89話 幽霊

 誰かの悲鳴に気を引かれる、ということはある。

 だが、息を呑む静寂にぎょっとするのは、その時が初めてだった。

 それはまるで、コンサートが始まる前のような。

 誰かがステージに上がった瞬間のような。


「――?」


 最初にその異変に気がついたのは、飢夫だった。

 彼が、狂太郎の肩ごしに見えるものに気付いて、


「わ」


 と、短く言う。


「わ。わ。わ」

「――?」


 狂太郎、なんだか眠そうな表情を飢夫に向けて、


「どうした? 急に素っ頓狂な声を上げて」


 そして、ゆっくりと後ろを振り向いて、


「……おおっ!」

「――?」


 次に変な顔をするのは、”ああああ”の番だ。

 だが彼女の場合、ゆっくりとその存在を目の当たりにしている時間はなかった。


「――伏せろ!」


 狂太郎が一喝し、――自分たちの目の前にあるテーブルをひっくり返す。


「え?」


 飢夫は咄嗟に、目を丸くする”ああああ”を抱きしめ、身を盾にした。

 同時に、テーブルの上に並べられたトマトが数個、宙空へと跳ねる。

 そして、それらトマトのうちの一つが、……ぱっと弾けた。

 弾丸に撃ち抜かれたのである。

 トマトの汁が、血痕のように飢夫と”ああああ”の頭に降り注いだ。


「うひゃああああああああ!?」


 そこでようやく、少女が悲鳴を上げる。

 その言葉を皮切りに、辺りが騒然となりはじめた。

 まるで彼女が叫ぶことで、そうしてもよい許可を得られたかのように。


 テーブルに身を隠しつつ、飢夫が見たもの。

 さきほども見かけた、あの男だ。

 たしか名前は、サムと言ったか。

 死んでいたはずの彼がいま、例の二丁拳銃を構えている。

 幽霊。

 そんなワードが、頭に浮かぶ。


――これが、……異世界ってことか。


 そう、思う。

 どこか虚ろな眼をした彼は、血で濡れた顔面をこちらに向けて、拳銃の引き金を絞った。

 木片が散り、飢夫たちが身を隠しているテーブルに穴が空く。


――なんだこれ。ぜんぜん盾にならないじゃないか。この前実況したFPSとぜんぜん違うぞ。


 無力に焦る飢夫を宥めたのは、傍らの友人。仲道狂太郎だ。

 彼は、飢夫の肩をぽんぽんと叩いて、

 

「安心しろ。危なくない」

「な、……嘘だろ?」

「殺気がない」


 そんな馬鹿な。何を言ってる。どうしてそんなことがわかる? 不合理だ。

 いろいろ反論したかったが、――その前に彼は《すばやさ》を起動する。


――鞭を素早く振ると、びゅんびゅんって、風を切るような音がするだろ。そういう音が聞こえたんだ。そこから先もう、目にもとまらぬ速さだったよ。一陣の風が吹き抜けていく、って言えば良いのかな。


 のちのち聞いた話によると、狂太郎がその時発動させた《すばやさ》の段階は七。その状態での速度は、おおよそ時速300キロ前後。これは新幹線と同じくらいの速度だ。

 その後に起こった格闘は、――ほとんど一瞬にして決着が着いた。


「――ッ!?」


 疾風迅雷とは、まさにこのことである。狂太郎は二丁拳銃を持つ男の手首に手刀を打ち、それを奪い取ったかと思うと、いったんレストランのキッチンに引っ込んで梱包用の紐を取り、あっさりと彼を捕縛してしまう。


「…………なッ!?」


 毛むくじゃらの顔が、驚愕に歪んだ。


「た、た、助け……ッ」

「悪いが、もう悪さできないぞ。――きみはなぜここに……」


 その瞬間であった。

 飢夫の死角からもう一つ、ひゅん、と、風を切るような音が聞こえたのは。

 嫌な予感がして、咄嗟に叫ぶ。


「きょ、狂太郎……ッ!」


 警告は間に合わず、一匹のネコ科の動物が飛びかかった。その正体には気がついている。

 チーター。動物界最速の生き物だ。

 それは――あるいはこの世界において唯一、狂太郎に対抗しうる速度を持つ動物であったかもしれない。たった三秒でトップスピードに至るという”チーター族”の彼は、おおよそ時速100キロほどで狂太郎に肉薄した。

