100話 人に優しく
二人、――”ああああ”を伴って、砂浜を歩く。
人気はない。そうでなければ困る、ということもあるが。
やがて辿り着いたのは、最初にこの世界へ現れた辺りだ。
さく、さく、さく、砂を踏みながら歩き、――ふと、足を止める。
そこには、狂太郎が最初にこの世界に来たときに座ったビーチチェアが、雑多に置かれていた。
「あ。これ、まだあったんだ」
「ん?」
少女は、小走りにその椅子に駆け寄って、その上にごろりと寝転ぶ。
「これ、――初めてこの島に来た時に配置した、最初の家具なんです」
「そうなんだ」
「あの時はまだ、仮住まいのテント暮らしでして。……右も左もわからず、こんなものばかり集めてました」
そういって取り出したのは、ここに来るまでいつの間にか集めていた、貝殻の山だ。
「まあ、こんなものでも、不思議と小銭稼ぎにはなったんですけどね。今思えば、雑貨屋の人が気を利かせてくれたんじゃないかな」
「ふーん」
「あ、雑貨屋っていっても、今のタヌキさんじゃなくて、先代の人、ですけど。あの人はいつの間にか、どこかに行っちゃったから。……実を言うと、最初から島にいた人って、もうほとんど残っていないんです。引っ越しやらなんやらで、いつの間にかみんな、いなくなっちゃって。ニャーコちゃんくらいかな。まー彼女とも、結婚してから疎遠になっちゃったけど」
そう語る彼女は、どこか哀しげだ。
この島の人々の入れ替わりが激しいのは、以前彼女の口から語られていた。もちろん今では、別の理由があることを知っている。
狂太郎は遠く、水平線の向こうを眺めていた。
本当に……美しい場所だ。ここは。
休暇に時々、来たくなるくらいに。
「ところで」
「ん?」
「お話しいただけるんでしょう? ここ数日で起こった事件の、――”解決編”を」
「謎なら、きみが解いたはずじゃないか」
「一番、大きな疑問が残ってます。……ここは十五年間、ずっと退屈な島だったんですよ。それが、立て続けに三度も、異常な事件が起こった。これが偶然であるはずはありません」
「まあ、たしかに」
狂太郎は腕を組み、
「まあ正直、解決編というほど大層なものじゃあないが……」
と、前置きしてから、――ポケットの中から十徳ナイフを取り出した。
そして、ぱちんと、刃をつまみだす。
以前狂太郎が自分の手を傷つけた時と同じ、刃渡り三センチほどの小さなナイフだ。
「すまんが、手を出してくれないか」
「え、なんでですか?」
「いいから」
「い、いやです。こわい」
少女は、刃物を持った凶相の男に対するものとしては当然の反応を示す。
だが狂太郎はこれっぽちも意に介さず、
「大丈夫。痛いことはしない」
そう言って、怯える少女の左手をつかみ取った。
「たぶん、な」
「たぶんって、ちょっと……!」
そしてその手に、――容赦なくナイフを突き刺す。
「きゃ――っ!」
身をこわばらせる”ああああ”。
だが、――宣言した通り、ナイフが彼女を傷つけることはなかった。
その代わりに刃は、……それを振るった狂太郎自身の腕を、浅く傷つけている。
「……な。なに、これ……? っていうか、血! 血が出てますけど!」
「心配ない。かすり傷だ」
強がりながらも、当然、痛い。
狂太郎は、持ってきた消毒液と絆創膏で手当をしながら、
「……最初にした飢夫の推理は、正しかった。この世界はやはり”子供向け”だ。そもそも、他者を傷つけることはできなかったんだ」
すぐにナイフを引っ込めて、「驚かせてごめんな」と素直に頭を下げる。
少女はすぐに「構いません」と応えた。どうやら、恐怖よりも知的好奇心が上回っているらしい。
「どういうことなんです、これは」
「要するにこれも、――”異世界バグ”の一種だと言うことだ」
「以前も聞きましたけど、なんです、”異世界バグ”って」
「世界の創造主が、この世界を作る時にしでかした、ちょっとした失敗のことだ」
「失敗……」
