴びているかのように。


「そ……ゆー、こと、かよ……っ!!」


 カレンは息を詰めてクォードを見上げる。だがクォードはカレンに表情を見せるよりも早くカレンの後ろに回った。椅子の背面で纏めて縛り上げられていたカレンの腕がグイッと無理やり左側へ寄せられ、カレンの肩に痛みが走る。


「ぃっ!?」

「一瞬耐えろ」


 突然の暴挙にカレンの呼吸が引きれる。その瞬間、耳をつんざく爆音と衝撃が走り、両手を拘束していた圧が消えた。同時に全身を巡る魔力と世界に流れる魔力が同期を始める。


「クォード……?」


 振り返ると、カレンの背後に立ったクォードは片手にリボルバーを携えていた。その銃口から薄く硝煙が上がっている。どうやらカレンを縛り上げていた鎖と魔術を魔弾で破壊して助けてくれたらしい。


「後は自分で何とかしろ。俺はもう、お前が行く先にはついて行ってやれねぇから」


 見上げた先にあったクォードの顔には、何かを吹っ切ったような笑みが浮かんでいた。


 その唇の端から一筋、鮮血がこぼれ落ちる。よく見ればダラリと下げられた左腕の先にはめられた白手袋はジワリジワリと赤く色を変えていた。


「く、クォード……!!」

「どれだけ他の道が俺の前にあっても、俺の過去は俺を許さない。……許されたいとも、他の道を選びたいとも思えない」


 カレンの顔から違う意味で血の気が引く。思わずカレンはクォードに手を伸ばしたが、カレンがクォードに触れるよりもクォードが一歩体を引く方が早かった。


 愕然とクォードを見上げるカレンを見つめたクォードが、状況に似つかわしくない柔らかな笑みを口元に載せる。


「悪かったな。お前は、俺の矜持を信じるって、言ってくれたのに」


 ──どうして、今、そんなこと……


 頭が目の前の景色を理解してくれない。思考回路がさっきからずっと動いてくれない。今こそ、猛スピードで思考を回さなければならない時であるはずなのに。


「俺はどこまでも、その言葉にふさわしくあれなかった」


 また、クォードの体が跳ねる。今度は左肩から血がしぶいた。黒い燕尾服のせいで気付けていなかったが、クォードは今や満身創痍の状態だ。


 ──何で……っ!? クォードは攻撃なんて受けていないはず……っ!!


「じゃあな、


 カレンの思考回路が現実に追い付くのをクォードは待ってくれなかった。


 笑みと、初めて名前を呼んでくれた声だけを残して、クォードはきびすを返す。リボルバーを片手に駆け出したクォードの先にいるのは激しい攻防を繰り返しているセダとジョナだ。


「クォードっ!!」


 カレンの絶叫はクォードが引き金を引いた銃声によって掻き消された。放たれた魔弾をセダは首を傾けて避ける。その隙にジョナが斬り込み、さらに魔術を繰り出していく。


「……なるほど、『反射リフラ』の反転先をクォードさんに設定することで、全ての負荷をクォードさんに転嫁しているわけですか。東洋の呪術である『形代カタシロ』の応用ですね? 僕から見ても趣味が悪い理論式だ」


 セダの攻撃を何発喰らってもジョナは大したダメージを受けていないようだった。だがその分クォードの体が傷付いていく。後衛からジョナの援護をしているクォードは、変わることなくセダの攻撃にさらされていないというのに。


 その謎を、セダは瞳をすがめただけで解き明かした。対するジョナも見破られたからといって焦りは見せない。むしろ嬉しそうにニマリと唇の端が釣り上がる。


「だぁ〜いせぇ〜いかぁ〜い! アタシが負ったダメージは全部クァントが肩代わりしてくれるの! だからアタシにどれだけ攻撃を喰らわせてもム・ダ!」


 ジョナはこれ見よがしにセダが放った光弾を浴びる。その瞬間、ジョナのはるか後ろにいたクォードの体が激しく痙攣し、ついに膝が折れた。


「クォードっ!!」

「ほぉら! こんなに攻撃を喰らっても、アタシはぜぇ〜んぜん大丈夫っ!!」


 カレンは考えるよりも早くクォードに駆け寄っていた。膝をついてクォードの肩と背中を支えるように触れれば、手には湿気った感触が伝わってくる。どうして今まで重たい魔銃を握りしめて立っていることができたのか、クォードは今や全身血まみれの重傷人だった。ゼェゼェと繰り返される呼吸音は明らかに肺を損傷した人間のそれだ。


 ──このままジョナが伯父様と戦い続けたら……っ!!


