MONSTER
KAI
第一章
1
199X年12月14日
「もうすぐ、出発ですね。予報では、天気もいいみたいですよ」
打ち合わせの帰り、王宮の廊下を並んで歩きながら、エレインの秘書官アリシアがそう話しかけてきた。明るく楽しげな口調から、終始重苦しい雰囲気の中で行われた打ち合わせに沈んでいたエレインの気持ちを浮き立たせようと、気を使ってくれているのがわかる。
まだ若く、エレインといくつも変わらないアリシアは、王宮に迎えられてから同年代の友人がまったくいないエレインにとって、気さくな会話を楽しめる数少ない一人だ。
「レイノックスに行ったら、お土産買ってきてくださいね。あそこって、革製品が有名じゃないですか。新作のバッグ、チェックしてきてくださいね」
「いいわよ。それから、この前、アリシアが欲しがってた、クリスマス限定のネックレスのセットね」
レイノックスへの公式訪問は、ただの表敬訪問ではない。買い物に街へ出かける時間もないだろうし、保全上の理由から許されないだろう。エレインもアリシアも、そんな事情をわかっていつつ、軽口をたたく。そうでもしないと、両肩にずっしりとのしかかった重責に、エレインは押しつぶされてしまいそうな気がしていた。
そんなエレインに、秘書官のアリシアやサラは、頑張りすぎですよと、優しい手を差し伸べてくれる。とてもありがたかった。
「あれ、売り切れちゃったんですよ」
「あのお店の本店がレイノックスだから、もしかしたらあるかも。あったら買ってきてあげるね」
ありがとうございますと笑うアリシアに、エレインも微笑み返した。
十六歳のとき、王宮に迎えられていなかったら、きっと今もこんな会話を普通にしていたのだろうなと、エレインはふと思う。
六年前のクーデターで、エレインの運命は大きく変わってしまった。それまで、本当の両親だと信じていた人々は、荒唐無稽な話を持ち出し、ついさっきまで娘だったエレインに敬語を使って、頭を下げた。
エレインに選択権などなかった。女王に望まれるまま、王宮に連れてこられた。
実の姉だという女王アンドレアは、神々しいまでに美しく頭のよい女性で、最初はとても姉だと思うことなど出来なかった。今は仲のよい姉妹になれたが、姉にとって何より大切なことは、たった一人の肉親であるエレインではなく、この国と国民だ。それは、女王として正しいことだと思うが、エレインが欲しかった家族は、この王宮のどこにもいなかった。
それでも、自分のいるところは、この王宮しかないのだと、エレインは思う。もうどこにも逃げ出すことは出来ない。いつの間にか、王妹エレインという存在は、自分でもどうしようもないほどに大きくなってしまった。
何をするにしても、この国と姉の存在を抜きに考えることは出来なくなった。だから、この王宮で生きていけるように、王妹エレインとして認めてもらえるように、日々努力を欠かしたことはない。
それなのに。
「楽しそうでなによりですな、エレイン様」
背後からかけられた声に、エレインは顔から血の気が引いていくのを自覚した。
「まあ、それぐらいの楽しみがなければ、公式訪問などやってられないでしょう」
声の主をエレインは振り返り、呆然と見上げてしまう。
ネイサン・グウィン。三十四歳という若さで、この国の筆頭公爵グウィン家の当主。そして、近衛軍第一大隊の隊長。現在、近衛軍総司令官は不在なので、実質、ネイサンが軍のトップということになる。女王アンドレアに次ぐこの国の最重要人物だ。
「買い物には、護衛をつけてください。おっしゃっていただければ、何人でも手配しましょう。他ならぬ、エレイン様のためですから」
冷ややかな口調。身長差のあるエレインをはっきりと見下ろす、高圧的な態度。エレインに敬語を使いながらも、まるで聞き分けのない子供を相手にしているようで。馬鹿にしていることを隠さない。
慇懃無礼とは、こういうことかと思わせるような、ネイサンの態度。
いつものことながら、エレインは深く傷ついて、言葉も出なかった。
今の会話は軽口で、公式訪問中に買い物に出かけるつもりなどないこと、警護の軍人に迷惑をかけるつもりもないことを、申し開きしなければならない。だが、あまりの悪意に喉の奥が凍りついたように声が出なかった。
