20話 死ぬ覚悟
まず狂太郎は、地面を強く蹴った。
これが大きな失策だと気付いたのは、その次の瞬間である。
――うおおおおおッ!?
音速まで加速した状況下における実感が無重力空間に近いことは、既に触れた。
では、その状態で地面を蹴ると、どうなるか。
結論からいうと、――力を入れた方向に向かって、無限に跳躍することになる。
「ま、じ、か!」
狂太郎は、
同時に、
ぐきッ!
高二の体育の時間以来の感触(※31)。足首を捻ったらしい。
この時の怪我は帰還後、病院に行ったところ全治二週間の捻挫だと判明する。
とはいえこの時はアドレナリンのお陰か、ほとんど痛みは感じなかった。
「……ちっ」
小さく、舌打ちする。《すばやさ》のレベル8以上は、これが怖い。
ここに来るまで速度をレベル7前後に抑えてきたのは、そうした理由のためだ。
――いずれにせよ、……ここが正念場だ。
狂太郎は歯を思いきり食いしばって、身体を慎重に動かす。
今度は、地を這うように壁を蹴ることで、
ふわり、と、スーパーマンにでもなったような空中浮遊。そして彼女の背に両足を乗せる形で着地する。
それは、組み体操でもしているような、異様な絵面であった。
敵はマネキンのように静止して、ピクリとも動かない。
彼女の主観ではまだ、コンマ1秒にも満たない、ほんのわずかな時間のはずだ。
頭部を両膝で挟み、捻れた角をハンドルのように掴んで、――片手に持った剣を、そっと彼女の眼球に当てた。
――今度は間に合ったか。
一般に、瞬きの速度は100~150ミリ秒とされている。
敵の反射速度を上回り、彼女の目を正確に潰すためには、どうしてもこの手を使う必要があった。
とはいえ、生きた動物の目を突くという行動は流石に、気が滅入るものだ。
しかし、――二度とあの光線を使わせないためにも、やり遂げなければならない。
「ごめんな」
恐らく、敵にとっては何の足しにもならないであろう、謝罪の言葉を呟いて、狂太郎は両手に力を入れる。
ずぶ、と、嫌な感触がして、彼女の右目にが潰れた。
まだこの㜳は、自分の身に何が起こっているかも気付いていないだろう。
狂太郎は剣を引き抜き、……今度は左目にそれを、深く突き立てる。
「――よし」
そして剣の刃に、とんがり帽子の懐からもらってきた”雷撃符”をありったけ張り付けた。
そこでいったん、《すばやさ》のレベルを7にまで緩めて、安全に
一拍遅れて、カッ! と辺りが瞬間的に照らされて、雷の力を付与された剣が金色に輝いた。
「う、わ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あッ!」
加速された時の中でも、彼女が苦悶の声を上げているのがわかった。
段階的に《すばやさ》の強度を下げていく。
会話するためには、そうする必要があったためだ。
ふっと、世界に音が戻った。
低音域に引き延ばされた世界にいたためか、仲間たちの怒号がむしろ、耳に心地良い。
「あいつ、怯んでるッ」
「
「おいおい、チャンスじゃないか」
「だ、だれがが殺るッ?」
「誰でもいいッ。とにかく治癒される前に……ッ」
口々に叫び合う仲間の声を全て無視して、狂太郎はすたすたと
「……どうだ? どこにいるんですッ!」
すると彼女は、四方に向けて、両腕を滅茶苦茶に振り回した。
無論、狂太郎も、敵の手が届く範囲にいるほどマヌケではない。
「もう、止めにしないか」
この期に及んで、狂太郎はまだ和解の道を模索していた。これは残念ながら、全くもって無意味な行動である。
だいたい、この時点で彼女を見逃したとして、仲間にどう言い訳するつもりだったのか。
「……おい。いっておくが、ぼくは……」
そこまで親切じゃないぞ、と、この状況では全く説得力のないセリフを口にしかけた、その時だった。
ふっ、と。
「――ッ?」
何が起こったのか。唇を真一文字にする。
危険だ。そう判断した時には、既に遅かった。
背後から狂太郎の右手が、ぐっとつかみ取られたのだ。
「なッ……!?」
振り返る。怪物の牙が、ちらと見える。その頬が、目から流れ出る血涙で濡れている。
そして彼女の、
「捕まえたぁッ」
耳を嘗めるような声。
反射的に、何が起こったかを悟る。
――”伝道者”の転移魔法かッ!
まさか、こんな使い方があったとは。
慌てて、加速を再開……する、が、万力のように締め上げられた両腕は、ぴくりとも動かない。天使に与えられた力は、単純な膂力を底上げするわけではないのだ。
怪物は狂太郎を盾にするようにして、
「そこまでだッ」
と、残った巡礼者全員に叫ぶ。
救出のため接近していたガンダム鎧が、「だるまさんが転んだ」で遊ぶ子供のように足を止めた。
――参ったな。このままでは殺されてしまうじゃないか。
内心、狂太郎は歯がみしている。
「この男を殺されたくなければ、――動くな」
残った仲間たち五人が、それぞれ苦い表情でこちらを見上げている。
「みんな……ッ」
「黙れ」
ぎし、と、空いた手で喉元を抑えられ、それ以上口をきけなくなる。
まずい、と、思った。
こちらはすでに、足を負傷している。もし万が一、この状態から逆転できたとしても、また
そうなったらもう、ジリ貧である。こちらの負けは決まったようなものだ。
「……ぐっ」
みし……みし、と、握力のみで腕の骨が軋みを上げるのがわかった。
利き腕がプレス機にかけられているかような恐怖。
自分の人生がいま、恐ろしい勢いで台無しにされていくという実感。
「や、やめろ!」
静止の声を上げたのは、銀色の髪の青年だった。
彼はいま、狂太郎が落とした剣を手に取り、身構えている。
「その……人は……うまくいえないけど! 俺たちと違うッ。違うんだ! この世界のために戦う人じゃあないんだッ。本当はぜんぜん、関係ない人なんだッ。……それは……」
お前だってそれは、わかっているはずだろう?
と、言わんばかりのギンパツくん。
とはいえ彼のセリフは、いささか説得力に欠けた。
狂太郎が異世界の人間だからといって、
しかし、その時の狂太郎には、彼の想いが少しだけ嬉しかった。
無理もない。36歳にしてフリーターは伊達ではない。
人の精神の健康には、誰かに必要とされることが肝要だ。
仲道狂太郎にとってそれは、ずいぶん久方ぶりのご馳走だったはずである。
だから、だろう。
仲道狂太郎が、このメッセージを送ることができたのは。
「や」「れ」
と。
口の動きだけで。
ぼくごと刺せ、と。
――死ぬ覚悟、というと大層なもののように聞こえるがね。案外その一線は、簡単に越えられるものさ。
これは帰還後、本人の口から話されたセリフである。
青年は、少し迷った表情を見せた。
だが狂太郎は、不敵に笑う。
安心しろ。
何もかも、ぼくの手のひらの上。予定通りだから。
と、嘘を。
対する青年の目に、狂奔の相が浮かんだ。
やります。
そういう、決意の眼だ。
そして彼は目をつぶり、以下のようなことを考えていたという。
――すまん。サイゼリヤの支払い、頼んだ。
と。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(※31)
とはいえ、これでもマシな方である。
もし狂太郎が通常の音速で壁に激突したのであれば、一瞬にしてミンチになっていたことは間違いない。
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