「アタシってば天才! 無敵じゃなぁいっ? クァントがアタシの部下になった当初から仕込んであったのよぉ! キャア!! アタシったら先見の才ありまくりぃっ!」

「でもそれは、クォードさんという反転先がある間だけ、ですよね?」


 邪気しかないのに無邪気な声ではしゃぐジョナの言葉を、セダの冷めた声が叩き折る。


「そうだけど、それがなぁに? 反転先がなくなるってことは、クァントが死ぬってことよ? さすがにアンタもそれが分かっていながらアタシを攻撃し続けることなんてできないでしょ? たとえアンタがクァントを切り捨てるっていう判断をしたとしても、オヒメサマはそんな判断、できないでしょうね? クァントの半生を知って涙を流したくらいですもの。全力でクァントを庇って……」

「それが、どうしたって言うんですか?」

「……は?」


 その変わることのない冷たさに、初めてジョナの顔が凍りついた。


「だから、と言っています。クォードさんを消せば貴方も消せるのでしょう? 僕の邪魔をしてくるならカレン様も消せばいい。ただそれだけです」

「……は? アンタ、それ……本気で言ってんの?」


 低くなった声音はただ不機嫌がにじんだだけのようにも聞こえる。


 だがジョナの顔を見れば、嫌でも分かった。


「義理とはいえ、オヒメサマはあんたの姪っ子でしょっ!? 次期国主なんでしょっ!? そんな人間を、ゴミを片付けるみたいに……っ!!」

「ゴミですよ、僕にとっては」


 恐怖。


 今初めてその感情を知ったかのような。獣の本能しかなかった中に、初めて恐れを刻み込まれたかのような。


 そんな顔を、ジョナはさらしていた。


「僕とルーシェの時間を邪魔する存在は、誰であろうと、何であろうとゴミでしかない。この世に存在する価値すらない害悪なんです」


 対するセダはどこまでも淡々としていた。そこにはもはや何の感情も宿っていない。それをぶつけられたこちらが、もはや何も思うことができないくらいに。


 ただカレンには、セダがそう口にする感情が、心よりも深い根っこの部分で分かってしまった。まだまだひよっこだけども、カレンだって高位魔法使いの端くれだから。何よりも大事な存在に心の真ん中を占拠されてしまったら、自分だってこうなってしまうのだということは、理屈ではなく本能で分かる。


 だから、体の震えが止まらなかった。


 セダが心の底から、イチミリの嘘も加飾もなくそう思っていることが分かってしまったから。


「……っ」


 不意に、トンッと肩を押された。ハッと我に返れば、赤と白のまだらに染まった手袋に包まれた手が、カレンを払いのけるかのようにカレンの肩を押している。もうほとんど力が入っていない手は、カレンを完全に押しのけることはできずにズルリと滑って落ちた。


「クォード?」

「……げ、ろ…………」


 だが黒髪と銀縁眼鏡の隙間からカレンを見上げる漆黒の瞳は、いまだに光を失っていない。


「に、げ……ろ……」


 その瞳に宿る感情と吐息に混ざる微かな声で、カレンはクォードが何を伝えようとしているのかを知る。


 ──お前だけでも、逃げろ。


 クォードは、カレンにそう言っているのだ。


 セダが本気で自分達を消し飛ばそうとしていることも、そこにカレンがいてもセダは気にせず実力行使に出るのだろうということも、クォードは理解できている。だからクォードはカレンだけでも逃がそうとしているのだ。自分がここで尽きることを覚悟してしまっているのは、ジョナがクォードに仕込んでいた魔術を自力で解くことはできないと諦めてしまっているからなのか、はたまたここまで来ても引けない意地がクォードの中にあるせいなのか。あるいはこの怪我ではもう助からないと思っているのかもしれない。


 ──そんな……っ!!


 カレンの立場を考えれば、迷うことなく逃げるべきなのだろう。カレンは次期国主候補で、クォードは国家反逆罪を2回も犯した大罪人。むしろカレンは積極的にセダに協力するべきなのかもしれない。


 それでも。


「それでは、さようなら」


 セダが右腕を軽く振るう。ブワリと舞った銀の燐光は恐怖に凍りついた反逆者達を容赦なく飲み込もうとあぎとを剥く。


「行け……っ!!」


 クォードが魔銃を構えながらもう一度カレンの肩を押す。カレンはその手を避けることができなかった。


 ──それでも、私は……


 だから代わりにカレンは、キュッと唇を噛み締めた。


「!? おい……っ!!」


 ガリッと、ニーハイブーツの高いヒールが寄木細工の床を蹴る。クォードの力に逆らわず体を翻したカレンは、ドレスの裾を乱しながらクォードをかばうように前へ躍り出た。


 片手を床について体を支えると同時に、己の魔力を最大出力で展開する。


「っ、ラァァァアアアアアッ!!」


 密度を増した紫雷色の魔力は壁を築き上げながら銀の燐光とぶつかった。高密度の魔力同士がぶつかったことにより空間が歪み、境界線から双方向に向かってダンスホールが崩れていく。


