「まだ大丈夫。歩けるわ」

「駄目です」


 エレインがどれほどの痛みを我慢しているか、ネイサンには腫れ上がり方をみればすぐにわかった。これ以上、エレインに無理はさせられない。


「俺が背負っていきましょう」

「駄目よ!」


 ネイサンが驚くほど、エレインは即座に否定した。

 まるで、ネイサンがそう言うことをわかっていて、恐れていたようだった。


「この場にはとどまれません。ここは木の数も少ない。ヘリが来れば、発見されてしまいます」

「わかっているわ。だから、私、ちゃんと歩く」

「その足では無理です」

「ネイサンだって、その肩で私を背負うのは無理よ」


 雪の中を歩くため、ネイサンは白のスキージャケットを着ている。その白いジャケットの肩は、すでに半分以上血で赤く染まっていた。


「ずっと後ろから見ていたんだから。出血、全然止まっていないわ。私を背負えば、もっと出血しちゃう」

「これぐらい、大したことありません」


 エレインは激しく頭を振って否定する。だが、ネイサンにとっては、自分の体よりもエレインの安全のほうが、何倍も大切だった。エレインがどれだけ拒否しても、強引に背負おうとした。


「駄目!」


 エレインは腕を闇雲に振り回して抵抗する。さすがにネイサンも扱いかねて、背負うのではなく、赤ん坊のように抱き上げた。


「ネイサン! 馬鹿! やめて!」

「大人しくしていてください」

「嫌よ。わかって。私、あなたのお荷物にはなりたくないの」


 ネイサンの胸をつかみ、エレインは悲痛な声を上げた。さすがにネイサンも無視することが出来ず、足を止めるとエレインをそっとおろす。

 エレインは涙をためた瞳でネイサンを見上げると、無理に作ったとわかる強張った笑顔を浮かべた。


「救出は失敗したことにしましょう」

「エレイン様?」

「ネイサンはこのまま一人で下山して。私はここで救助を待つわ」

「危険です」

「わかってる。でもいいのよ。私が死ねば、テロリスト撲滅のために、世論の援護で派手に動くことが出来るでしょ。それに、私が王宮にいないほうが嬉しい人も多いし」

「馬鹿なことを言わないでください」


 ネイサンは力込めて、エレインの手首を握りしめる。


「どうして? 私の利用価値なんて、それぐらいじゃない」

「自分を卑下するのもいい加減に」

「卑下じゃない。真実よ。そりゃ、お姉さまは悲しんでくれると思うわ。でも、お姉さまは女王だから、私の選択を有効活用してくれる」


 自棄になっている様子はない。エレインはひどく冷静な表情で、淡々と話していた。

 そして、じっとネイサンを見上げる。どこか空虚な、諦めきった無表情で。


「ネイサンにとっても、悪い話じゃないでしょ? テロ撲滅に動けるし、王宮で嫌味を言う必要もなくなる」


 エレインの抱える孤独の深さをかいま見た気がして、そしてそれが、想像していたよりもずっと深いもので、ネイサンは驚いて言葉を失った。

 居場所がないとエレインは言うが、いつも彼女は友人や仕事仲間に囲まれて楽しそうにしていた。だからネイサンは、エレインの言う居場所というのは、王宮内での確固たる地位だと解釈していた。

 だが、エレインが求めている居場所は、地位のことなのではない。エレインが死ぬようなことがあれば、心から嘆き悲しむ家族や恋人のこと。エレインが何者であろうとも受け入れ、無償の愛情をそそぎ、必要としてくれる、そこにいることが無条件で許される場所のことだ。

 妾腹で認知もない王女を認めようとしない王宮の中で、エレインを受け入れたのは、姉のアンドレア、ユージンとサラ、そしてネイサンぐらいだった。だが、アンドレアはエレインが言ったとおり、姉という以前に女王という立場があり、ユージンとサラは結婚して家庭を作り、二人の世界を作った。

 エレインにとって、ネイサンの存在は特別だったのかもしれない。居場所とまでいえなくても、王宮にいてもいいという確信だったのかもしれない。

 それなのに、ネイサンはエレインが大人になって仕事を始めた頃から、エレインを表面的に拒否し始めた。そんなネイサンの態度は、受け入れて貰っていたのは可愛い子供だったからで、決して自分自身を受け入れてもらっていたわけじゃない、ネイサンも王宮の他の人々と同じなのだとエレインに誤解させた。

