《幕間》押しかけ執事の憂鬱

 思えば、物心ついた頃からこんな風に自由に日差しの下を歩いたことなんてなかった。こんなに穏やかに晴れ渡った空を眺めることも。


 ここ数月、折に触れて思うことを今も考えていたことに気付き、クォードは思わずそんな自分に舌打ちをした。


 ──馬鹿じゃねぇのか。こんな敵地で、こんな身分に落とされてるっつーのに。


 そう、ここは敵地だ。最大の敵とも言えるアルマリエ国主に労働階級に身を落とされ、自分の人生を転落させる契機を作り出した相手を主として仕えている。この現状をはずかしめと言わず何と言うべきか。


 そこまで考えたクォードはもう一度己の頭上を見上げた。


 ハイディーンと呼ばれているこの町は、この数月を過ごしたアルマリエの都、フラリエより空が広く、高く感じられた。田舎で空気が澄んでいるせいかもしれない。空というものにこんな見え方の違いがあることさえ、クォードは『執事』になるまで知らなかった。


 ──……そんな状況の今が、人生で一番自由に行動できてるなんて、皮肉なもんだな。


 そんな感傷を一瞬だけ自分に許して、クォードは止まってしまっていた足を動かし始めた。


 明日の朝一で町の役場に設置されている転移魔法円を使って王宮に帰ると説明を受けたのはつい先程のことだった。事件を解決して3日、ようやく地元役人への引継が完了し、王宮に転送した報告書も無事に受理され帰還認可が出たのだという。


 そうクォードに説明したカレンは無表情ながらも晴れやかな顔で『今日は1日お休みにする』とあのクッションで言ってきた。転移魔法円での移動は、移動する側も魔力と体力を消費する。自分もクォードも働き詰めだったから、今日1日休みを入れてから帰還した方がいいだろうというのがカレンの主張だった。クォードとしてもそれはありがたい申し出だったから、今日はそれぞれ自由行動ということになった。


 ──どうしてあいつらは、俺を牢に繋いでおかなかったんだ?


 事件解決の後、クォードはカレンのはからいでカレンの隣の部屋に宿泊している。思えば離宮でも初めからクォードは執事という身分にあった個室を与えられていた。執事となってからのクォードは、きちんと人間として扱われ、衣食住が与えられることはもちろん、プライバシーにまで配慮された生活を送っている。執事として派遣されるにあたって監視用に魔法が刻まれることもなければ、行動制限がかけられることもなかった。クォードは今、己が望んだ場所に、己の足で赴くことができる。お陰さまで今まで過ごしてきた人生の中で、今の生活が一番快適だった。


 ──俺は『ルーツ』の幹部で、元々国家転覆のために潜入してて……敵、なんだぞ? 警戒心がないにも程があるだろ。


 今だってクォードは今日1日を自由に過ごせるようにカレンからお小遣いを支給されている。武装用のリボルバーも没収されていない。


 これはクォードの『常識』に当てはめて考えると異常なまでに警戒心が薄すぎた。『ルーツ』でだって、その以前でだって、クォードがここまで野放しにされていたことはない。


 そのことに、胸がモヤモヤする。なぜなのかと、あの引き籠りの肩を揺さぶりながら問い詰めたい衝動にも駆られている。


 ──まさか、俺が事件捜査に協力した、たったあれしきのことで俺を信じたっていうのか?


 ならば少々どころかかなり能天気であると言わざるを得ない。あの程度のことならば、敵側の信頼を得るために二重スパイならば誰だってやるはずなのだから。


 そう、誰だって、やれるのだ。


「ハァイ、色男」


 細い裏路地。小広場スクエアとさえ言えない、路地と路地の交差点。


 誰がこんな所に彫ったのか女神像が掛けられたその下に、こんな田舎町には似つかわしくない上品な三つ揃えに身を包んだ青年が立っていた。


「自由行動を許してもらえるだなんて、随分信頼されちゃったのねぇ」


 スラリとした体型に、左耳の下で緩やかに束ねられて胸元に垂らされた桃色の髪。何を考えているのか分からない、まさしく道化師のような笑み。


 その全てに見覚えがない。だがそのオネエ口調と野太い声は、忘れたくても忘れられないものだった。


「……ジョナ」


混沌の仲介人ルーツ・デ・ダルモンテ』上級幹部、ジョナ。


 ハイディーンでならず者の集団をそそのかし人さらいと魔法道具の収集をさせていた真犯人は、クォードの低い声に実に楽しそうに手を振り返した。かっちりとした三つ揃いの正装に身を包んだジョナは、容姿を変化させていることもあり、とてもじゃないがあの集団の中に溶け込み、ゼリクの側近を務めていた人間と同一人物とは思えない。