「お前っ、何して……っ!!」

「だって! まだお茶してないもんっ!!」


 クォードが焦ったように声を上げるが後ろを振り返っていられる余裕はなかった。叫び返す声が半泣きになっている気がする。


「『リリア・カラント』を淹れてくれるって、約束したもんっ!!」

「は!? した覚えは……っ!!」

「したったらしたっ!!」


 ──いけない、半泣きどころか完全に涙声だ、これ。


 こんなに声を張るのも、涙を流すのも、感情が制御できないのも、とことん『省エネ』に反している。自分自身が何をしているのか、本っ当に意味が分からない。


 それでも、衝動に任せて駆け出してしまう気持ちが今、カレンの心の真ん中にある。


「クォードは私の執事なんだからっ!!」


 絶叫とともに魔力を放出している右手に力を込めれば、押され気味だった境界がわずかに勢いを盛り返した。


「伯父様にだってっ!! 自由にどうこうさせたりしないんだからぁっ!!」


 絶え間なく響く破砕音にカレンの絶叫。世界はけたたましい音にあふれている。


「……どうして」


 だというのに微かな囁きが耳に届いたのは、なぜだったのだろうか。


 ──どうしてって、言われてもなぁ……


 奥歯を噛み締めて全身にかかる圧に耐えているから、もはやその囁きに答えている余裕はない。


 だからカレンは、内心だけで密かに苦笑をこぼした。


 ──そんなの、私が訊きたいんだけども。


 世界が砕けていく。銀の燐光と紫雷が引く境界がジリジリと目の前に迫る。明確な『終わり』が、そこにある。


 それでもカレンは歯を食いしばり、『終わり』から目をらさない。


「カレン」


 だから、その『終わり』が突如として現れた漆黒に跡形もなく喰い散らかされた瞬間も、カレンはしっかりと見ていた。


「よう言うた」


 音もなく漆黒の影が走った後には、カレンが操っていた紫雷も、セダが放った銀の燐光も、何も残されていなかった。いきなり圧が消えたカレンは体を支えることができずに顔面から床に突っ込んでしまう。そんなカレンに背後のクォードが慌てて立ち上がろうとしたようだが、クォードもクォードで力場がいきなり消えたせいで体がうまく動かないようだった。


「ルーシェっ!?」


 セダの声が驚きを以って漆黒の影の主の名を呼ぶ。その呼び声に応えるかのようにカツリ、カツリと優美な足音が響き渡った。


 カレンは全身の力を集めて何とか顔を上げる。


 その先に、淡青と漆黒を引き連れた麗人が佇んでいた。


「……伯母様」


 ドレスと同じアクアマリンに似た燐光とモヤのような漆黒の影を引き連れて現れたルーシェは、廃墟のごとく荒れ果てたダンスホールを物ともせず優雅に歩みを進めていた。よく見ればルーシェの体にまとわりつく影がルーシェの足元に道を形造っている。ルーシェの行く道をうやうやしく作り出す影は、まるで姿なき従僕のようだ。


『混沌』。それがルーシェの魔力属性であり、あの影の正体。人の目に映り込むほど密度が高い魔力がルーシェからこぼれ落ちているせいで、魔力を解放したルーシェは影を引き連れているように見えるのだという。


 その特性は万物の破壊と創造。ルーシェの魔力は触れただけであらゆるモノを分解・変成させ、またあらゆるモノを創り出すことを可能としている。


 無から有を生み出すことを可能としている魔法の中でも、最も始原に近い……むしろ始原そのものとさえ言える属性。一時期はその稀で強すぎる属性と力の強大さを恐れられ、国主に就けるべきではないとまで言われていたのだという。


 防御に用いれば難攻不落、攻撃に用いれば一撃必殺。


『東の賢者』と『雷帝の御子』の力の競り合いを軽く喰い散らかしたこれが、歴代最強の名を冠する女皇の実力。


「ルーシェ、あのね、これはね……っ!!」


 軽く指先を動かす程度でそれらを成したルーシェは、優雅にセダに向かって歩を進める。そんなルーシェを見たセダは分かりやすく焦りを顔に浮かべてワタワタと両手を動かしていた。先程までの兵器じみた無人間っぷりは一体どこへ放り出してきたのか、今のセダはどこからどう見ても外見年齢相応の青年に見える。


「そ、その……っ」


 ルーシェはセダの目の前でピタリと足を止めた。ルーシェはセダに対して頭半分ほど背が低いから、近距離で対面して立つとルーシェは軽く顎を上げてセダを見上げることになる。


「……ルーシェ?」


 そうやってセダの顔を見つめること数秒。


 不意にパンッと小気味いい音がダンスホールに響き渡った。セダの頭が衝撃に揺れ、カレンが息を呑む音がわずかに漏れる。


「セダ、お前、『もうどこにも行かない』と約束したくせに、何を勝手に前線に出てきておるのじゃ」


 予備動作を一切見せず、そして躊躇いも一切見せずにセダの頬を引っぱたいたルーシェは、漆黒の瞳の中にアクアマリンのような燐光を散らしていた。ルーシェが激怒している証である。


「約した舌の根も乾かぬうちから妾との約束を破りおって……っ!!」

「る、ルーシェ……!!」

「さすがに妾ももう怒った!! しばらく妾は部屋に戻らぬ!!」

「えぇっ!?」

「妾は執務室で休むことにするっ!! 食事もお茶も別室じゃっ!! 妾との約束を破って勝手なことをするセダはしばし独り寝を楽しむが良いっ!!」

「そっ、そんなぁっ!!」


 ──……夫婦喧嘩?


