幸子は気力を振り絞って、血に染まったボタンの意味を語った。救いがほしかった。自分を信じられない不安と恐怖を、誰かに吐き出したかった。だから何も隠さなかった。真実だけを語った。

 洋は幸子が話すに任せ、厳しい目つきで一言一言に聞き入る。

 五分後、洋は幸子が全ての怖れを出し尽くしたと納得したようだった。キッチンに立つと、コンビニから買ってきた紙コップ入りのココアに熱湯を注ぎ、幸子に手渡す。そして、疑問を確認しはじめた。

「もし君が美樹を傷つけたのなら……。君は意識を失いながら、彼女を襲ったことになる。二重人格――みたいなものか?」

 幸子がもっとも恐れていた結論だった。

「やっぱり、精神病?」

「やっぱり?」

「先生に言われたの。『子供の頃の嫌な記憶を抑圧してるんじゃないか』って。それで二重人格になったのかも……」

「詳しい検査をした上での結論かい?」

「いいえ。見習い先生の推論――というより、願望かな。別の先生は、何でもないって……」

「でも、可能性はあるかも……」

「記憶の抑圧って、危険なの?」

「本で読んだことはある。危険だとは決めつけられないらしいけど……。君は何も覚えていない。なのに、ここで誰かが血を流している。君がやったのなら……」

「私、どうしちゃったんだろう……」

「これまでに意識を失ったことはある?」

「貧血とか立ちくらみなら時々あるけど、いきなり倒れたことはない。公園で襲われた夜がはじめて」

「恐怖から逃れるために意識を遮断した……とうことか? 先生は他に何か言っていた?」

「心配するなの一点張り……」

「本当に異常がないのか、ストレスを与えまいと気づかったのか……。確かめる方法がない。病状を隠しているなら、部外者が調べ出せるはずもないし……」

「明日、聞いてきます」

「間に合わないかもしれない」

「でも……」

「いちばん引っかかるのは、美樹が襲われた後のことだ。君と美樹はこの部屋に二人でいた。もし君が危害を加えたのなら、美樹はどうやって逃げた? 自分で動けないほど傷つけられたなら、誰がこの部屋から連れ出した? 誰が血を拭き取った? 君が気絶していることを、誰がお父さんに連絡した?」

 幸子は焦っていた。気持ちが空回りするばかりだ。

「思い出せない……」

 洋がつぶやく。

「三枝が来たのなら、美樹を連れ去ったのかも……」

 幸子は心の中で叫んだ。

〝嘘! 二人で逃げようとしていたのに、なんで美樹なんか⁉〟

「浩一さんとは携帯で落ち合う場所を決める手はずなの……」

「だが、連絡がつかない。三枝が犯人なら、隠れるのは当然だ。美樹を監禁しているのか……。今は無事を願うだけだ。たった二日連絡が取れないだけだから、警察にも助けてもらえない……」

「でも、誰が失神していた私を助けたの?」

「それは君のお父さんだ。病院に聞けばすぐばれる嘘はつかないだろう」

「じゃあ、誰が父さんに知らせたの? 最初の疑問が解けない」

「たとえば……美樹は傷を負ったが、逃げる力は残っていた。その時、君は意識を失っていた。美樹は安全な場所に去ってから、君のお父さんに連絡を入れた……とか」

「なぜ知らせたの?」

「倒れた君を気づかったんだろう」

「あの、傲慢な人が?」

 洋は小さく肩をすくめる。

「事件に巻き込まれて晒し者になるのが嫌だったのか……。君がこの部屋で死んだりすれば、警察が捜査に乗り出す。君のお父さんは当然証言するだろうから、美樹や三枝の名前も公になる。下手をすれば、美樹が殺人犯扱いだ。そこまでいかなくても、ワイドショーのレポーターは見逃さない。資産家の娘、だからな」

「そうかもね。でも父さんは『美樹ちゃんには異常はない』って言っていたのよ」

「心配かけたくなかったんだろう」

「嘘なの?」

「おそらく。たぶん君のお父さんは、美樹が怪我をしていることを知っている。一方の美樹は、これ以上の危険を避けるためにどこかに隠れた。そして居場所を悟られないように、連絡を絶った……」

「そうなの、本当に?」

「希望的観測。美樹が無事ならそれでいい。だが、このままじゃ確かめられない……」

「私たちにできること、ある?」

「まず、君のお父さんから何があったか聞きたい」

 幸子はうなずいた。

〝美樹ちゃんが無事なら、浩一さんも罪を犯していない。私が美樹ちゃんを傷つけたのなら、心が壊れちゃったことを認めて謝るだけ。お願い、美樹ちゃん、無事でいて……〟

「父さんの部屋に行ってみましょう」

「無駄だろう……」

「他にできることがある?」

 洋は渋々うなずいた。

「お父さんはまだあのマンションに?」

 洋は一度だけ、幸子が大介と暮らす部屋を訪れたことがあった。

「ええ」

「行こう」

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