 死んでもいいと、死んでも誰も本気で悲しんでくれないなどと、そんな寂しすぎることを本気で考えさせてしまうほど、エレインを追い詰めてしまったのだ。


(なんてことだ……俺は……)


 他の誰より、エレインに居場所を与えられたのに。他の誰よりも、エレインを愛し、エレインを必要としている自信があったのに。そしてきっと、エレインを必要とするこの想いは、エレインの孤独を埋めることができたはずなのに。


(それなのに、俺が彼女にしたことといえば……!)


 ネイサンは、衝動的にエレインを引き寄せて、強く強く腕の中に抱きしめていた。


「俺がいます。俺が、いつもあなたの側にいます。俺はあなたの側にいなければ生きていけない」


 髪に顔を埋め、エレインの頭をしっかりと抱きかかえる。たまらなくエレインが愛おしくて、そうせずにはいられなかった。


「あなたを愛している。あなたなしでは生きていけない男がいることを、どうか信じてほしい」

「……うそよ」

「ずっとあなたを愛していた。愛おしすぎて、気が狂いそうだった。だが、あなたの拒否が怖くて、何も言えなかった」


 言葉は自然とあふれ出てきた。それをもう、止めようとは思わなかった。それどころか、一つでも多くの言葉を発し、自分の心の内を全てエレインに伝えたいと思った。

 そうすることで、深く傷つけてしまったエレインの心を、少しでも癒せればと思った。


「あなたが欲しかった。心が手に入らないのなら、せめて抱きたいと思った。恋人が居るのに他の男と寝てくれるのなら、ありがたいとさえ思った。それぐらいあなたが欲しかった」


 そっとエレインを上向かせると、泣いて赤くなった瞳がネイサンを真っ直ぐに見上げてきた。


「……本当に?」

「本当に。自分の命をかけてもいい。俺はずっとずっとあなたが欲しくて、そんな自分を抑えるために、あなたに冷たくしてきた。あなたを求める気持ちが強すぎて、そうしなければあなたを傷つけてしまいそうで」


 ふるふると、エレインは首を横に振った。まるで、どれだけネイサンに求められても、自分は傷つかないというように。すべてを許し、受け入れてくれているようなエレインの微笑みに、ネイサンは胸が熱くなった。

 その時、遠くヘリの爆音が聞こえてきて、ネイサンは上空を警戒する。

 ヘリの姿はまだ見えないが、ここにいたら、発見されるのは時間の問題だ。

 ネイサンはエレインの頬を両手で包み込むと、素早く触れるだけのキスをした。


「行きましょう」


 エレインを背負うため、ネイサンは背中を向けてしゃがむ。だが、エレインはまだ躊躇していた。


「俺は絶対にあなたを残して行きません。あなたを死なすようなこともしません。なぜなら、それは俺にとって自分が死ぬに等しいことだからです」

「ネイサン……」

「大丈夫。俺はこの程度の怪我ではくたばりません。さあ」


 おずおずと、エレインが肩に手をのせた。ネイサンは最後まで待たず、エレインの太股をつかむと、強引に背負いあげる。驚いてバランスを崩しかけたエレインが、しっかりと肩にすがるのを確認して、ネイサンは走り出した。

 正直、出血のせいで頭が少しふらついていた。足も重く感じていたし、体が冷たく走ればすぐに息が上がった。この状態でエレインを背負い、雪山をおりるなど、いつもならしようとはしなかっただろう。最悪、エレインも救えず、自分も生還出来なくなる。だが、不思議と今のネイサンは、自分が成し遂げることをほんの少しも疑ってはいなかった。

 背中のエレインの体温が、じわりと自分の体にしみこんで、エネルギーにかわっているように思えた。エレインの重みはほとんど感じず、まるで羽を背負っているようにさえ感じられた。

 エレインを守るのだと、体中の細胞が動き出す。体の底から、どんどん力がわき上がってくる。歓声をあげたいほど、ネイサンの心は浮き立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る