 ルーシェに左頬を張られたセダは当初いきなりの暴挙に呆然としていたが、ジワジワとルーシェの怒りの深さを理解したらしい。恐怖に近い畏敬の念を抱かせた『東の賢者』は本当にどこに捨ててきたのか、ルーシェに叱られるセダは大人気なく本気で涙ぐんでいる。


「ごめんっ!! ごめんなさいルーシェっ!! どうしても我慢できなくて……っ!!」

「もうセダの『ごめんなさい』は聞き飽きた」

「許して! お願いっ!! 別室なんてヤダよぉっ!! ルーシェに会えないなんて耐えきれないっ!!」

「その割に妾の夫君は妾に黙って長期出張にも行ってしまうようじゃがのぉ?」

「ちっ、ちが……っ!! それは……っ!!」

「違わない」

「ルーシェっ!!」

「とにかく、妾は怒った。家庭内別居じゃ」


 ──伯父様は伯母様との時間を取り戻すためにわざわざ出てきたわけだから、当の伯母様に『家庭内別居』を切り出されたら本末転倒だよね……


 カレンは状況も忘れて思わず二人の夫婦喧嘩を観戦してしまった。怒ったルーシェにセダがひたすら謝り倒すという構図なのだが、とにかく二人の実力と今の姿のギャップが激しくてめまいがしそうだ。


 ──まぁそれだけ、お互いに相手がただただ『夫』で『妻』であるってことなんだろうけども。


 どこにでもいる夫婦のたわいもない喧嘩と大差がないやり取りは、互いが互いをただのルーシェ、ただのセダとして見ていなければ成立しない。『アルマリエ女皇』と『東の賢者』では成立しない喧嘩なのだ。


 そのことにカレンは、状況も忘れて安堵してしまう。


 ──良かった。


 セダが、人として幸せであれる場所が、ルーシェの隣。


 そんな単純な事実に、なぜかほっと息が漏れる。


「……夫婦喧嘩、してる場合じゃ……ねぇ、だろ……」


 だがその安堵は背後から響いた声に吹き飛ばされた。


「クォードっ!!」


 カレンが背にかばったクォードは床に倒れ伏していた。もはや魔銃を取る力さえないのか、投げ出された手の先にはリボルバーが転がっている。


「しっかりしてクォード!! 今、何か……っ!!」


 魔力の使いすぎでうまく動かない体で何とか床を這いながら、カレンはクォードの体に手を伸ばす。そんなカレンの様子に気付いているのか、クォードが乾いた笑い声を上げた。


「もう、いい……限界、だか……ら」


 ネチャリと、何か生温かい物がカレンの膝を濡らす。それが何であるのかをカレンはあえて見なかった。


 うつ伏せで倒れているクォードの体を必死に転がして、左半身が下になるように横向きにさせる。気道の確保のために体を転がす間も、カレンが触れるたびにジワリとクォードからは赤がにじんだ。


「はっ……淑女たる者、汚れ物に……気安く、触ってんじゃ……ね……」

「クォードっ!!」


 恐らくカレンがセダとしのぎを削っている間も、ジョナのダメージを転嫁させられ続けたクォードの体は損傷し続けていたのだろう。どんな時でも光を失わなかった漆黒の瞳が今、光を失いつつある。


「クォードっ!! ダメッ!! しっかりして……っ!!」


 ──このままじゃ本当にクォードは……っ!!


 カレンの背筋を氷解が滑り落ちる。


 これは、恐怖だ。セダの感情のない殺意にさらされた時以上の恐怖。クォードの命が消えかかっているという事実に直面して、かつてない恐怖にカレンの何もかもが縛り上げられる。


「……セダ、どぉーしても妾との別居が嫌なら、今ここで妾のワガママを叶えてくれるか?」


 何をすればいいのか、何を成すべきなのか、それさえ分からず指のひとつも動かなくなったカレンの耳に、スルリとその言葉は入ってきた。


「ゆ、許してくれるのっ!?」

「妾の『お願い』を聞いてくれるならば」

「いくらでも聞く! 何をすればいいの? こいつらを全員消す? 『ルーツ』が結成される前の時代まで飛んで結成を阻止する? そもそも揉め事の種が生まれないように魔法と魔術の根本を変えようか?」

「あれとクォードの間に展開されているという厄介な術式を解除して、ついでにクォードを全回復させてやっておくれ」


 ルーシェの言葉にカレンはノロノロとルーシェを見やる。そんなカレンに流し目を送ったルーシェは、カレンと視線が合うとパチリと片目をつむってみせた。


「お前ならば、あれに向けた攻撃が全てクォードに転嫁されてしまうという術式の理屈を理解できているのであろう?」

「えぇ……?」


 セダはルーシェの言葉に分かりやすく顔をしかめた。『面倒くさい』というのと『ルーシェとの時間を邪魔した原因をなぜ助けなくてはいけないのか』という感情がありありとにじんだ顔だ。


