16

 古く、汚れ、さびれたモーテルだった。だが、幸子には気にならない。朝まで誰にも見つからなければ、充分だ。

 傍らに、浩一がいるから――。

 夜明けまでは、まだ間がある。枕元の小さな赤いランプが、唯一の明かりだ。ベッドの中で幸子は、些細な用事を思い出しでもしたようにつぶやいた。

「浩一さん……私、子供が産めなくなっちゃった……」

 浩一の腕に包まれながら一晩考え、やっと切り出す決心を固めた一言だった。さり気なく言ってしまいたかった。動揺を見せまいと、必死に深い呼吸を保つ。だが、声の震えは隠せない。

 迷いは深かった。

 浩一は、幸子が自分の子供を産むことを切実に願っている。その願いを裏切ることは後ろめたい。一方で、責任の全てが幸子にあるわけではない。暴行という不運がなければ、出産の可能性は残っていたのだ。幸子には、自分の努力で浩一の失望を埋める覚悟もあった。なにより、真実を隠し通すことはできない。全てを捨てて逃げる前に、はっきり言っておきたかった。

〝きっと分かってくれる――〟

 間違っていた。

 浩一の目の色が変わった瞬間、幸子は考え違いを思い知らされた。

 浩一は長い沈黙の後で、表情を失った声でつぶやいた。

「子供ができない……? どういうことだ? 誰が言った?」

 幸子はその低い声に恐怖さえ感じた

〝浩一さん……なぜ、そんな声で……? 憎んでいるみたい……〟

 だが、口を開いた以上、全てを伝えないわけにはいかない。中途半端に真実を隠そうとすれば、余計に感情がもつれる。

〝私が悪いんじゃないもの!〟

 幸子は腹をくくった。

「お医者さん……この前、病院に入った時に。公園で襲われて流産したすぐ後に、不妊症になったって分かったらしい……」

 浩一の声からは、抑揚も体温も消えていた。幸子を非難している。

「なぜ、すぐ話さなかった?」

〝私、悪くないもん!〟

 幸子は、涙がにじみだしてくるのを他人事のように感じた。

「教えてくれなかったんだもの……聞かされたのは、二度目に入院した時……。話したくても、連絡が取れないし……」

「間違いないのか?」

「不妊のこと?」

「ああ」

「たぶん……。でも先生は『一〇〇パーセント確実じゃないし、奇跡みたいなことだって起こるから』って……」

 浩一は寝返りをうって背中を向ける。

「奇跡を祈れってか? 俺に」

 幸子は浩一に突き放されて初めて、失ったものの大きさを実感した。

〝こんなに責められるの? 赤ちゃんを産めなくなると……〟

 涙をこらえられない。浩一の背中に顔をうずめて、必死にしがみつく。

「でも……暴行されたのが原因よ。犯人は洋さんだって……あなたも言ってたのに……。ごめんね、私、頑張るから。赤ちゃんができなくても、頑張るから。だから。お願い……許して……」

「頑張るって……何を?」

「だから、あなたを幸せにできるように……」

「言ったはずだ。『俺の子供を産め』と。ほしいのは、子供だ。俺の血を受け継いだ子供だ。家族だ。誰が産むかは、問題じゃない」

 幸子の身体から血の気が引く。浩一の背中から顔を上げる。

「問題じゃない、って……どういう意味……?」

 浩一の答えはあくまでも低く、暗い。

「言葉通りだ。問題じゃない」

「私はどうでもいい……そういうこと?」

「子供が産めない女に、価値はない」

「価値って……私は道具? 愛してくれたんじゃないの……?」

 浩一は振り返った。幸子の身体が汚物でもあるように押しのける。

「だからおまえは、俺の子供を産む女だ。なのに、不妊だと? 子供ができない女に用はない。おまえとは終わりだ」

「終わり……うそ⁉ 私、あなたのために全てを捨てたのよ!」

「だから、何だ? おまえはそうしたかった。それでいいじゃないか。うっとうしい親父から逃げたかったんだろう?」

「違う! あなたを愛しているから――」

 浩一の笑いは冷たい。

「愛? 愛を口にできる女か? 鏡を見てみろ、このブサイクが」

 浩一の言葉は、驚きでも衝撃でもなかった。むしろ、幸子がいちばん納得できる一言だった。これまでが幸せすぎたのだ。甘い囁きを繰り返されてきた今までが、幸子にとっては異常だったのだ。

 幸子はかすかにうなずいた。

「分かってる。私は美人じゃない。はじめから分かってる。あなたみたいな素敵な人とは不釣り合い。なのに、どうして私を選んだの? なんで結婚しようなんて――子供を産めなんて言ったのよ⁉」