 そして、


「――うおおッ!?」


 彼を抱きしめるような格好で、飛びかかる。

 油断していた狂太郎の加速は間に合わない。今度は彼の方が先手を取られて、地面に組み伏せられた。

 咄嗟に、飢夫は席を立つ。友だちがやられていて、ただ立ちすくんでいるほど彼も自尊心に欠ける男ではない。

 だが、もとより体力がある方ではない彼の努力は、まるで報われなかった。


「ちょ……は、はなせ!」


 ”チーター族”の彼は、まるで恋人を抱きしめるように強く、狂太郎をハグし続けている。


「うわ、すご、ぜんぜん離れない……!」


 その時、咄嗟に彼が目にしたものがあった。

 サムの拘束を解く、何者かの姿だ。”チーター族”の共犯。


「逃げろっ。はやく!」

「急げ! !」


 共犯たちの怒号が響き、ネズミ頭の男が逃げ去っていく中、にっちもさっちもいかない飢夫は、このように思った。


――いやあ、参った! 世の中、楽な仕事なんてないんだな。


 と。

 無理もない。飢夫は先天的に、荒事に向いていない。

 敵を見かけたら、喧嘩するよりもまず、仲良くなる方法を模索する。彼はそういう生き方をしてきた。

 だから、この手の単純な暴力に耐性がない。


 とはいえ、結果だけ言うのであればそれで良かったのかも知れない。

 下手な手出しをされるより、――放っておかれた方が、よほど対処しやすかったためだ。

 狂太郎が”チーター族”の彼を振りほどいたのは、それから数秒後。

 彼は、この世界の住人に共通する、とある弱点を突いていた。

 股間が丸出しであるという、致命的な弱点を。


 気付けば”チーター族”の彼は泡を吹いて倒れていて、狂太郎は濡れ布巾で手を拭いている。


「おい、大丈夫か? 怪我はないか?」


 飢夫は、友人の逞しさに舌を巻きながら、


「だいじょぶ。――そっちこそ、怪我は?」

「ない。猫にじゃれつかれたようなもんだ。見かけ倒しのやつだった」

「……逃げたアイツは?」

「わからん。だが、すでに”ああああ”に頼んで、警察に通報させている。島の連中は、彼女の命令に弱いみたいだからね」

「そ、そう……」

「島は狭いし、間もなく捕まるはずだ」


 おおよそ、その時である。

 目の前のこの男と自分の、”日雇い救世主”としての適性の差を思い知らされたのは。


――家でゲーム実況してるほうが似合ってるな。わたしには。


 飢夫は素直に、そう思った。



 それから、一時間後。

 ”オオカミ族”の青年のしょぼくれた報告を受けて、第一声。


「取り逃がした?」

「……取り逃がした、というべきか、なんというべきか」


 駆けつけた彼は、すっかり耳と尾が垂れている。


「いずれにせよ、奴を捕まえられなかったんだな?」

「ハア」

「共犯にいたはずの、もう一人の”チーター族”も?」

「あ、そっちは捕まえました。現在拘留中です」


 そうか。と、狂太郎は嘆息して、


「しかし、すばしっこい方を捕らえて、そうでない方を捕らえられないなんてことがあるのか? こんなに狭い島で?」

「面目ありません。……というかこの一件、なんだか妙、なんです」

「妙?」


 彼の話をまとめると、こうだ。


 通報があった”オオカミ族”たちは、すぐさま総動員で”オポッサ族”のサムの捜索に当たったという。

 だが不思議なことに、どこを探しても影も形もない。

 山エリアを含めたほうぼうを探し回ったが、結局彼の姿はどこにも見つからなかったという。


「それで?」

「………は」

「その後、どうなった?」

「一時、休憩のために警官の一人が戻ったところ、……見つかったんです。というか、もともとそこにあった、と言うべきでしょうか」

「?」

「”オポッサ族”のサムの死骸ですよ。死体安置所に。そのまま、置かれていたんです」

「ほう……」


 いかにもそれは、先ほど狂太郎がした話を裏付けるような、――超自然的な決着であった。


「あ、あ、あ、あのぉ……」


 そこで”ああああ”が、笑っているような、泣いているような、どこか複雑な表情で口を挟んだ。


「ちなみにその死体、間違いなく、死んでたんですよね? ――死んだふり、とかでなく」

「ええ。間違いありません。今度はしっかりと検死いたしました。弾丸が脳を貫通していたようです」

「もし、その状態で起き上がったとしたら」

「それはもう。――幽霊か何かだった、としか……」

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