「言うておくが、それ以外での条件での和解はないからな」

「えぇぇ……できないことは、そりゃあないけどさぁ……」


 セダの視線がどこかへ飛んだ。視線の先には床に突き立てたナイフにすがって体を支えたジョナがいる。クォードが死に瀕している今ダメージを完全に減らすことはできていないのか、ジョナもそこそこに消耗しているようだった。だがそのダメージはあくまで『そこそこ』であって、ジョナの野心にギラついた瞳から闘気は消えていない。


「『反射リフラ』と僕の魔力は相性が悪いんだ。時の流れに反射は関係ないもの」

「では、妾の魔力をセダが使うというのはどうじゃろうか?」


 そんなジョナの様子にルーシェは気付いているはずだ。それでもルーシェはセダだけを見つめ、柔らかく微笑む。


 ルーシェだけを見つめているセダには、死に瀕するクォードも、それにすがるカレンも、いまだに諦めていないジョナも、最初から見えていない。そして『最愛の妻が隣で笑っていてくれれば世界が滅びようが興味がない』と公言してはばからない『生ける魔法具』は、目の前で微笑む妻にあっという間に機嫌を良くした。


「すごいね! それはいい! うん、ルーシェがそう望むなら、叶えてあげるっ!!」

「そうか、では」


 セダの手がダンスに誘うかのようにルーシェへ差し伸べられる。ルーシェはその手に己の手を重ねるとスルリとセダの懐へ入り込んだ。セダの空いた腕がスルリとルーシェの腰を引き寄せ、後ろから抱きしめられる形でルーシェはスッポリとセダの腕の中に収まる。


 セダはその状態に満足したかのように瞳を細めるとスッと息を吸い込んだ。


 そして開かれた唇から『歌』が流れだす。


「──────っ!!」


 は、言葉の形を成していなかった。『音』や『歌』としか形容できない音の波。アクアマリンの燐光を纏う深い深い響きを持つ『歌』は、聞くモノ全てを揺らめかせ、そっと存在を組み替えていく。


「っ!?」


 その燐光がスッとクォードに集まる。カレンが驚いて手を退けた瞬間、アクアマリンの燐光はクォードの体を燃やし尽くすかのように強く光を放った。歌に合わせてクォードの姿が揺らめき、波に洗われるかのように姿を変えていく。その表面に一瞬浮かんだ理論式がパッと散ってアクアマリンの燐光に飲まれていった。


 ──! まさか、今のが……!!


 カレンは光の中に踊った理論式をもう一度見つけ出そうと目を凝らす。だが消えてしまった数式を見つけ出すことはもうできなかった。アクアマリンの燐光はやがて光を弱め、歌が終わるのと同時にスッと天に昇るように消えていく。後には血の気を取り戻したクォードと、ドレスから血のシミが抜けたカレンだけが残された。


 ──今の、……魔法円でも、呪歌でも、理論式でもなかった。


 血の匂いさえ消えてしまった自分の両手を見つめて、カレンはセダが歌った歌を思う。言葉として認識できなかったにも関わらず、意識の深い所で『魔力が動いた』と認識できた歌を。


 ──もしかして、これが……


「ちょ……ちょっと、どういうことっ!?」


 物思いにふけっていたカレンは唐突に響いた金切り声に顔を上げた。


 今この場でこんな声を上げる人間など一人しかいない。


「な、何で……何でパスが認識できないのっ!? 何で……何の流れも感じないわ……何でっ、何でアタシの理論式が……っ!!」


 いつ間にか立ち上がっていたジョナが片手で顔を覆いながらわめいていた。焦点が結ばれていない瞳は必死に目に見えない何かを探し出そうとしているかのようにも見える。


「アタシの書いた理論式は完璧よっ!? 破られるはずなんか」


 一瞬、カレンの聴覚から音が消えた。


「つべこべつべこべ、るっせー……ん、だよ……っ!!」


 それがすぐ近くで爆ぜた火薬の爆音のせいだと知ったのは、かすれた悪態が聞こえてきた時だった。


「ぎっ……ギャァァァァァッ!!」

「俺は、……重度の怪我人、なんだぞ……っ!! ちったぁ、静かにしやがれ……っ!!」


 ジョナの片手からナイフが吹き飛ばされ、緋色の線が舞う。だがカレンの鼻を突いたのはすぐ傍から立ち上った硝煙のにおいだった。


「……クォード」

「……ったく、こちとら頭がガンガンしてるっつーのに、汚ねぇ声で喚いてんじゃねぇよ」


 いつの間に意識を取り戻していたのか、クォードが体を横たえたまま魔銃を握りしめていた。魔弾が装填されたリボルバー。傷は回復したとはいえ、重傷状態から意識が回復したばかりであることに変わりはない。そんなコンディションの中でクォードは、不安定な態勢からたった一発でジョナの手の中のナイフを弾いてみせた。