ネイサンは黙ったままのエレインを無視し、背を向ける。その冷たい眼差しから解放されて、エレインはようやく息がつけた。
「ネイサン様!」
同じく呪縛がとけたのか、隣のアリシアがネイサンの背中に駆け寄った。
「エレイン様は公式訪問先で買い物になど、行かれたりはしません! 今の話は、冗談で」
「さがれ」
じろりとネイサンに睨まれて、アリシアは再び硬直してしまう。ネイサンはそのまま廊下を歩き去った。
ネイサンに睨まれて、平気な人はいない。自分のせいで、アリシアには怖い思いをさせてしまったと、エレインはアリシアに駆け寄った。
「アリシア、大丈夫?」
予想どおり、アリシアは青い顔をしていた。
「ありがとう。かばってくれて」
「とんでもないです。私が、あんな馬鹿なことを話していなければ」
「いいのよ。いつものことだし。それに、ネイサンもわかっているんじゃないのかしら」
アリシアは困ったような顔で黙った。きっと、同意見なのだろうと思う。
ネイサンはきっと、今の二人の会話が軽口だとわかっていつつ、あんなことを言ったのだ。エレインを傷つけるためだけに。
いつものことではないかと、エレインは小さく唇をかみしめる。
ネイサンは常にエレインをまるで心のない人形のように扱う。思いやりとか、エレインを気遣うということが、まるでないのだ。エレインを避けていることも隠さない。廊下ですれ違っても、ちらりと挨拶するだけで、足を止めて立ち話しようとはしない。それどころか、ネイサンが誰かと立ち話しているところに、エレインが近づいていくと、ネイサンはさっさと立ち話しをやめてどこかに行ってしまう。
それでいて、今のようにエレインを攻撃する機会があれば、それを逃すことはない。嫌っていることを隠そうとしない。
ネイサンは女性には優しく礼儀正しい。それなのにエレインにだけ冷たい態度をとるのが、他の女性に対する態度と違いすぎて、あまりにも目立つ。最近では、周囲のほうがエレインとネイサンに気を遣って、二人を同時に誘わないように、同席することがないようにしているぐらいだ。
冷ややかな態度、素っ気ない言動、あからさまに避ける視線。ネイサンにこれ以上なく嫌われていることは、エレインにだってわかる。そして、これほどまでに嫌われていることに、エレインは深く傷つき、疲れていた。
「ネイサン様も今頃、言いすぎたと後悔されているかもしれませんよ」
アリシアの慰めに、エレインは黙って頷くことしか出来なかった。ネイサンが後悔なんて、しているわけがないと確信しつつも。
「エレイン様が頑張っておられること、わかっていらっしゃいますよ」
それもありえないと、エレインは思う。それとも、頑張っていることは知っていても、それをよく思っていないか、その頑張りが十分でないと思っているか。
この王宮で王妹として認めてもらおう、頑張ろうとすればするほど、ネイサンの態度は冷ややかになっているようにしか思えないからだ。
王宮に来たばかりの頃、ネイサンはとても優しく兄のような存在だった。だが、エレインが王妹としてこの王宮に居場所を求めれば求めるほど、ネイサンはエレインと距離をおくようになった。
それは、可愛らしい子供のエレインを受け入れることは出来ても、一人の人間としてエレインを受け入れることは出来ないということだとしか思えない。
彼の中で、自分は所詮、一生懸命に背伸びをしているお馬鹿な子供なのだと、エレインは思い知らされるのだ。
「エレイン」
周囲を気にしながらの低められた声で呼ばれる。
振り返ると、硬い表情のマラカイが、じっとエレインを見つめていた。
「話があるんだ。少し、いいかな」
顔をしかめてしまいそうになったのを、エレインは無表情にとどめる。
いつから、マラカイとの会話が億劫になったのだろう。この忙しいときにと苦々しく感じてしまう。
「アリシア、サラに言っておいてくれる?」
「わかりました」
アリシアはにっこりと微笑むと、一人で執務室へと戻っていく。
「場所を変えようか」
「ええ」
どうやら楽しい話ではないようだと、エレインはこっそり小さなため息をついた。
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