117話 ヨシワラの湯屋

「沙羅ちゃん、ねえ?」


 狂太郎たちはその、手裏剣代わりに投げれそうな金属質の紙を眺めて、


「会うのかい」


 と、それを殺音に返して寄越す。

 殺音はそれをポケットに入れて、


「……ま、どーせ暇やし。ええ退屈しのぎにはなるやろ」


 とのこと。もうすでに彼女、この旅行が退屈との戦いとなることが確定しているらしい。

 狂太郎、やれやれと思いつつも、少しだけ微笑ましい。

 妹がいる、というのはこういう感じだろうか。

 気を遣ってやるという、行為そのものがこそばゆいのである。

 なんならシックスくんに頼んで、シェアハウスからいくつか暇つぶしの娯楽を持ってやろうか、などと考えていると……、


「ねえねえ! まだたっぷり時間あるしさ、お風呂、いかない?」

「風呂?」

「うん。――見てよ」


 そう言って飢夫が取り出したのは、先ほどの焼き肉屋で買った、ヨシワラ全体の観光案内のようなものである。

 立派な羊皮紙に書き込まれた数枚のチラシを覗き込むと、その建物の概要が絵図のみでわかりやすく描かれている。


「ほら。マッサージとかも受けられるみたいだしさ」

「まさかと思いますけど、――へんなマッサージとちゃいますのん」

「どうだろ。この絵を見たかぎりだと、健全っぽい感じだけれど」

「うーん。マッサージっちゅうても、うち、男に触られるんは、嫌よ」

「交渉してみよう」

「あとここ、混浴とか、じゃない?」

「その可能性はあるね。江戸時代の湯屋は混浴が普通だったっていうし。……でも、もしそうだったとしても、個室があるみたいだよ」


 飢夫のやつ、この時ばかりは頼りになるお兄ちゃんのようだ。


「ふーむ。――まあ、ずーっと旅館でぼんやりしてるっちゅうのも、つまらんし」


 ということで三人、案内に従って、すたすたと碁盤目状になっている道を進んでいく。

 時刻は羊の刻。午後二時くらいだ。本格的に昼見世が開かれる時間帯である。それまで少し閑散としていた格子戸の奥に遊女たちがひしめきあって、いよいよヨシワラ全体に活気が漲りつつあった。


 飢夫曰く、妓楼の格は、籬(格子)の形でおおよそ知ることができるのだという。

 大見世:全面が朱塗りの格子戸。

 中見世:格子の四分の一ほどが空いている。

 小見世:下半分に格子が組まれている。


「それでいうと、我々が泊まる見世はあれか。大見世ってやつか」

「そだね」

「ちなみに一回、いくらくらいが相場なんだろうな?」

「それだけど――、ちょっと計算が難しいんだ。この世界、変動相場制ってやつでね。でも、ざっくり金貨一枚=銀貨60枚=銅貨6500枚(※4)って感じ」

「ふむ。さっきの相場表だと、――金貨一枚が十万円くらいだったな」

「うん。だから、……ええと、最上級の遊女の揚代は、我々の世界で言うと十二、三万円、くらい?」

「……高っ」

「あくまで最上級の場合ね。そういう人を買う場合、酒宴をひらいて祝儀を出す必要もある。だから結局、一晩で百万くらいになったって話だよ」

「ひゃくまんえん……」


 つまり、最上級の遊女は、狂太郎たちが命がけで世界を一つ救うのと同様の額を、一夜にして稼ぐということか。


「ちなみに、最低だと、おいくら?」

「お蕎麦一杯」

「蕎麦……」

「うん。いわゆる夜鷹と呼ばれる人たちで、銅貨24枚で客を取っていたそうだよ」

「上と下とで、そこまで差があるのか。すげえ世界だな……」

「文明の未発達な世界では、人手よりモノの価値が重いからねえ」


 さすがの情報収集能力である。

 ……と、話しているうちに三人は、一件の湯屋に辿り着く。

 全体、どこか田舎にぽっかりとできたリゾート系の銭湯、という風情のその建物は、白い漆喰が塗られた壁の二階建てだ。南側の入り口付近には、白壁をキャンバス代わりに、全裸の天使たちが愉しそうに湯に浸かる絵が描かれている。