「最っ悪のモーニングコールだぜ」


 そんな言葉を吐きながら、物騒で有能な執事はノソリと立ち上がった。次いで己の右手に視線を落とし、スッと瞳をすがめる。


「……解除できたんだな、あの術式」

「あれこれ仕掛けられてた術式を解除して、傷も癒やしました。ついでに衣服も時間流を巻き戻して綺麗にしておきましたけど、一度失った血の気は元に戻しても意識が状態についていけなくて不調が残りやすいんです」


 その独白にセダが答える。『歌』を紡ぎ終わったのにルーシェを懐に抱き込んだままでいるセダは満足そうに瞳を細めていた。


「ルーシェに感謝してくださいね。僕、本気で貴方を消そうと思ってましたから」

「そして感謝は即刻表してもらおうか」


 セダに好きなようにさせているルーシェは、傲慢に笑っていた。それがクォードをいびり倒して遊んでいる時の顔であるとカレンは知っている。


を生きたまま捕縛せよ」

「……成功報酬は出るんだろうな」


 そんな二人にクォードはもはやツッコミを入れなかった。ただ一度深く溜め息をついたクォードは、手にしていたリボルバーの弾倉をスイングアウトして弾を詰め直す。


「『感謝を表せ』と言うておるのに業突張ごうつくばりじゃな」

「魔術師ってのは、生憎基本が業突張りなんだよ」


 弾倉を銃身に叩き込んだクォードは空いている手にもリボルバーを滑り込ませる。一度ジョナに据えられた視線は、もうブレない。


 その様子を見つめていたルーシェが、ニコリと笑みを深めた。


「良かろう。240で手を打たぬか?」


 月給240ヶ月。それはクォードに負わされた労働対価の金額と同じ。


 つまりは。


 ──生きたままジョナを捕縛できたら、恩赦。


 その意味が分からないクォードではない。


「はっ! 豪儀なこったな!!」

「『カルセドアの至宝』に本気を出してもらうためならば致し方ない」


 凶暴な笑みを浮かべるクォードにルーシェはしれっと言い放つ。だがルーシェは毒を醸すことももちろん忘れない。


「ただしお前の今の立場……忘れておるわけではあるまいな?」

「……チッ!」


 そんなルーシェに舌打ちを返したクォードは、リボルバーを手にしたまま器用にネクタイを緩めるとカレンに視線を落とした。流れについていけずにポカンとクォードを見上げていたカレンは、突然向けられた視線に目をしばたたかせる。


「お手をどうぞ、お嬢様」


 そんなカレンに向かって、クォードは片手を差し伸べた。リボルバーが握られたまま、人差し指と親指だけが開かれた手を。


「淑女たる者、いついかなる時でも床に直接座り込むなどという無作法は取らないものでございます」


 表面上は、あくまで礼儀正しく、主に仕える者として優雅に穏和に。


 だが本心では獰猛に、慇懃無礼に。


「最後の仕上げと参りましょう」


 押しかけ執事、クォード・ザラステアは、仮初かりそめの主を最後の舞台上へと誘う。


 ──あぁ、ほんっとにクォードって、


 その手を見つめて、カレンは心の中だけで呟いた。


 ──有能な執事でいらっしゃいますこと。


 白手袋に包まれた手に己の手を預け、ともにリボルバーを握る形でカレンは膝を上げた。カレンが立ち上がると繋いだ手はさっさと解かれる。そのことにカレンは文句を言わないし、クォードもそれで当然とばかりに意識をジョナに向けていた。ランスを召喚したカレンも意識を真っ直ぐにジョナに据える。


 作戦会議などしない。どちらかが相手をかばう位置に立つわけでもない。


 だって自分達はそんな間柄ではないのだから。


「……何よ、何よクァント……!! アンタ結局そっちにつくわけっ!?」


 そんなカレン達を見たジョナが絶叫した。ヒステリーを起こした女性のように感情も露わに叫ぶジョナの周囲を荒れ狂う魔力が踊る。


「アンタは魔術師でしょっ!? 誇り高き『混沌の仲介人ルーツ・デ・ダルモンテ』の幹部でしょっ!? それを……っ!!」

「お言葉を返すようですが、今のわたくしはお嬢様の一介の執事でございます」


 クォードは見惚れるほど優雅にジョナに一礼した。


「執事は主の補佐をするのが役目であって、障害になるのが役目ではないのです。貴方様の軽い頭でも理解できるように言い直すならば」


 両の手にリボルバーを持ち、腰の後ろにはさらにオートマチックを二丁も隠し持つ物騒な執事は、凶暴な笑みとともに顔を上げる。


「テメェは俺の特別報酬のためにとっとと捕まりやがれ、でございます」

「っ……ふざけるなっ!!」


 怒号とともにジョナの指が宙を滑った。桃色の燐光が指の軌跡に舞い、理論式が描き出される。


 それを見たカレンは床を蹴って前へ飛び出していた。


「『共鳴せよイコラ 我は汝に多重の解を望むアイラ・サイネ・リリエルド・アムフィー』っ!!」


 ジョナの口からクォードが魔術の起動に使う言葉と同じ合図が放たれ、紫電を散らしながら突進するカレンに炎撃が降り注ぐ。だがカレンはそれを身体強化した足のステップだけでかわした。一気に間合いがつまり、カレンのランスがジョナの眼前に迫る。