 浩一はベッドを出た。脱ぎ捨ててあったズボンを床から拾い上げ、はきながら言う。

「だから、子供だよ。欲しかったのは子供だ。孫、だもんな……」

 幸子は涙をこらえながら、上体を起き上がらせた。シーツの上に、ぽつぽつと染みが広がっていく。自分では、こらえているつもりだった。意地でも涙は見せたくなかった。頬を伝ってこぼれおちる涙がなぜ止まらないのか、幸子には分からない。

 それでも、浩一の言葉は意識に届く。

「孫……って、なに?」

 浩一は何事もなかったかのように、淡々と着替えを続ける。

「バカ……。だからおまえ、男から相手にされないんだ。決まってるじゃないか、孫だよ、孫。母さんの孫。俺の優しい母さんの血筋を残すための、家族さ」

 幸子はぼんやりと浩一を見つめた。

「母さんって……だって、亡くなっているんじゃないの?」

 浩一はシャツを拾おうとして屈んだまま動きを止めた。蝋人形のように固まって、首だけをめぐらせて幸子をにらむ。

「母さんが死んだ……?」

 浩一の目が赤い照明を反射してかすかに光る。その奥に、見間違えようのない狂気の揺らめきが見えた。その瞬間、全てが理解できた。

〝狂ってる……。そうなんだ……この人、狂っていたんだ……〟

 幸子は、その事実を素直に認めた。不思議なことに、恐怖も落胆も感じない。感覚が麻痺していたのかもしれない。はじめから何もかもを見通していたのかもしれない。

〝でも、なんだか、よく分かる……〟

 なぜそう感じたのか、幸子は不思議に思わなかった。考えようともしなかった。それは、無意識の領域から発せられたサインだった。幸子もまた浩一と似た病を心に宿していたのだ。心の奥底に抑圧された、堪え難い苦痛――。

 浩一の表情に、小学生のような幼さがにじみ出る。

 愛した男の正体を思い知った幸子の目には、なぜか浩一の意識が退行していく様が手に取るように見えた。浩一の意識は今、子供に戻っている――。

 幸子は直感的に、どう対処すべきかを選んでいた。

 幼児に語りかけるように言った。

「あなたのお母さんは死んだ。あなたが言ったのよ」

「僕が……?」

 幸子は浩一を哀れむように見つめ続ける。

「そう。あなたが」

 浩一の口調が、子供っぽく変化していく。現実を否定している。

「嘘だ……。そんなの嘘だ……。ただ、ずっと会っていないだけさ。母さんは生きてる……。僕と一緒に暮らせる時を待ってるんだ……」

 困難に直面する事を拒み、幼児へと後退し始めている。

「お母さまが生きているなら、いつから会っていないの?」

 浩一は屈んだままで、首を傾げた。その表情は、教師に指名されたのに答えの見当がつかない小学生に似ている。

「いつから……? いつから……だろう……。分からない……。僕、母さんにいつ会ったんだろう……」

 浩一の仕草が、初めての集団生活に怯える保育園児に近づく。

 幸子は自分が浩一の母親のような気持ちで語りかけた。

「それでも、生きていることが分かるの?」

 浩一は着替えも忘れて、不意に背筋をのばした。いきなりズボンのポケットに手を突っ込み、札入れを引き抜く。それを広げると、一枚のカードを取り出した。

「生きてるに決まっているじゃないか! これが証拠だ!」

 浩一はベッドに歩み寄り、幸子の目の前にカードを差し出した。

 幸子は不意の動きに驚いて身を強ばらせながらも、それをじっと見つめた。写真だ。薄暗い照明だけでも、はっきり見えた。

 古ぼけた、女の写真――。バーカウンターの片隅で写したような、作り笑いの女。セピア色にくすんだ画面の中に、妙に目立つほくろが一つ――。

 幸子の背筋にこれまで感じたことがない恐怖が走り抜けた。

「うそ……」

 浩一が満面に屈託のない笑みを浮かべた。声は、母親に甘える幼児になりきっている。

「これが僕の母さんさ。美人だろう? 僕にそっくりだろう? 待ってるんだ。僕が家族を作って、一緒に暮らせる時を待っているんだ。孫ができたら、帰ってくるんだ。だって、おばあちゃんになるんだから。孫がかわいくないおばあちゃんなんて、いるはずないんだから。だから、必ず帰ってくるんだ」

 幸子は、涙を流すことさえできなかった。

 写真はピントが甘く、手垢にまみれていた。それでも、写された女の顔は見て取れる。ベリーショートの髪も――。

 浩一の母親は高橋美樹にそっくりだった。じっくりと比較すれば瓜二つとはいえない。だが上を向いた鼻と、その下のほくろが同一人物であるかのような強い印象を残す。幸子の中で全ての疑問が結びつき、一気に解けた。

