6
幸子は古い木の階段を上るのに、一分間をかけた。足が思うように動かない。洋の苛立ちが、背中に突き刺さるように感じられる。それでも洋は、幸子の負担を減らそうと、精一杯我慢している。その気づかいが分かっていながら、思い通りに進めない。
〝きっと部屋に入れば、私が美樹ちゃんに何をしたのか分かる……。恐い……。自分が自分じゃないみたい……恐い……〟
幸子は、鍵をドアに差し込もうとしたまま立ちすくむ。
洋が横から手をのばす。
「急ぐんだ」
幸子は、抵抗もせずに鍵を奪われた。洋は無造作にドアを開け、幸子を廊下に残したまま部屋に入った。幸子は戸口に立ちすくんで、洋の背中を見つめる。洋は廊下から差し込む明かりを頼りに照明のスイッチを押した。そこが自分の部屋であるかのように奥に進み、窓際のポータブルヒーターのスイッチを入れて温度を最大に上げた。
振り返ると、立ちすくんだままの幸子に向かって溜め息をもらす。
「早く入って。暖まらなければ身体を壊す」
幸子は動けない。
洋が声のトーンを上げた。
「甘ったれるな! 君がそれじゃ、三枝は探せない!」
幸子ははっと我に返って身を震わせ、中に入ってドアをしめた。
「ごめんなさい……」
洋は部屋に入る幸子のぎごちない動きを見て、皮肉っぽく笑った。
「それじゃ、君がお客さんだ」
幸子ははじめて見る部屋のように、ゆっくりと室内を見回した。洋も同じように、ささくれて黄ばんだ畳を見る。二人の視線が同じ場所に止まった。流し台の下――フローリングと畳の境目に〝それ〟はあった。畳の色が、直径五センチほどの範囲で赤黒く変色している。幸子はコートを脱ぐこともできずに、変色した部分を見下ろして硬直した。
洋はそのシミに歩み寄り、四つんばいになって鼻を近づけた。手を触れる。
「畳の目の奥に汚れがこびりついている。洗剤の臭いもする。まだ新しいようだ」
幸子がうめく。
「何なの……?」
洋は厳しい眼差しで幸子を見上げた。
「血……なのか?」
幸子は首を横に振る。まるで、油が切れかけたゼンマイ仕掛けの人形のように。
立ち上がった洋は、両手で幸子の肩をつかむ。
「どうなんだ⁉」
幸子がつぶやく。
「分からない……分からない……」
幸子の怯えた表情を見た洋は、ゆっくりと質問した。
「前からあったシミではないんだね?」
幸子はうなずく。
「見たことない……」
洋は幸子の肩を優しく下に押した。
「とにかく座って。落ち着いて思い出してみよう」
いったん膝を折った幸子は、崩れるように畳に座りこんだ。その目は流しのシミから離れようとしない。
「あれ……血なの?」
「分からない。だが、誰かが汚れを拭き取ろうとした。誰だ?」
「知らない……目が覚めた時は病院だったから……」
「その前にこの部屋で、美樹と二人きりで話をしたんだろう?」
「それは覚えている。でも、何を話したのかは……」
洋は焦れったそうに眉間にしわを寄せた。
「これが血なら、誰かがここで怪我をした。君は傷を負っていない。美樹だとしか考えられない。あるいは美樹は……」
幸子には言葉を呑み込んだ洋のつぶやきが聞こえたような気がした。
〝殺された……? そんな……〟
「美樹ちゃんを、私が……?」
「本当に覚えていないんだね?」
「私が美樹ちゃんを殺したの……?」
洋はしばらく考え込んでから、幸子をなだめるように言った。
「それはない。死体が一人で消えるはずはない。君のお父さんだってこの部屋に来ているんだろう? たとえ怪我をしても、自分で逃げられる程度のはずだ」
幸子の目にかすかな光が戻る。
「そうよ、父さん! 父さんは、ここで美樹ちゃんと会ってる! 私が倒れたことを知らせたのは美樹ちゃんなんだから……」
洋は首を横に振った。
「確認できないんだ。まだ連絡がつかなくて」
「私も……。父さん、どうしちゃったのかな、こんな時に……」
洋はふと気づいたように尋ねた。
「君のお父さんはこの部屋の合鍵を持っていた。渡したのか?」
「まさか……。大家さんから借りたみたい」
「他に合鍵を持っているのは? 三枝は?」
かすかな沈黙の後、幸子はうなずいた。
「持ってる」
洋は小さくうなずいた。
「やっぱりな」
洋の表情を見た幸子に不安がふくらむ。
「なんなの……?」
「別の可能性だ。君と美樹が部屋を出てから、それを知らない三枝が無人の部屋に入る。そこで誰かと争いになった、とか……」
幸子の頭にとっさに大介の顔が浮かんだ。
〝浩一さんが来たの? 父さんと鉢合わせして殴りあいに⁉ 父さんが本気になったら、殺されちゃう……! それとも……誰かって、見張ってたヤクザ⁉ わたし、なんで何も覚えてないの……?〟
幸子の考えを読み取ったように、洋が言った。
「なぜだ? どうしてみんなと連絡が取れない? 君のお父さんまで……。みんな、どこで何をやっているんだ……」
幸子は、自分たち以外の人間がこの世から消え去ってしまったような不安に襲われていた。
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