「『気圧パスカヴィア』『水気ウォルティア』『ゼウダ』っ!!」


 カレンのランスをジョナは体の前に展開した『反射リフラ』の理論式を盾のように使って受け流した。一撃ずつが大技で大振りなカレンは勢いを殺すことができず、流されるがままジョナの傍らを通過していく。


 だが、それでいい。カレンの初撃はあくまで陽動。


 本命はカレンの傍らをすり抜けるようにしてジョナの足元に着弾した魔弾。


「『抑制ディック』『抑制ディック』『強化クレンダ』っ!!」


 クォードの正確無比な射撃によって撃ち出された魔弾達は、ジョナを中心とした三角形を描き出す。


「『共鳴せよイコラ 我は汝に多重の解を望むアイラ・サイネ・リリエルド・アムフィー』っ!!」


 その意味に気付いたジョナが撃ち込まれた理論式を壊そうと指を滑らせる。その動きに気付いたカレンはとっさに魔力を帯びていないランスをジョナに向かって投擲した。ランスはあっけなくジョナに避けられたが、ジョナの指が止まったことで作成途中だった理論式は光の粒に還っていく。


 その瞬間、クォードが撃ち込んだ理論式が有効範囲を示す光の結界を作り上げた。


「やれ! カレンっ!!」


 カレンは躊躇うことなく結界の中に飛び込む。目の前のジョナが目を見開き理論式を紡ごうと唇を動かすが、魔法使いが魔術師に起動速度で負けるはずがない。


雷帝フルゴラ


 天にかざした指先に集中させた魔力がパシッと弾ける。


 カレンの魔力が最大効力を発揮できるように調整された空間が、カレンの呼び声に応えた。


降臨アビティアっ!!」


 世界が白く染まる。突き抜けた衝撃は心地良ささえあった。五感が粉々に砕けて、また再構築されていくのが分かる。


 ──って! こんな勢いで『雷帝降臨フルゴラ・アビティア』なんて使ったら相手死んじゃうじゃん!!


 ……などと今更思ってももう遅い。雷が駆け抜ける速さは、人間が知覚できる以上に速いのだから。


「安心しろ。殺さねぇように仕込みもしてある」


 思わずカレンはプルリと体を震わせる。


 その瞬間、そんなカレンの内心を見透かしたかのようにクォードの声が投げられた。


「どうせテメェは考えなしに雷を落とすだろうと予想できてたからな。ダメージはしっかり出しつつ、ある程度電流は抜けるようにきちんと理論式は組んでおいた」


 後ろを振り返ると、肩のホルスターにリボルバーを納めながらクォードが歩み寄ってくる所だった。顎をしゃくってカレンの足元を示すクォードに勇気付けられて視線を落とせば、確かにそこにジョナが転がっている。意識はないようだが、呼吸はしっかりしているし、命に関わる怪我を負っているようにも見えない。


『ヨク アンナ一瞬デ ソンナコトデキタネ』

「当たり前だろ? 俺は『至宝ザラスティーヤ・クァント』と呼ばれた魔術師なんだぞ。それに」


 ランスから戻ったクッションに流れる文字を見やったクォードは背後に視線を飛ばした。そこにはルーシェと、相変わらずルーシェを懐に抱き込んだセダが立っている。


「『生きたまま捕らえよ』、だったからな。提示条件は」

「珍しく知恵が回ったようじゃの」


 ルーシェは満足そうに微笑むと軽く片手を振った。それだけの動作でジョナの周囲の床が黒いモヤに変じ、ズブズブとジョナの体は沈んでいく。空間転移魔法で手っ取り早くジョナを拘束したのだろう。せっかく捕えた『ルーツ』上級幹部をそう易々と取り逃がすような真似をルーシェがするはずがない。恐らくこれからジョナはクォードに科された物を上回る苛烈な拷問にかけられるはずだ。