少女はなんだか、複雑そうな顔をする。無理もない。自分の住んでいる世界が半端な出来だと、思いたくないだろう。
「どうも、この世界の生き物は、他人を傷つけられないようにできてるらしい。正確に言うと、その気にならないようにとでも言うべきか」
暴力のない世界。
子供向けゲームの世界。
狂太郎は、傷つけた自分の手のひらを少女に見せて、
「《精神汚染耐性》を持つ”救世主”ですら、こうなる。……誰かを傷つけるくらいなら、自分自身を傷つけてしまう」
その原因は、未だによくわかっていない。
ただ間違いないのは、何らかの、――精神的な影響が、この世界に存在する知的生命体全ての心を支配しているらしい、ということ。
”世界の意志”とでも呼ぶべきものが。
少女はそれで、狂太郎の言いたいことを察したらしい。
「ええとつまり、こういうことですか? この世界は物理的に……暴力が発生しないようにできている、と」
「物理的に、とは少し違うな。精神的に、だ」
「精神的……?」
「誰かを傷つけたい、嫌いだ、憎い。そう思っても、この世界の住人は皆、精神のどこかに安全装置のようなものを抱えていて、――実際にそれを、行えない。たぶんそういうじゃないかな」
それほど、突飛な話ではない。
我々の世界の人類も、殺人行為は精神に強いストレスを受けるという。
この世界の住民は、その忌避感が特に強烈だと言うことだろう。
ここに来てから、もっとも危険な思いをしたのは、チーター族の男に飛びかかられた時だったが、……あの時でさえ、子猫がじゃれついてきたかのような弱々しさだった(※12)。
「この現象はたぶん、これまでの十数年の間、何らかの拍子に発現したものだろう。話によるとこの世界、わりと最近まで、争いが絶えなかったようだし」
”ああああ”はしばし、「この人は何でそんな急に、突飛なことをいうのだろう」という顔をして、
「いやいや。でも……そんな。ありえなくない、ですか?」
「なぜ、そう思う? きみだって何度も、この島が退屈な場所だと言っていたじゃないか。……ひょっとするときみは、これまでの人生で一度も、暴力を目の当たりにしたことがなかったんじゃないのかい」
「それは……」
少女はそこでぐっと言葉を切って、
「でも、漫画とか、小説の世界なら……」
反論の語調は、弱い。
彼女もあるいは、心のどこかで気付いていたのかもしれない。
自分が存在しているこの世界の異常性を。
「そうだ。……この平和すぎる世界で、娯楽としての暴力を愉しむとするならば、――物語の世界にそれを求めるしかない」
だからきみは、この世界がそうなることを望んだ。
望んでしまった。
「でも、――」
彼女は、訝しげに狂太郎を見上げて、
「それじゃ、おかしいじゃないですか。我々はここ数日、立て続けに殺人事件を見ています。そうでしょ?」
「うん」
前提とする条件がわかれば、あとは裏付けを取るだけだ。
その作業は簡単だった。
島民が警戒していたのは”ああああ”だけ。
狂太郎一人でいた方が、よっぽど情報を得やすかったのである。
有力な協力者といた方が仕事がしにくくなるというのも、皮肉な話だが。
「だが、ぼくの話がすべて事実だとすると、――どうだろう。自然と、事件の全貌が浮かび上がってくる気がしないかい」
「……え」
その一言で、聡い”ああああ”は、結論を察した。
「まさか……っ」
住民がみな、平和に生きる世界。
誰も傷つけ合わない、優しい世界。
そんな世界で、人が死んだならば。
誰かが傷つけられたなら。
考えられる犯人は、他にいないじゃあないか。
「要するにどの事件もぜんぶ、自殺だったということだ」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(※12)
どうも飢夫には、そういう風に見えなかったようだが。
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