「っ……!!」


 そんなジョナにクォードは手を伸ばした。胸倉をひねり上げ、歩いていた時の勢いを載せて石壁に叩きつける。ジョナの方が上背はあるが、立ち止まっていたジョナと動いていたクォードではクォードの勢いの方が強い。


「アン、痛ぁい、クァント。オンナノコにはもっと優しくしなきゃ」

「あの作戦を指揮してたのはテメェだったよな、ジョナ」


 だがクォードがいくら締め上げようともジョナの口元に浮いた笑みは消えない。そのことにクォードの胸を焼く怒りが燃え上がる。


「あの日、アルマリエ皇宮に潜入してたのは俺だけだったって話じゃねぇか。どうなってんだっ!? アァンッ!?」


 この事件に『ルーツ』が噛んでいることは、流れの情報屋だと身元を偽り、アジトに潜り込んだ時から分かっていた。頭であるゼリクの傍らに『参謀』というボジションで聞き覚えのあるのオネエ言葉を話す人間がいることを知った時から、それが『ルーツ』上級幹部であるジョナだということも分かっていた。アジトに潜っていた一週間で、この組織がジョナによって密やかに操られていることも、組織が意図せず『ルーツ』の手先になっていることも、全部全部クォードには分かっていた。ジョナがあの場でわざとゼリクに殴られて早々に現場を離脱した意図も、真の黒幕はジョナなのだからジョナが捕まらなければ事件が解決しないことも、クォードだけは全部全部分かっていた。


 分かっていながらクォードは、そのことをカレンに報告しなかった。ジョナと『ルーツ』に繋がる情報は、全てクォードが握り潰した。


「納得のいく説明をしてもらおうか?」


 別に『ルーツ』に忠義を尽くしているつもりはない。


 全ては己の矜持のため。己をこんな人生に叩き落とした根本的な原因を、己の手でぶん殴るためだ。


「あらヤダァ、アタシが斥候に使い捨てた駒ごときに、組織の深遠にして深淵な考えを教えるなんて思ってるのぉ?」


 だがジョナが返してきたのは蔑みの視線と言葉だけだった。口元には薄っすら侮蔑の笑みまで浮かんでいる。


「っ!!」


 怒りで目がくらむ。とっさにクォードは後ろ腰からオートマチックを抜いていた。左手で胸倉を締め上げ、右手でジョナの顎下にオートマチックの銃口を突きつける。


 だがクォードがその引き金を引くことはできなかった。


「……っ」


 クォードが引き金を引くためにグリップを握り込んだ瞬間、バキッという鈍い音が手の中から響く。何が起きたのか視覚ではなく触覚で確認したクォードは舌打ちをしながら手の中の魔銃を腰のホルスターに戻した。返す手でもう片方の魔銃を抜こうとするが、反対側のホルスターの中にはそもそも魔銃の感触がない。


 そんなクォードの様子を見たジョナがニヤリとまた笑みを深めた。


「あら、原料切れマトゥーリア・ナイン? ナイスタイミングね」


 クォードの通常装備用のオートマチック魔銃は、銃弾を補充しなくても半永久的に散弾できるように理論式が組まれている。オートマチック銃のフォルムをしているし、便宜上他人には『オートマチック』と言ってはいるが、実際はマガジンを装填する機構はない。


 だが魔術は魔法と違い、何もない空間から物を作り出すということはできない。一見この原則を越えているようにも見えるクォードの魔銃も、この原則から逃れることはできていない。


 クォードの魔銃は、魔銃を構成する金属の一部を銃弾に変成させて弾を打ち出している。つまり身を削って銃弾を作り出しているのだ。乱射を続ければ魔銃の質量は減り続け、いつかは銃身そのものが発砲の衝撃に耐えきれずに砕けてしまう。それを回避するためにこの魔銃は定期的に金属を補充して形を補正してやらなければならない。だが執事に身を落とした後のクォードには補充用の金属を入手する金子もルートもなく、結果この魔銃はここ数月消耗する一方だった。


 ──この間の一戦で一気に消耗しやがった……!