「……なぁ、その特別報酬の件なんだが」


 クォードに理論式を仕組んで理不尽に苦しめた相手だ。少し絞られればいい。


 そんな黒いことをほんの少しだけ考えたカレンの傍で、クォードが躊躇うように唇を開いた。


「月給240ヶ月分の代わりに、『東の賢者セダカルツァーニ』を使わせてもらうことは、できないか?」


 その言葉にカレンは思わず顔をね上げた。真っ直ぐにルーシェを見据えたクォードは、酷く真剣な眼差しをしている。


 そんなクォードを見たルーシェは、セダの腕から抜け出すと真っ直ぐにクォードと対峙した。


「『東の賢者』を使って、何をする気じゃ?」

「歴史を巻き戻す。カルセドア王国……俺がかつて仕えていた国を、復活させたい」


 ──やっぱりクォード、諦めきれないんだ。


 カレンはキュッと締め付けられたように痛む胸を持て余しながらクォードから視線をらした。


 クォードはこの10年、亡くしたかつての故郷カルセドア王国と主家であるカルセドア王家を復活させるために生きてきたと言っていた。そのために求めていた時流系魔法具の最高峰『東の賢者』が目の前にいるのだ。諦めろと言う方が無理なのかもしれない。


「『東の賢者』を使ったとしても、国一国の歴史を巻き戻せば、お前は生きてはおれぬよ。そのひずみに耐え切れるだけの魔力がお前にはない」

「じゃあ、カルセドア王家の人間を復活させることは? 最悪、カルセドア王だけでもいい! それも1時間……いや、何なら数分でもいいんだっ!!」


 クォードを構成する何もかもがカルセドア王のためにあったことはすでに知っている。クォードの矜持も、誇りも、全てはそこにある。


 できることなら、カレンも叶えてあげたい。だが同時に魔法使いとして、クォードの望みには途方もない対価が必要なことも分かる。


「王を復活させて、何とする」

「知れたこと」


 そしてカレン個人としては、クォードを再びカルセドア王に対面させるのは、何だか嫌だった。うまくは言えないが、嫌なのだ。心にどす黒い感情が湧いて消えてくれ……


「一発ぶん殴る」


 ──……は?


 今、……想像もしない言葉が、飛び出してこなかっただろうか?


 カレンは思わず目を瞬かせた。よく見てみればルーシェも同じような表情をしている。唯一セダだけがルーシェの珍しい表情を見れたことに目を輝かせていた。


「『カルセドアの至宝カルセディアン・ザラスティーヤ・クァント』と呼ばれた俺を使い勝手良くするためだけに窓もない部屋に物心つく前から幽閉しておきながら、流れの魔法使いの『魔法の方が使い勝手いいですよ』なんていうホラ話を馬鹿みたいに信じて宗旨替えした瞬間に俺をお払い箱にするとか何様なんだよあいつっ!? ご丁寧に馬車で辺境の地まで捨てに行きやがってっ!! 世の中を一切知らなかった俺がどれだけ苦労したと……っ!! しかもその流れの魔法使いに国政乗っ取られたあげく、魔力暴走を起こした当の魔法使いのせいで国ごと一族心中とか馬鹿じゃねぇかあいつらはっ!! 一発ぶん殴らねぇと気がすまねぇっ!! あんなヤツに人生の半分潰されたとか、マジで許せんっ!! 俺はいつかあの光景をもう一度眺め、亡き主と対面し、ヤツをボッコボコにしてやることを夢見て生きてきたんだっ!!」


 ──……え? そういう理由!?


『殴ルダケデイイノ? 国ノ復興トカ、元ノ地位ニ返リ咲キタイトカ……』


 カレンは思わずグイグイクォードの袖を引くとクッションを押し付けた。迷惑そうにカレンを振り返ったクォードは、クッションを眺めると呆れたように言い放つ。


「あぁん? 誰がそんなどうしようもねぇもん望むんだよ?」


 まっとうであるはずのある理由を『どうしようもねぇもん』と切り捨てたクォードは、溜め息をつきながら子供に言いさとすように説明の言葉をくれる。


「一回潰れた国はな、どんな形で復活させたって長続きしねぇんだよ。根本を正さねぇとな。そんな未来のねぇ無駄なこと、俺がするかよ」


 ──国王を復活させて一発ぶん殴ることは、果たして無駄なことではないのだろうか?


 カレンは思わず遠い目をして考える。だが言葉に出しては言わなかった。何だか言うだけ無駄なような気がしたので。


「というわけで『東の賢者セダカルツァーニ』を貸せ。ここまで来たらもうやってやらねぇと俺のプライドが許さねぇんだよっ!!」

「そんなつまらぬことにセダを貸せるか。却下じゃ、却下」

「ざけんな! 俺にとっちゃ大切なことなんだよっ!! 俺は過去に受けた理不尽を許しておけるほど寛容じゃねぇんだっ!!」


 ──私のこの感情は一体、どうすればいいんだろう……


 カレンは思わず溜め息をつく。その中にわずかな安堵が混じっていたことには、そっと気付かない振りをした。


 ──まぁ、とにかく一件落着、かな?


 クォードとルーシェはまだやいのやいのと言い合いをしていた。セダはルーシェを観察するのに忙しく、生き残ったジョナの配下達はいつの間にか現れた離宮の使用人達が手早く捕縛してくれている。


 日常に戻っていく景色を眺めながら、カレンはもう一度息をついた。


 ──後でクォードに労いのお茶を淹れてあげよう。


 そんなことを、無表情下でひっそりと思いながら。

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