 明らかにその天使たち、――


「これ……ナインくんたちだよね?」


 知り合いがモデルと思われた。


「あいつらも、風呂に入るんだな」

「どーいう気分なんやろ。往来で自分のヌードが晒される気分って」

「まあ、スケベな絵じゃないし、いいんじゃね」


 この辺、感覚の問題だが。


「ファミリー向けってことさ。我々にゃあちょうどいい……」


 そう言って、店に入って。

 そこで一行はようやく、この街の奥深さを思い知ることになる。

 色街、――ヨシワラ。

 この街で、”健全な”遊びを愉しむなどと、もとより無理のある話だったのである。


 店に入るとまず、乳を放り出した女性と普通に目があって、


「わっ! すいません。間違えました!」


 と、引き下がろうとする。

 だが、そんな狂太郎を押しのけるように、後続の男性客が店内に入っていく。


「…………え?」


 目を見開いてもう一度、土間に足を踏み入れて。

 やはり、だだっ広い一室に、股間を軽く手ぬぐいで隠しただけの男女が歩き回っているのを見て、ぎょっとする。

 部屋の隅っこに、男女別の衣装籠が見られるものの、それ以外に男女を隔てるものはなかった。

 部屋の真ん中には、いかにもとってつけたような羽目板が一枚。「一応、混浴ではありませんよ」とでも言わんばかりだ。

 だが、男女共に羽目板の存在はあんまり気にしてないらしく、適当にその辺りを歩き回っているのがわかる。


 一拍遅れて店内を見回した殺音が、


「……わーお」


 と言ったきり、言葉を失った。


「たしかに……混浴では、なさそうだが。すごいな、ここの倫理観」


 まるでそれは、男の子が見る淫靡な夢そのものの光景だ。

 三人の中で、状況にもっとも早く適応したのは、飢夫であった。

 彼は普通に番頭の男に話しかけて、


「すいません。三人なんですけど」

「へい。風呂のみの利用で大人10枚、子供8枚」

「銅貨で?」

「もちろん。……でも、金貨で払ってくれたらおっちゃん、大サービスしちゃうよ! ははは!」


 どうやら飢夫のやつ、番頭に子供だと思われているらしい。


「他のサービスは?」

「丁子風炉のご利用なら個室で、贅つくしのコース。甘い香料、折鷹極揃おりたかごくそそりの煎茶、舟橋屋の菓子に、按摩がつくよ。こちらなら、銀貨1枚」

「1枚」


 だいたい、1700円か。


「さらに――お二階への案内なら、銀貨10枚ってところだ。どうする?」

「お二階ってのは?」

「へっへっへ。おチビちゃんにはまだ早いかなー?」

「自分こう見えて成人してるんで」

「あ、そおなの?」


 番頭の男は、狂太郎の顔をまじまじと観て、


「なんだ。似てない親子とばかり」

「一歳差の幼なじみです」


 ちょっぴり傷ついている。老け顔はコンプレックスなのだ。


「まあ、――要するに、ヨシワラ流の風呂上がりの楽しみ方をするとこっす」

「ヨシワラ流、というと?」

「男女がずらっと並んでてね、全身、油を塗りたくって蛞蝓なめくじみたいに絡み合うんすよ」

「へ、へえ……」


 想像しただけで、……すごい光景だ。

 生唾を飲む。


「ほな、うちは丁子風炉の利用で。按摩の方は、女性でお願いします」

「あいよ。――残りのお二人は?」


 一瞬、狂太郎と飢夫は、しばし目を見合わせて。

 しばらく、たっぷり、考え込んでから。

 結局、


「……同じく。……丁子風炉の、……利用で」


 と、苦しげに言った。

 その時の二人の意志は、おおよそ同じである。


――大丈夫。まだこの街には十日もいる。


 遊ぶ時間はまだ、たくさんある、と。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(※4)

 ちなみにこういう計算、普段は省略させていただいている。

 わざわざ今回だけ厄介な数字を掲載したのは、これが我々の世界の吉原とほぼ同等のルールに従っていることを示すためだ。

 江戸時代、文化文政期の平均の換算率も、おおよそ金1両=銀60匁=銭6500文ほどであったらしい。


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