 もう一丁は戦闘後にすでに砕けてしまっていて、この3日間は持ち歩いてすらいない。今だってどうにかして素材が手に入らないかと思って町をうろついていた所なのだ。


「ねぇ、仲直りしましょうよ、クァント」


 クォードの隙を突いたジョナがスルリとクォードの手から身を逃す。それを見たクォードはとっさにリボルバーを抜いたが、その銃口がジョナに向けられるよりもジョナが懐から取り出した物をクォードに向かって放り投げる方がわずかに早い。


「アンタの研究書はちゃ〜んと読み込んできたわぁ。配合は間違ってないはずよん?」


 反射的に受け取ると、ズシリとした重量と、白手袋越しでも分かるひんやりとした感触が伝わってきた。改めて視線を手の中に落とせば、それが延べ棒状にされた金属塊だということが分かる。


「……何のつもりだ?」


 それがクォードのオートマチックを補修するために必須となる金属塊であることは明白だった。だがこのタイミングでジョナがこれを寄越し、『仲直り』を口にしてくる意図がクォードには読めない。


「お前、さっき俺のことを『斥候として使い捨てた駒』っつってたじゃねぇか。いきなり手のひら返そうったって」

「アルマリエ皇宮に乗り込みたいのよね」


 鋭くジョナを見据えたまま不機嫌を隠さない声音で言い放つ。


 だが片頬に伸ばした人差し指を添え、小首を傾げてみせるジョナはそんなクォードをまったく意に介していない。


「アンタ、明日、あのオヒメサマと一緒に皇宮内にある転移魔法陣に飛ぶんでしょ? その時にアタシも同伴させてもらいたいのよね」

「っ、その話をどこから……っ!」

「イヤァン、役場には真っ先に根回し済みよぉ! 悪事を成したいなら基本中の基本じゃなぁい!」


 自分ですら今朝知った情報をなぜこいつが、と目をみはれば、ジョナはクネクネとわざとらしくシナを作ってみせた。口調はどこまでも軽いのに口にされる言葉には徹底的に策略の臭いがまとわりついている。


「アンタとオヒメサマと一緒に飛べば、皇宮の中まで一気に飛べるでしょぉ? アタシ、女皇陛下に直接お願いしたいことがあるのよ。オヒメサマを人質にしてね」

「……アルマリエ国家転覆なら、人質なんて取らずに女皇を撃ち殺した方が早ぇだろ」

「ヤァダァ〜! まだその話信じてたのぉ?」


 ふざけた口調で、策略の臭いを振りまく言葉を口にしながら、ジョナはニヤリと、心底厭らしく悪寒が走る笑みを浮かべた。


「あれはね、ウ・ソ! アンタをアルマリエ皇宮に送り込み、効率よく事を運ぶ布石を打つための嘘だったのよぉ!」

「……っ!!」


 ミシリと手の中のリボルバーが軋みを上げた。銃身をすり減らすことのないこの魔銃までもがクォードの手の中で砕けてしまいそうな気がした。


 ──落ち着け。もう分かっていたことじゃねぇか。


 クォードとジョナではジョナの方が組織での立場は高い。かろうじて幹部の末端に座っているクォードと組織の参謀であるジョナでは『幹部』という名前でも立場が違いすぎる。ジョナは確かにクォードを顎で使える立場にいて、場合によっては独断で使い捨てることだって許される。


 ──落ち着け、落ち着け、落ち着け……!!