 高橋美樹は、浩一にとっての鍵だったのだ。その鍵が、浩一の心を閉じ込めていた牢獄を開いた。

 美樹が語った浩一の不自然な行動の意味が飲み込めた。美樹は、付き合いはじめた当初の浩一が『子供がいる夫婦のように振舞った』と言った。その理由さえもが、納得できた。

 雷に打たれたように、一瞬で――。

 過酷な人生と独りで戦う浩一は、ずっと母親の亡霊を追っていた。浩一は、『家族』を持つことを乞い願っていた。美樹に出会った時、浩一はそこに母の面影を見いだした。そして、自分を『父親』の立場に置いた。無意識に、自分をこの世に産み出した『愛し合う夫婦』を再現しようとした。自分が生きた環境とは対局にある、幸せに満たされた『家族』。どんなに求めても決して与えられることがなかった『暖かい団欒』。父親に手を引かれる『愛の結晶』。それは、幼い日の自分だ。浩一は、美樹との間に過去の自分を見ていたのだ。そして、幻にありったけの愛情を注ぎ込もうとした……。

 しかし甘い幻想は、別れ話によって打ち砕かれた。夫婦のまねごとが続けられなくなった時、幻の『浩一少年』は居場所を失ない、死んだ。同時に『父親』もこの世から消え、浩一は浩一自身に戻った。

 それでも、そこにはまだ美樹がいる。浩一は、美樹を愛している。愛したつもりでいる。だが、子供が、自分の母親を女として愛することは許されない。浩一はこのジレンマに遭遇し、美樹は単に母親に似ているだけの女だという現実を認めた。なのに一方で、いったん見てしまった母の幻想が忘れられない。家族の暖かさを求める気持ちが捨てられない。そして母の愛情への乾きが、次の嘘を生み出した。

 自分が家族を持って子供を作れば、母親は帰ってくる。孫が生まれれば、帰ってこないはずがない、と――。

 その時から浩一にとって、孫を作ることが母親との再会に欠かせない絶対条件になった。『子供を生むためには、美樹と結婚しなければならない』と思い込んだ。美樹にストーカー行為を繰り返したのは真実だったのだ。母親を取り返す手段として、浩一は美樹を必要としていた。方法は、選ばない。だから浩一は正木真奈美を破滅させ、次に幸子に接近した。

 そして、あの夜。

 黒ずくめの陰として、幸子に襲いかかった――。

 美樹を追い詰めるために――。

 子供を生ませるために――。

 母親を手に入れるために――。

 だが、願いは果たせなかった。

 そして、予想外の事態。幸子の流産。

 いったんは子供ができたことを知ると、またも浩一の内面は激変した。重要なのは『孫を産む女』ではなく、『孫』そのものだと気付いたのだ。美樹は手に入らなくても、孫さえできれば母は帰ってくる……。

 その結果、浩一が美樹に与えた役割までがすり変わった。

 美樹は自分のものにならない。まるで、会ったことすらない母親のように――。あまりに遠く、手が届かない二人の女。その諦めが、再び浩一の中で二人の女を重ね合わせた。

 美樹は母親に似た女から、再び母親そのものに姿を変えた。そして積み重ねられた嘘は、浩一にとって『唯一の真実』として心に堅く根を張った。

 もう一度子供さえつくれば……子供を産むのが、誰であろうと……優しい母さんと一緒に、家族に戻れる……。

 浩一は、自分自身を嘘でだましたのだ。その嘘を心の底から信じ込んでしまったがゆえに、浩一は大介にも真剣に結婚の許しを乞えた。幸子を徹底的に欺くことができた。そして幸子の不妊を知った瞬間、全ての嘘が崩れた。母親は写真の中から出ることを許されず、真に葬らなければならなくなった。

 浩一にはそれが許せない。自分の嘘を認められない。認めれば、自我が崩壊する。だから危険を回避する本能が精神を幼児に後退させ、全てを忘れさせようとしているのだ……。

 幸子の幻想も、浩一の嘘と共に破綻した。

 幸子は母親のように浩一を見つめた。なぜか、不安も恐怖も消え去っている。自分を騙し続けてきた浩一を憎む気持ちも湧かない。

 浩一を理解し、許せるような気持ちになっていた。自分もまた、母親の愛情を渇望しながら逆境に耐えてきたのだから。

「母さんが欲しかったのね……」

 浩一は、玩具を買ってくれない母親を責めるように幸子をにらむ。

「おまえが悪いんだ! 子供を産まないから、母さんは帰ってこないんだ! 母さんは僕を見ているのに、知らんぷりするんだ!」

 幸子は浩一に向かって両手をのばした。その意味が理解できないのか、浩一は首を傾げる。

 幸子はつぶやいた。その一言が、自然に口を突いて出た。

「おいで……坊や……」

 浩一は、にこりと穏やかに微笑む。

「母さん……?」

「おいで……」

 浩一はベッドに腰掛け、母親に抱かれる幼児のように、幸子の胸に頭を委ねた。そして、眠った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る