 組織に忠誠を捧げたつもりはない。クォードはクォードの目的のために組織を利用していた。同じことを組織がクォードにしただけだ。お互い様ではないか。


 それでも。


 それでもクォードは、心のどこかで思っていた。


 組織が……『ルーツ』が、自分をこんな風に使い捨てるはずがない。自分はこんな使い捨てられるような存在ではないはずだと。


「アタシ達の今回の狙いはね? アルマリエの当代が所有している至高の時流系魔法具『東の賢者セダカルツァーニ』を手に入れること」

「っ!?」


 そんなどす黒い感情が、耳に落とされた囁きで吹き飛んだ。


 思わず顔を跳ね上げればクスクスという笑い声が落ちてくる。


「アンタにとっては、喉から手が出るほど欲しい魔法道具アイテムよねぇ?」


 野太い声で女のように笑うジョナが、今だけは気にならなかった。


 それは、脳裏に蘇った光景が思考も感情も全てを焼き払ったから。


「ねぇ? 『カルセドアの至宝カルセディアン・ザラスティーヤ・クァント』」


 暗い尖塔。押し込められた書物。そんな世界で幾年も過ごしてきた。


 全ては国のために。王のために。そのために『至宝クァント』はずっと、秘されて育てられてきた。


 だが全ては、クァントが栄光を掴む前に灰燼に帰した。魔法の光が全てを焼き払って、クァントが我に返った時には何も残されていなかった。


 ──全ては、もう一度あの光景を見るために。


 たったそれだけを求めて、かつての少年は『ルーツ』に身を投じた。


 その願いを叶える道具が今、『ルーツ』の手に落ちようとしている。


いにしえのカルセドア王が所有していたという伝説の魔術具にして魔法具。……クァントは、アタシよりよっぽど詳しいんじゃないかしらん? 何と言っても、カルセドアはクァントの生まれ故郷ですものねぇ? あれがあれば、我ら『ルーツ』の魔術は原則を越えられるわ。……今回の作戦で『東の賢者セダカルツァーニ』が手に入ったら、報奨としてアンタの悲願を叶えてやってもいいとボスは言っていたわねぇ」


 ──冷静になれ。考えろ。今度こそしくじるな。


 幻想を振り払い、クォードはひたとジョナを見やる。相変わらずニヤニヤと嗤うジョナからは感情が読めない。


「……『東の賢者セダカルツァーニ』は、アルマリエのどこかにあるっつー話しか分かってなかったはずだろ。クソ女皇が所有してるっつー話に間違いはねぇのか?」

「アタシが何のためにハイディーンくんだりでこんなチンケなことしてたと思ってるの? その調査のためよ」

「確証があるんだな?」

「もちろん」

「逃げ切る手はずは? フラリエでの拠点は?」

「あんたの魔力痕を利用させてもらって、あんたがハイディーンへ入ったのと入れ違いで離宮にこっちの人間を手配したわ。拠点は離宮にできてる。逃走手段もそこにあるわ」


 ──どの道俺はもう、逃げられない。


 逃げようと思えば、決別しようと思えば、クォードにはそれができるタイミングがあった。カレンの執事として、アルマリエ国主の血筋に仕える者として生きるという選択だって、クォードにはできた。


 だがその道を、クォードは選ばなかった。


 クォードにどんな意図があったにせよ、ジョナの存在をカレンに伝えず、この一件から『ルーツ』の影を揉み消した瞬間、クォードはカレンに離反しているのだ。『ルーツ』の幹部として生きる道を、クォードはすでに選んでいるのだ。


 ──逃げたいとも、思えない。


『……確かに私は、魔術のことも魔術師のことも知らない』


 だというのになぜか、脳裏にあの時の声が響いていた。


『私は、クォードが誇り高い人間であることを知っている。その矜持を、私は信じる』


 仕えて数月、初めて聞いた生の声は、想像していたよりもずっと可憐で、透き通っていて、あんなに無気力に生きているくせして、凛としていて。


 ──聞かなきゃ良かった。


 どうして自分はこんな状況になってから、あいつの声を美しいなどと感じてしまっているのだろうか。こんな状況になってしまってから、あの少女のことを思い出しているのだろうか。


 こうなる未来は、少なからず見えていたはずなのに。


「クァント。アンタは難しいことは考えずに、アタシと一緒に皇宮に飛んで、あのオヒメサマを人質に取ってくれればいいのよ。後のことはアタシ達が全部請け負うわぁ」


 こんな気持ちを抱くくらいならば。


 この空を美しいと思える前に、全てを終わらせてほしかった。


「さぁ、クァント? お返事は?」


 そう思っても、もう何もかもが遅いのだけれども。


 瞳を閉じて、呼吸を数回。答える言葉は、すでに用意されている。


「……了解イーア


 懐かしい母国語で返し瞳を開けば、ジョナは厭な笑みの中に満足の気配を混ぜてクォードを見ていた。


 そんなジョナの片腕がスッと持ち上がり、新たな金属塊がクォードの胸ポケットに突っ込まれる。


「もう一丁の方も、キッチリ直しておいてよねん」


 バチンッと人を殺せそうなウインクを残してジョナは去っていく。その背中は無防備で、撃ち殺そうと思えば簡単にできそうだった。


 だがクォードは、それをしなかった。ジョナの背中は無防備なままハイディーンの裏道に消えていく。


 そんな光景を視界の端で捉えたまま、クォードは長い間その場に立ち尽くしていた。

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